「どうやったら失くすのよ? こんな狭い部屋の中で」 見るからに呆れた顔をするウィンリィに、うるせーよ! と言いかけて、エドワードはひとつ、盛大にクシャミをする。 「……っかしーな」 鼻をすすりながら、エドワードはテーブルの上をひっくり返し始めた。テーブルの片隅に寄せられた機械鎧の図面の下を覗いたり、工具箱を開けて中身を物色し始める。読みかけの本を引っくり返してみる。 しかし、テーブルの上に置いておいたはずの銀時計はどこにも見当たらなかった。ウィンリィらが見守る中で、エドワードはテーブルの下を覗き込み、それだけでは気持ちが収まらないのか、床の上に四つん這いになって探し始める。 見るからに焦り始めている兄の様子に、アルフォンスも鋼鉄の身体を重々しく動かした。エドワードとは背を向ける格好で、兄が探していない部分の床にキョロキョロと視線を彷徨わせる。 ウィンリィは整備の後片付けをしながら、探し物を始めた兄弟を横目に見た。工房の主人であるガーフィールは綺麗好きだ。一見雑然としている整備室だったが、それでもウィンリィの部屋よりは断然に綺麗だったし、物の場所もきちんと決まっている。メンテナンスに使用した材料や道具を、元あった場所に片付けなければならなかったので、これが終わったら手伝ってあげようと、ウィンリィはぼんやり思う。銀時計がエドワードにとってどういうものなのか、ウィンリィもよく知っていたからだ。 「あんた、さっき朝ごはん食べに行ったじゃない? そのときは持ってた?」 ふと思い出して、工具を箱に仕舞いながら、床に這いつくばる幼なじみにウィンリィは何気なく声をかけた。 「えーと……」 彼女の言葉に、どうだったっけ? とエドワードは思い出そうとする。 「一応見てきたら? 思い出すかも」 あたしもしょっちゅう物をどこにやったか分かんなくなっちゃうのよねぇ、と冗談めかしたようなウィンリィの言葉を、最後まで聞かずに、エドワードは彼女の横をすり抜けて、部屋の扉に向かう。 「……せわしないったらありゃしない」 扉に消える瞬間、エドワードの焦ったように強張った顔が見えた。それでも、ウィンリィはなんだか心に小さなまるい穴が空いてしまったような気持ちになる。いつもならそれほど気にもしないだろう。だが、先ほどから心の中で引っかかっている彼の発言が拍車をかけていたからかもしれない。 「ほーんと、兄さんって、せっかちっていうか、落ち着きないっていうか」 床の上に視線を走らせるアルフォンスがフォローするように言葉を継ぐ。まるで兄に対する自分の愚痴を零しているように見えて、実はそうではないことをウィンリィはなんとなく察知する。だから、床に腕と膝をついたまま探し物を続行する巨躯の幼なじみの言葉に、ウィンリィは小さく苦笑を浮かべた。 幼なじみ二人は兄弟だけれども、まるでその性格が違っていた。その冷たい鋼鉄の体躯からはとても容易に連想出来ない、彼のそのさりげない気遣いが優しくて、少しだけ冷えて固まりかけてしまっていた自分の心がとろりと柔らかくなるような気がする。 「あーあ」 ウィンリィは肩をすくめて、冗談めかしたような口調で呟いた。それはどこまでも冗談でしかなかった。 「あいつじゃなくて、アルだったら、もっと優しくしてくれるんだろうなぁ」 「なに言ってんの。ウィンリィは兄さんじゃないとだめなんだろ。兄さんだってそうだし」 「そーだけ……ど」 ん? とウィンリィの唇は異変を感じてようやく止まる。しかしほとんど答えてしまった後だった。 「え?」 鉄製の道具箱の蓋をパタンと閉めた。閉めながら、ウィンリィの顔は驚きを隠せずに、床にしゃがむアルフォンスを凝視する。 しかしアルフォンスはウィンリィのほうを見てはいなかった。ただひたすらに床の上、雑然と並ぶ機械鎧の入った箱や工具箱の後ろや間を物色している。 沈黙がひとつ落ちたあと、ウィンリィはどこか諦めたように小さく息をついた。もちろん、隠せているとは思っていなかった。それでもなんとなく、そろりと自分の足元を掬った感覚が、罪悪感めいているのはなぜだろう。 「そう、なんだよね」 あまりにも答えは易しかった。結論はアルフォンスすら気づくほどに易しいのだ。だが、それにいたるまでの感情も行為も、いつも難し気がする。証明式の答えを解くのは簡単なのに、それにいたるまでが複雑なのだ。……もしかしたら、複雑にしているだけなのかもしれないが。 ウィンリィはぽつんと呟いたあと、押し黙る。 「あの時計ってさ」 アルフォンスは視線をせわしなく動かしながら言葉を継ぐ。 「銀色で、軍部の紋章が入ってる、この位のサイズ、だったよね」 「そうだったと思うけど」 工具が入った箱をよっと抱えながら、ウィンリィはアルフォンスのほうへと近づいた。彼がしゃがんでいるすぐ脇にある引き戸棚の一番下に、工具箱を仕舞おうとする。思わず彼女から箱を受け取ろうとしたアルフォンスだったが、ウィンリィはいいよ、と首を振った。それをうけて、アルフォンスは戸棚の一番下の引き戸をあけてやる。 「ありがと」 ウィンリィは小さく笑って、アルフォンスの親切を素直に受け止めた。 「……銀時計がどうかした?」 工具箱を仕舞って引き戸を元に戻すと、ウィンリィはアルフォンスに聞き返した。いまさら何かを確かめるかのように銀時計の形を訊いてきたアルフォンスに、なんとなく引っかかりを覚えたのだ。 「ボク、あんまり見たことないからさ。だから、どんな形だったかなぁって……」 「そう、なの?」 「そうだよ」 床にしゃがんだアルフォンスに倣うように、ウィンリィもしゃがんだまま彼の鋼鉄の表情を見つめた。 「兄さんってほとんど見せないんだ。触らせてくれたこともあんまりないし」 「……」 ウィンリィはふと記憶を呼び起こす。このラッシュバレーで、エドワードの時計の中身を見てしまった日のことを。何も知らないまま、軽い気持ちのまま、彼が彼を自身で縛っている戒めに土足で踏み込んだ日のことを。(アルにだって見せたことないんだぜ) 怒った彼が、それでも自嘲的にウィンリィにそう告げた。はからずも土足で踏み込んだ形になったけれども、初めて彼の心情を知った、そのきっかけになったあの時計の中身を、ウィンリィは知っているけれども、アルフォンスは知らない。 記憶に逡巡するウィンリィのすぐ傍で、ボクだってさ、とアルフォンスは言葉をなおも続けた。 「国家錬金術師なら、ボクだってなってよかったんだ。そうしたら、兄さん一人に負わせられずに済んだのに、っていっつも思う」 「……」 「別にロウト君みたいに国家錬金術師に憧れているわけではないけど。でもさ、兄さんひとりにいろんなことさせてるみたいで……」 アルフォンスはしゃがんだまま、木目の床を睨んで言葉を一瞬切る。 「……すごく、切ない」 共有したいことは多いのに、共有できない。させてくれない。それは、後ろめたいからだ。ウィンリィには分かっていた。アルフォンスも同じ。エドワードも同じ。そしてウィンリィも。 (あたし達三人は、たぶんきっと、誰よりもずっと近くにいるのに、近づき合えない) 切ない、と呟いたアルフォンスの言葉が、ウィンリィにも切々とした想いを伴って、心の中にふるふると落ちてくる。 近いからこそ踏み込めないものがある。好きだからこそ、愛しているからこそ、知りたいのにそれ以上手に入れられないと悟ってしまう物がある。それに喘ぎながら、この澱みなく溢れる感情を感情で塗り重ねていくしかないのだ。足りない、足りないと喘ぎながら何度も何度も。 アルフォンスの身体がない現実を、物理的に共有できない事実がエドワードを苦しめていることをウィンリィは痛いほど知っていた。だから彼は言えない。だから彼は自分を自分で縛ろうとする。その自縛もまた自分自身に起因する罪の証だと答えを出した彼は、だからアルフォンスを銀時計から遠ざけるのだ。アルフォンスとエドワードの間に物理的に共有出来ないものがあるからこそ、アルフォンスと銀時計の中身を共有させない。共有を許さない。それが罰だと答えを出してしまったから。 その戒めがかえって、アルフォンスに「兄さん一人に負わせられずに済んだのに」とアルフォンス自身が抱える後ろめたさを嘆かせてしまう原因になっているのに、エドワードは分かっていないのだ。 「……ごめんね、なんか、愚痴っぽくなっちゃったよ」 思い詰めた表情で押し黙ったウィンリィに、アルフォンスは少し慌てたように明るい声をあげた。 「ううん、そんなことない」 ウィンリィはかぶりを振って、アルフォンスを真っ直ぐに見つめた。 (あたしだって同じ) アルフォンスの現実をヒトカケラでも共有することが出来ない。そして、アルフォンスのようにエドワードと旅をすることも出来ない自分は、ただいつも待つしかないのだ。それがいつもどこかもどかしくて、何か出来たらいいのに、何か共有できたらいいのに、と喘いでいる。少しでも二人の人生に関わっていたくて、それがもしかしたら、何の罪も知らない自分のワガママなのかもしれないと時折後ろめたくなりながら、整備師になって、ラッシュバレーに修行に来たのだ。 (共有できないのも、共有させないものも、お互いにある) だから、アルフォンスの言葉が切々と沁みる。 ウィンリィは手を伸ばす。アルフォンスの鋼鉄の手をとる。 「そんなことないよ、アル。…分かるよ」 (分かりたいの。だからせめて分かるって言わせて) 指先に固く冷えた鉄が当たる。それをきゅっと握って、膝をついたままウィンリィはアルフォンスを見上げた。 「ちょっと、嬉しいかも」 「え?」 小首をかしげるアルフォンスに、ウィンリィはほのかに笑んだ。 「アルがこうして愚痴ってくれるの。アルって、何も言わないじゃない。……だからね、嬉しい」 へへ、とウィンリィはニッカリ笑ってみせた。しかし喉と鼻と目の奥がツーンと痛かった。涙を無理やり飲み込んだからだ。 うまく笑ったつもりだった。それでもアルフォンスには、彼女の目がしっとりと潤んでしまっていることを悟ってしまう。 「ウィンリィだって」 きゅ、と音を立てて、彼女が伸ばしてきた指先を握り締める。逃さないように、離さないように。 「ボクに愚痴りたければ、愚痴ればいい。言いたいことがあれば、言えばいい」 「……うん」 ウィンリィは切なげに蒼い瞳を伏せた。握られた手が冷たい。それでも、なんて優しい手なのだろう。 「アル」 指先を見つめたまま、ウィンリィは小さく呟いた。 「じゃあ、ひとつだけ、聞いて」 「なに?」 うながされたウィンリィは伏せた睫をふるふると震わせながら、ゆっくりと唇を開く。今だけでいい、優しくなりたかった。普段は優しくなれないから、せめて今だけ。 「エドの、銀時計のこと」 え、とアルフォンスは驚いたように一瞬声を詰まらせた。 |