小説:「 ヤ サ シ イ 方 程 式 」
She said,"he always has our dreams of futures in his pocket."
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 部屋の中は熱っぽい匂いに蒸せていた。ノックを一つ響かせて、エドワードは扉を押し開く。
 ガーフィール工房の二階にはウィンリィの部屋があった。階段を昇って一本通りの廊下にあがると、その両側にそれぞれ部屋へ繋がる扉が並んでいる。そのうちの部屋一つを、エドワードは整備中の間、ガーフィールの厚意により借りていた。
 トレイを片手に持ったまま、エドワードは後ろ手にドアを閉める。廊下から煌々と漏れた光はあっという間に遮断されて、視界は薄暗い闇に落ちる。
「誰…?」
 か細い声が落ちた。
 部屋に明りは無く、外は暗い。振り続ける雨足だけが、低くしめやかに駆ける。
「オレ」
 一拍の間を置いて、「何」と訊いてくる声はびっくりするほど力弱い。それに気が殺がれながら、エドワードは努めて低く静かに答えた。
「おまえ、飯食ってねーだろ……アルとガーフィールさんが…様子、見て来いって」
 そう、と小さく声がした。手狭に物が置かれた部屋は、エドワードが滞在の間に借りている部屋と同じ造りのはずなのに、対極的に生活感に満ちている。ラッシュバレーでの彼女の部屋だ。日常が溢れている。
 奥の窓脇に据えられたベッドに、そろりと一歩踏み出した。乱れたシーツの下に彼女の肢体が形取られているのが薄闇の中でもよく見える。シーツの上に波打ちながら広がるのは彼女の長い髪だ。それを見て、不意に昨夜のことを思い出してしまい、エドワードは記憶を振り払おうとした。自己嫌悪にも似た苦いものが身体を駆け巡る。
 うつしたのは兄さんだろ、というアルフォンスの声が響く。そう、うつしたのはエドワードだった。うつるかもしれない、と思いながら、彼女を抱いたのだ。久々に会って、自分の衝動を止められなかった。
 本当は、朝からそれをずっと謝ろうと思っていたのだ。だが、先客がいて、叶わなかった。本能的に苦手だと思ったのは、あのカノトが、自分と同じ想いを彼女に抱いていると分かったからだ。そうしているうちに、素直に謝るタイミングを逃したまま、夜になってしまった。昼間、路上で彼女が泣いていたような気がする。それも気になっていた。「空気でもいい」と彼女が言ったその意図がよく分からなかった。なぜ彼女は、昼間あんなにも頑なだったのだろう。彼女が怒っている気がした。そして、それは自分のせいだともなんとなく分かった。
 ことんと落ちる沈黙を切るように、エドワードは搾り出すように低い声で呟いた。
「ごめん」
 二人きりになって、やっと口に出たのは謝罪の言葉だ。朝からずっと抱えていたもやもやだ。それをようやく一日かけて、今吐き出した。
 しかし、彼女の反応は無い。
「だ、だけどな」
 反応がない彼女に不安になった。彼女が横たわるベッドに近づく。ベッド脇に置かれた小さな読書灯の横に、食事の載ったトレイを静かに置きながら、彼女が無反応なことに焦りを覚えた。
「けど、お前だって悪いぜ。あんな……ことで風邪がうつるとか、オレ、本気にしてなかったし…………」
 言いながらも、言い訳だろ、とエドワードは内心焦る。こんなことを言いたいわけではないのに。
 いいよ、とようやく彼女は小さく答えた。
「……アンタが、責任とれって言うからよ」
 ぽそっと呟いた彼女の言葉に、少しだけ棘がある。
「アンタのワガママに、付き合ったのよ」
 その言い方に、思わずエドワードはむっとする。自分が怒るのは筋違いだったが、エドワードは自分が何を言いたいのか、何をしたかったのか、徐々に分からなくなっていた。彼女のことになると、思考は論理的に結論をはじき出さない。だから戸惑う。全部が終わってから「しまった」と思うこともある。例えば昨夜のことだってそうだった。
 背を向けたまま横たわる彼女は金髪をほどいていて、流れる髪の合間からのぞく肩のラインを睨みながら、エドワードは口を開いた。
「あの時、オレもちょっとおかしくて…それで責任とれとか言ったけど、……冗談だったし、元はといえばお前の頼みもちょっとは原因あると思ったからで……」
 だいたいなぁ、とオレは続けた。
「嫌なら嫌ってハッキリ言えばいいだけだろ。責任とれって言ったのは確かだけど、おまえはうつせって言ったし」
(ハッキリ言え、ですって?)
 彼の言葉を背中に聴きながら、ウィンリィはぎゅっとシーツの端を握り締めた。エドワードは何を言っているのだろう。ズルイ、とウィンリィは唇を噛んだ。
 エドワードは暗がりの中で、反応の無いウィンリィを軽く見据えた。しかし、言葉は待っていても、与えられない。
「……」
 なんで自分の口はこうも止まらないんだろう、とエドワードは腹が立ってくる。ウィンリィのせいにしたいわけではないのに。言いたいことはそういうことではないのに。本当はもっと別のことを言いたかった。
しかし頭を巡るのは昼間のカノトの声だ。彼女のことをどう想っている? 素直に好きだと言えるわけがなかった。アルフォンスの前だったのだ。そしてなによりも、そんなことを聞くような男が、彼女の傍にいることに驚いた。怖くなった。
 違う、言いたいのはそうではなくて、と頭をめぐらせているうちに、彼女がどこか怒ったように呟く。「もう、聞きたくない」と。
怒らせるのは当然かもしれない、とエドワードは思い直す。しかし、納得がいかなかった。こうではないのだ、もっと言いたいことがあったのに、何だっただろう。
 しかし、そうこうしているうちに、「もう、出てって」とウィンリィはハッキリとした口調で言った。もう、聞きたくない、と。
「だいたい……」
 横たわったまま、ウィンリィは聞こえるか聞こえないかの小さな声で低く呟いた。
「……今日出発するって、……言ったくせ、に」
(なんでアンタはここにいるのよ?)
 ウィンリィは腹立たしかった。これでは何のために仕事を急いだか分からない。風邪を引いた自分が情けなかった。意図した結果ではないにしろ、エドワードとアルフォンスはまだラッシュバレーにいる。まるで風邪をひいた自分が引きとめてしまったように思えて、ウィンリィは腹立たしかった。
「もう、出てって」
 ウィンリィはもう一度呟いた。一人になって、一人で眠りに落ちたかった。朝になればまた新しい一日が始まる。この夜が何事もなく過ぎれば、全て解決するように思えた。
「……」
 そこに頑なな拒絶があることを悟って、エドワードは言葉を失う。売り言葉に買い言葉だった。背中を向けたままの彼女を暗がりの下で見据えた。整備室では見慣れた背中があった。しかしどこか華奢で力弱い、いつもとは違う背中に見えた。
 触りたい、とエドワードは思ったが、唇は思考と喧嘩して、別の言葉を紡いだ。
「……わかった」
 これ以上は何も言ってはいけないとエドワードは己に言い聞かせようとした。墓穴を掘るだけのような気がする。しかも相手は病人だ。
「……飯、少しは食ったほうがいいぜ」
 それだけを言い残して、エドワードは踵を返す。後ろ髪をひかれるような気分だったが、これ以上はどうしようもない気がした。彼女をまた怒らせてしまった気がする。腕を壊しては彼女を怒らせ、二人っきりになってもうまいことを言えない。伝えたいことはあるのに、言葉はいつもうまく出てこなかった。
 頭を冷やそうと思いながら、エドワードは歩を進める。しかし、か細い声に呼び止められた。
「待って」
 進みかけた歩が止まる。エドワードは一瞬、全身の挙動の全てを止めた後、ゆっくりと一つ息を吐いた。
「……なんだよ」
 努めて静かに声を返そうと思った。部屋に響き渡る雨の音のように、ひたすら波の無い静かな声で。
 言いたいことがあるけれど、言わない。お互いに、それは同じ。分かってるけれど、知らんぷりしてる。でもいつも期待してしまう。そして、期待は期待のまま、終わらせてしまっている。それでいいし、それでなんとか今までなってきた。言葉なんか必要なかった。身体を重ねていれば、それで伝わると思っていた。だけれど、何か足りない、とエドワードは思っていた。例えば、今この瞬間。何を言えばいいのか、自分は何かを言いたかったはずなのに、それすら思い出せない。言葉に出来ない。なぜこうも難しいのだろう。
 かぼそい声が、決定付けるように呟いた。
「……そばに、いて」
 かそけくような、本当に擦れた小さな声で、彼女はそういった。
「……え?」
 驚いて、エドワードは弾かれたように振り向く。
 背中を向けていたはずの彼女が、横たわったまま自分を見ていた。正面から見つめあう。ぬるく澱んだ空気の中を、視線二つがひたりと重なる感覚に、エドワードは眩暈を覚えた。不意にせりあがる心臓の音は、喜びのせいだと分かって、ひどく狼狽した。
 そんなことを言われるのは初めてだった。
 ベッドに横たわったまま、彼女がみあげてくる。潤んだ瞳がエドワードを真っ直ぐに射ていた。
「傍にいて。……お願い」
 ドアノブに掛けていた手を離す。ドアの向こうから零れた廊下の光は、問答無用で掻き消える。踵を返し、彼女の元へと足を向けた。
 それに弱い、とエドワードはひとりごちた。
 彼女のお願いに、……彼女に、弱いと。





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■ヤサシイ方程式
Fullmetal Alchemist fan book Edward×Winry+Alphonse

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