小説「Choice」
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chapter7





何が正しいかなんて、誰が決めるんだろう。



ホーエンハイムの屋敷とは正反対の方向に、ロックベルの屋敷はある。
自室にこもったウィンリィは、ひとり鏡の前に座っていた。
結婚が決まったのは7日前。
2日後には結婚式だ。
この早急な出来事に、自分の思考がついていっていないことをウィンリィは自覚していた。
まるで人事のように全てが流れ、過ぎていく。

幼馴染に会った。
もう3日前になる。
これから結婚することになるリンにさえ許してなかった唇を、
あっさりとエドワードに奪われた。

悔しくて、…でも、嬉しくて、
引き裂かれそうになった感情が指し示すものは1つの確かな気持ちだ。


ウィンリィは着ていたバスローブの肩をはだける。
現れた素肌を鏡の前にさらして、
目をこらして左胸のすぐ上の部分を食い入るように見た。

もう、跡は無い。

エドワードに唇を奪われたとき、
脱がせた肌の上に彼は唐突に唇を落とした。
胸のふくらみの、頂に至るすぐ手前。
なぜかそこに、吸うように唇を落としたのだ。

一点だけ、赤く残った痕が、
この3日の間に消えていくのをウィンリィは力なく見ているしか無かった。
今でも頭の中にこびりついて離れない。
のしかかってこられたときには恐怖しかなかったけれど、
触れた唇はふわりと優しかった。

去り際に彼が与えた言葉を否定できなかった。
拒絶するべきだった、はっきりとした意思表示で。
それは無理な話なのだ、と。
何を選べと言ったのか、何を捨てると言ったのか。
彼が与えた言葉のその意味は、確かめなくても痛いほど分かっている。

何が正しいか、何が間違っているか、
簡単に決めることが出来たらどんなに楽だろう。
あたしはあの時、エドワードに確かに匿ってと言っていたに違いない。
おそらく、全身で。
そして、本当は言いたかった。
「好きよ」と。そうして、
捕まえて、逃げて、と。

それをいえなかったあたしは、選ばなかったからだ。
捨てることが出来なかった。
与えられた結婚の話には、引き換えてはならない価値がある。
そう、教えられた。
義務は無くても人として責任がある気がした。
それをエドワードにいえなかったのは、彼がきっとあっさりとそれを否定するだろうと思ったからだ。
それだけ、あの時の彼にはあまりの唐突さにびっくりしてしまうような力があった。
それを否定されれば、もう受け入れるしかない。
受け入れそうな自分が怖くて、言えなかった。

ロックベルの娘としては正しくても、
誰かを好きになる人間としては正しくなかったのかもしれない。
こうして今になっても、あの時こうすればよかったと悔やんでいる自分がいるのは
その証拠だ。

それじゃあ、選べばよかったのかというと、
それにそうだと答えることも出来ない。

正しいか、正しくないか。
簡単に決める尺度があればいいのに。
そうすれば、感情に振り回されないかもしれない。


エドワードと消えた数十分の間、
何をしていたのかというのは、リンからは問い詰められなかった。
リンの部下は全てを報告しているはずなのに。
それもまた、怖かった。
明日、一足先にお披露目のパーティーをする、と言いに来たリンは、
ウィンリィに指輪を渡した。

『これつけテ、俺の側にいてくれル?』

言葉では頷いたけれど、求められた唇は拒絶した。

リンは怒らなかった。
しかし、何気ない風に付け加えた。
その指輪をつけ狙う泥棒猫がいるんだけど、君ごと守ってあげるから、と。

最初は何のことか分からなかった。
しかし、手繰るように確信は胸に落ちる。
それが、エドワードのことをさしているんだ、と。
次に浮かんだのは疑念だった。
エドワードはこれが狙いで、あたしに近づいたのか、と。

何を信じたらいいのか分からない。
何が正しいのか。


ウィンリィは鏡の中の自分の顔がとてつもなく暗い表情を浮かべているのに気づいた。
花嫁の顔って、こんな顔なの?
自分でそう思ってから泣きたくなってくる。
慌てて、笑おうとした。しかし、笑い方を忘れたように歪な表情しか出てこない。


「……百面相でもしてんの」


唐突に声が落ちてきた。
焦がれたように耳に響く低いトーン。
どこから、と慌てて薄暗い部屋の中を見渡せば、
「ここ」という短い声。

ウィンリィの部屋は東の空に面したテラスに繋がっていたが、
そこに切り抜いたような人影がひとりぶん、立っていた。
ウィンリィが座っている鏡の、すぐ側だ。

「な、んで」
ガラス張りのドアをゆっくりと押し開けて、
黒い影が部屋に侵入してくる。
月の光が淡く人影を照らしていたが、顔は見えない。
それでも、すぐに分かった。

ゆるゆると驚愕の念がウィンリィを襲う。

「あ…んた…!」
何やってるかわかってるの!?と怒鳴りそうになって、
ウィンリィは慌てて言葉を飲み込む。
エドワードは口元に指をしぃっとあてている様子だった。


ウィンリィは少し身構えた。
緊張の念が伝わったのか、
何もしない、と言いながら、人影は降参のポーズをとる。

「入っていい?」
擦れたような低い声が響く。
もう既に部屋には足を踏み入れているくせに、彼は聴いてきた。
今更だわ、とウィンリィは思いながら頷く。
どうせ頷かなくても彼は入ってくる。そんな気がした。

「百面相。楽しいか?」
いつから見てたのよ、と訊きながらウィンリィは顔が赤くなるのを感じる。
「ついさっき」
本当かしら、とウィンリィは闇に溶ける彼の顔を探ろうとしたが、無駄だった。
今はこの闇に感謝するべきなのかもしれない。
自分の顔は彼には見えないだろう。そして、彼の顔も今は見えない。
ウィンリィはゆるゆると自分を襲ってくる現実感から、
目をそむけようと必死だった。
彼の顔が見えないのは、だから幸いだった。

「笑う練習。してた」

ふぅん、と言いながら、
エドワードはゆっくりとウィンリィのほうへ歩を進める。

「笑わないと、幸せじゃないみたいで」
「…じゃないだろ。」

ウィンリィはわずかに目を見開く。
彼はあっさりと言ってのけた。幸せじゃない、と。

ウィンリィは顔を俯くようにして、視線を下に移す。
切り抜いたような人影が音も無く近づいてくる。

警告のように跳ね上がるのは自分の心臓の音だ。
痛いシグナルを出している。
近づいただけで息が苦しくなるのだ。
これは何?
答えは、分かっているはずだった。


「こな、いで」
しかし、エドワードは率直に答えた。無理、と。

「お前にとって、幸せって何?」
「わ、からない」
オレも、とエドワードが小さく同意するのが聴こえた。

「…わかんね」

不意に、彼は身動きする。
手が伸ばされた。
月に照らされ、切り取られた黒い影が動く。
腕をとられて、強く引っ張られた。
吸い寄せられるように足は動いて、
気がつけば抱き寄せられている。

頬を寄せた布越しから、警鐘のような鼓動が聞こえたような気がした。
ああ、違うと、ウィンリィは思い直した。
これは自分の心臓の音だ。
同じ位、ドキドキしている。きっと、二人して。

「わかんねぇけど」
エドワードは少しばかり首を下にかがめて、
ウィンリィの耳元に唇を寄せる。

「…今は、しあわせ。」


ウィンリィはエドワードの背中に腕を回そうとして、
途中でぱたりとやめる。
思い出したことがあったからだ。

「……探し物をしてるって聞いた」
「うん」
「あたしが、持ってるものなの?」
「そう」
「………それが狙いで、あたしに近づいたの?」
「…最初に近づいてきたのはお前だろ」

そういう意味じゃなくて、とウィンリィは言おうとしたが、
エドワードは少し身体を離して、
顔を覗き込むようなしぐさをする。
キスされる、とウィンリィは思わず目を閉じたが、
唇が落とされた場所は、額。


「……何も、しないって言ったくせに」
「…そんなこと、言ったっけ?」
「言った」

まだ何もしてないけどな、とエドワードは小さく呟く。

それを聞いたウィンリィは、
顔はよく見えないけれど、エドワードがなんとなく笑っているような気がした。

顔が見たい。ウィンリィは不意にそう思う。
エドワードの顔の辺りに手を伸ばそうとしたら、
その手は彼の空いた手にとられた。

エドワードは額を寄せるようにして、
こつんとウィンリィの額にあてる。
お互いに、顔はよく見えない。
月の光のおかげで、墨を流したように霞がかっている。


「聞いて」

囁くようにエドワードの声が闇に落ちた。
彼女が感情的にならないように、諭すように、静かに言葉を紡ぐ。


「オレはずっと探してて、でも見つからなくて。
このまま流れのままに生きていくのはどうしても嫌で……」
探すって、賢者の石を?とウィンリィは聞こうとしたが
エドワードは構わず言葉を続ける。
「だからな、お前が結婚するって聞いたときに、正直言うと……」
エドワードは躊躇うように少し間を置いてから
「嫌だと、思った」
「……だから?」
ウィンリィは、押し当てられた額を少しばかり押し返すように
顔をあげようとする。
心臓が壊れてしまいそうなほど、早鐘を打っている。
……だから、こういうことするの?


「それだけでなくて……」
エドワードは唇を少し噛んで、言うか言うまいか迷う。
しかし、言葉は巧く出てこない。

言葉を使うのは難しくて、
だけれど、ウィンリィを前にして吐き出したい感情にうまい言葉を添えられなくて。

「…ぁ」

小さく声が上がって、
床に落ちた二人分の影は小さく身じろいで、軽く重なる。

生暖かいものが触れて、溶けるように熱を帯びる。
息をつくように一瞬唇を離した後、もう一度重ねる。
少しばかり乱暴に舌をねじこまれて、
ウィンリィは思わず逃れようとするが、
エドワードはがっちりとウィンリィの腰の辺りに手を回している。

は、と息をつきながら、ようやく唇を離して、
こっちのほうがラクだなとエドワードは内心呟く。
言葉にするよりも、こっちのほうがずっと直に伝えられる気がする。
それなのに、彼女ときたら。

エドワードに掴まれたままの手とは別のウィンリィの手が、
エドワードの肩口辺りをぎゅっと掴む。
少しばかり力をさらに込めながら、
ウィンリィは、ずるいよ、と言った。


「ねぇ。………だから?」

質問の続き。答えを待っている。
ウィンリィは、落ちた沈黙の中で辛抱強く待つ。
だからこうするの?
だからの、中身は何?

エドワードは息をもうひとつついた。

「オレが、この前言った言葉、覚えてる?」

ウィンリィはわずかに首をかしげる。
エドワードは焦れたように、ほらあれだ、と言葉を続ける。


「お前が選ぶなら、オレは捨てる、って」


エドワードはゆっくりと言った。
オレを、選んでよ、と。






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