chapter9
セントラル一番の高級ホテル。
一番広いホールへ、続々と人が集まり始めている。
別室に控えながら、
パールホワイトのパーティードレスに身を包んだウィンリィはひとつため息を落として、
ホテルの鏡の前に座っている。
鏡の前で、笑おうとした。
しかし、うまく笑えない。
どことなく歪で、不愉快にさえ思ってくる。
そして、
指にはめた石が重い。
ウィンリィは右手の甲を鏡にかざして、
鏡の中の薬指から重い存在感を放つその赤い石をしげしげと見つめた。
その途端に、昨夜のエドワードの声が頭の中に響く。
『選んでよ』
思い出しただけで、眩暈を覚えた。
脳裏に蘇る、囁くような低い声と、抱きとめられたぬくもり。
落とされた唇の柔らかさ。
痺れるように身体を支配する。
「緊張してるみたいだけド、大丈夫?」
不意に違う声がして、
ウィンリィは背後を振り向く。
黒いスーツに身をつつんだひょろりとした長身の男。
「なんでも、ない」
ウィンリィは笑う。
うまく笑えていないことは、自分が一番よく分かっていた。
それを、リンは緊張していると捉えたらしい。
「指」
「え?」
リンは手を伸ばしてきて、
椅子に座るウィンリィの背後から、彼女の右手を絡めとる。
「こっちじゃなくテ、左にしてヨ」
ウィンリィは少しばかり伏せ目がちになりながら、
結婚指輪じゃないからいいじゃない、と小さく言った。
リンから逃れるようにウィンリィは手を引こうとしたが、
リンは離そうとしない。
指を絡めたまま、
リンは身体をかがめてウィンリィの耳元に囁く。
「そんなに緊張しなくても大丈夫。…泥棒猫はちゃあんと追い払うからサ」
ウィンリィの身体がわずかにぴくりと撥ね、
表情に一瞬暗い影が走った。
それを確認しながら、リンは
露出したウィンリィの肩口に軽く唇を落とす。
シンは医療に長けた国だ。
アルコールを使った医療のために必要だという名目で
アメストリスに酒を流す。
悪法にあえいでいるこの国相手にいいビジネスが出来るとリンはほくそえんでいた。
そして、アメストリスの地下に第二勢力を誇るロックベルの娘。
…悪くない取引だ。
唇をゆっくりと離せば、
鏡の中の少女の顔が少しばかり歪んでいる。
ウィンリィの頭の中では、昨夜のことが幾度となく繰り返し蘇っていた。
『選んでよ』
エドワードは昨夜、確かにそう言った。
しかし、ウィンリィはそれを拒絶した。
後ろ髪を引かれる思いを確かに感じながらも、
それでも、ウィンリィはどうしても肯定の言葉を彼に与えることが出来なかった。
『無理よ』
腕の中にいて、彼の顔は見えなかった。
それでも、伝わってくる失望が痛かった。
自分が落としたその言葉に、
ウィンリィは落胆していることを言いながらも自覚している。
言いながら、既に後悔していた。
自由にしてやる。
彼はそう言ったのだ。
だが、ウィンリィは踏み切れずにいた。
『全部、捨てる。』
彼はハッキリと言った。
『お前が選んでくれたら。
そうしたらオレも自由になる。
全部捨てて、全部選べる。』
だから、と彼は食い下がった。
しかし、ウィンリィはイエスとはいえなかった。
『一生、誤魔化して生きるつもり?』
……それは、アンタだって同じじゃない。
泣きそうになるのをこらえたのは、
泣いたらそのまま連れて行ってと言いそうになる気がしたからだ。
…彼は選んで、と言った。けれども。
あたしに選択権なんか無い。
あるのは現実だけ。
この協定を守らなければいけないという現実だけなのだから。
手を放した。
彼は離れた。
わかった、という言葉を残して。
……来た時と同じように、彼は暗闇に消えた。
放さなければよかった。
最初から後悔している。
……ずるいのは彼じゃない。あたしのほうだ。
それがよく分かっていたから、自分が闇に堕ちたような感覚が
心のどこかにずっと突き刺さっている。
…だから、笑えない。
ウィンリィの内心の葛藤をよそに、
リンは彼女の顔をじっと見つめた。
脇に逸らされた青い彼女の瞳は不安定に揺れていて、
少しばかり途方に暮れたように渋面を作っている。
唇は一文字に結ばれていた。
そんな様子に、リンは少しそそられたけれども、
まぁまだいい、と身体を離す。
「少し落ち着いたら、くるといイ。俺は先に行ってるかラ」
彼女が小さく頷くのを確認すると、
リンは部屋を出る。
そして、扉の脇に控えていた部下に、目を離すなよ、と言外に示して、
ホールへと向かった。