chapter11
ざわついていた会場が、ただよう波のように徐々に静かになっていく。
リンの隣で、
減らないグラスの中身をふらふらと揺らせながら俯いていたウィンリィは、
光の満ち溢れた煌びやかな会場内の雰囲気のゆるやかな異変にようやく気づいた。
顔をあげて、
心臓がひやりと凍りつくのを自覚する。
ホールにはそれこそたくさんの人間がいた。
会場の半分くらいは、シン国人らしい風貌の人間が占めている。
二つのファミリーが一同に会していて、
この結婚が成功するのを見守っているはずだ。
成功すれば、この世界で一番の勢力を誇っているホーエンハイムの組織を
しのぐくらいの規模に組織は成長する。
それなのに。
心臓が痛いくらいに呼応するのが、ウィンリィには分かる。
目の前に、金髪金目の男がいた。
選んで、といわれて、拒絶した。
それで、おしまいだと思った。
感情に蓋をして、流れのままにこの結婚を受け入れようとした。
しかし、今胸の中を巡る感情は、
蓋をしようにも溢れてくる。
「驚いたナ」
慌てた風も無く、リンは穏やかに言った。
「君、正気?」
ああ、と男は明瞭に言った。
強い金目が、真っ直ぐにウィンリィだけを見ている。
「そうとは思えないなァ」
リンは、側にいたウィンリィをするりと抱き寄せる。
唐突にことに、ウィンリィは思わず手にしていたグラスを落とす。
ガラスが砕ける音が耳によく響いたのは、
その場が不気味なほどに静まり返っていたからだ。
その場の誰もが、
侵入者の名前を知っている。
敵であるあの男の息子の名を。
「エドワード・エルリック、だったかナ」
ひとりでよくこんなとこに来れたネ、とリンは哂った。
エドワードはその言葉を無視して、ぽつりと言う。
「賢者の石。渡してもらおう」
リンにきつく抱き寄せられていたウィンリィは、
思わず自分の右手にはめられたそれに目を落とす。
…やっぱり、これだけが目当てなの。
失望にも似た感情が、そろそろと這い出てくる。
それを知ってか知らずか、
リンはなおも哂った。
「それだけ?石だけでいいの?」
エドワードは答えない。
しかし、その視線をたどればその先にいるのはパールホワイトのドレスを着た幼馴染がいる。
そのいでたちはまるで花嫁のようで、
それがなんだかエドワードをいらいらさせた。
その右の薬指には、血のように赤い石が光っている。
「命知らずだネ。
ホーエンハイムの息子じゃないノ?」
そういうの猪突猛進って言うんだけド、とリンはなおも哂う。
気がつけば、
会場内のいたるところに、銃を取り出した男達がいる。
その銃口は一点に集中するように、
リンとウィンリィに対峙するエドワードに絞られていた。
「やめて…っ」
ウィンリィは動転のあまり、
心臓の音に飲み込まれそうになるような、そんな動揺に崩れそうになる自分を
なんとか叱咤しながらリンにすがった。
駄目だヨ、と、リンは
恐怖に歪んだウィンリィの顔を上から見下ろしながら冷酷に言う。
「言ったでしョ。…泥棒猫はちゃんと追い払うって」
表情をこわばらせたウィンリィもまたいいな、と思いながら、
リンは目配せする。
それは、殺せ、という合図だ。
しかし、それより半テンポほど、エドワードのほうが早かった。
「…………大佐!」
エドワードとリンの距離は十数歩分。
エドワードは獲物に飛びかかる獣のように身を低くかがめて
脱兎のごとく奔った。
狙うはリンだ。
それと同時に、扉が乱暴に蹴倒される音がいくつも響く。
ホールへの入口は4箇所ほどあったが、
そこから幾人もの兵卒が青いなだれのように押し入ったのだ。
そして、動くな、という凛とした声が切り裂くように会場に響く。
誰もが動けなかった。
ホールの真ん中辺りの金髪の男に、
一斉に銃は向けられていた。
しかし、発砲の音は全く聴こえなかった。
エドワードの金の両目が、一心にリンを睨みつけている。
その右手には、黒い銃がひとつ。
突き刺すように差し出したそれは、ひたりとリンの額を突いていた。
「はやい…ナ」
わずかに息を呑んで、
リンが擦れた声で言った。
開いてるか分からなかったその細い目が、初めて表情を見せるようにわずかに見開かれる。
「どうも」
一応マフィアの息子なんでね、とエドワードは低く返す。
錬金術も殺しも戦術も、ひととおりなら仕込まれた。
それが、自分の道を開くために少しは役に立っているらしい、と
エドワードは皮肉なものを覚える。
銃を突き出したまま、エドワードはウィンリィを促す。
そろそろとウィンリィの体はリンを離れる。
「いいノ?」
銃を突きつけられたまま、リンがぽつりと言う。
びく、とウィンリィの体が固まる。
「ウィンリィ…。聞くな。」
エドワードは眉をしかめて、
リンの言葉をさえぎろうとするが、リンはやめない。
「この協定が駄目になれば、血で血を洗うことになるヨ」
ウィンリィは唇をかみ締める。
エドワードに差し出しかけた腕を下ろそうとした。
しかし、
エドワードが空いた左手でそれを強く掴む。
「あ」
ウィンリィは転ぶようにエドワードに引き寄せられた。
「…エ、ド……」
やっぱり駄目……と言いかけたウィンリィだが、
エドワードはそれを許さない。
「賢者の石もこいつも、オレが頂く」
力強い口調だった。
「そこまでだ」
凛と響く声が背後から聴こえる。
エドワードの後ろから、
軍服に黒いコートをまとった黒目黒髪の男が近づいてくる。
胸に光る階級章は佐官級。
ロイ・マスタング大佐だった。
「銃をおろせ。エドワード」
エドワードは降ろそうとしない。
マスタングは一息ついてから、
周りを取り囲むようにしているリンの部下に言い渡す。
「ボスを殺されたくなかったら銃をおけ」
集団は、迷うようにぱらぱらと銃を置きだす。
リンはそんな様子を唇をかみ締めながら見ていた。
「こんなの、聞いてないゾ」
何がだ、とエドワードはいぶかしげに、銃を突きつけたままリンを見る。
「リン・ヤオ。密造酒の密輸の嫌疑で捜査させてもらう」
リンの言葉を気にした風も無く、
エドワードの背後で、令状を示しながらマスタングが声高に言う。
「どーいうことダ…。なんで軍が出動する。
こいつの企みは全てとめられるはずじゃなかったのカ」
何言ってるんだ、こいつ?とエドワードは首をかしげるが、
近寄ってきたマスタングに銃を下げられる。
「もういいだろう。終わりだ」
リンはマスタングをにらみつけた。
「ホーエンハイムは、俺を裏切ったのカ?」
え、とエドワードは目を丸くする。
「そのようだな」
マスタングがあっさりと、リンの言葉を肯定した。
ちょっと待て、とエドワードは慌てたようにマスタングを見返す。
「どういうことだよ!?」
マスタングは面倒くさそうにエドワードを見やる。
周囲では、青の軍服をまとった兵卒が、
銃を降ろしたファミリーの組織員たちに手をあげさせて
一人一人調べ始めている。
リンもまた、マスタングの部下に衣服を調べられている。
「どういうことも何も。最初から計画通りだよ。
賢者の石の情報を君に渡す。情報を受けた君がリンにちょっかいを出す。
君のちょっかいをホーエンハイムがとり収めてリンに協定を持ちかける。
ロックベルよりもホーエンハイムのほうがいいに決まってるからな、
リンがそっちに気取られているうちに
こちらはリンの作った新ルートを潰す。
ホーエンハイムにしてみれば、新ルートが脅威だったのは間違いないらしいからな」
軍とホーエンハイムの癒着を暗にひけらかしながら、
マスタングは淡々と言葉を続けた。
「まぁ、ロックベルにとっても痛い損失だろうが。
つくづく君の父上の狡猾さには恐れ入るよ」
ああ、そうだ、とマスタングは思い出したようにウィンリィの指に目をやる。
「賢者の石、偽物だそうだ」
え、とエドワードは目を見開く。
「ただの石だそうだが」
エドワードは慌ててウィンリィの手をとった。
右の薬指にはめられた指輪を食い入るように見る。
濁った深紅色をしたそれは、一見、伝説の通りの体裁をしている。
「そんな馬鹿ナ…!」
そう言ったのはエドワードではなく、
衣服を改められているリンだ。
マスタングはそれに軽く目をやったあと、
ちらりとエドワードに視線を移す。
エドワードの顔は蒼白だ。ショックを隠しきれないという様子がまざまざと伝わってくる。
「信じられないのなら、…試しに分解錬成でもしてみたらどうだね?」
賢者の石は完全なる物質。伝説ではそう伝えられている。
「…エド…?」
俯き加減になった彼に、ウィンリィが不安そうに声をかける。
しかし、エドワードは何も言わずに不意に両の手を合わせる。
そして、あわせたその手の指先を、
そっとウィンリィの薬指にはまったそれにあてる。
パキリとか細い音を聞いた気がした。
一拍の間を置いて、それはみるみる砂のようにぼろぼろと崩れていく。
「………まがい、もの」
エドワードの声はひどい失望を落とした。
あまりに力ない声に、ウィンリィはおろおろと慌てる。
しかし、数瞬の時を置いて、不意にエドワードは叫んだ。
親父にだまされた!と。
そんなエドワードを見ながら、
マスタングは笑う。
全て、君の父上の計算内だ、とマスタングはしれっと言った。
「まぁ、計算外もあったらしいが」
そう言いながら、マスタングはエドワードの隣で身の置き場をなくしたように
そわそわとしているウィンリィに目をやる。
「そんなわけで、レディ。君の結婚は無くなったわけだ。残念だったね」
マスタングがウィンリィに挨拶をしようと彼女の手に手をのばそうとすると、
エドワードはそれをさえぎる。
「…さわるな」
おやおや、とマスタングは肩をすくめた。
「いい歳してみっともないね、君も」
「アンタに触られると変なのがうつりそうだからな」
失礼な奴だな、とマスタングは呆れたが、
エドワードはウィンリィをかばうように背後に寄せる。
マスタングの噂…その女性遍歴を、エドワードはなんとなく聞き知っていたからだ。
まぁ、別にいいが、とマスタングは気を取り直して、
エドワードを見返す。
「そんなわけで。
…君も父上のところへ戻りたまえ」
エドワードは、ようやく思い返したような、はっとしたような表情を浮かべた。
マスタングは、厳しい表情を浮かべたままエドワードを見ている。
「……それも、親父から頼まれたことか?」
「そうだ」
マスタングは率直に頷いた。
「…嫌だといったら?」
ふむ、とマスタングは腕を組む。
「その場合は力づくでも連行するよう命令を受けているが?」
エドワードは、はぁ…っ、と大きく深いため息をひとつつく。
そして、ぽつりと言った。
「じゃあ、なおのこと、嫌だね」
エドワードがそういい捨てたその瞬間だった。
唐突に、
一発の銃声が、辺りにこだました。