「知ってた?」 暗がりの中で彼女の声だけが響く。闇の中で、彼女の形をくり抜いた漆黒の影が息づくように揺れていた。その存在と気配をちらつかせていて、エドワードはどうしようもない眩暈を覚えていた。それが風邪による発熱のせいだけではなかった。 「風邪ってね」 ギシ、とベッドのスプリングが軋む音がひとつ響く。 そこはエドワードにあてがわれた部屋であって、彼女の部屋ではない。電気を落としたそこは薄暗かったが、全く何も見えないというわけではなかった。暗がりの中で彼女の息遣いが間近に忍び寄ってきて、エドワードは思わず息を呑む。目の前にウィンリィの影があった。はっきりと表情を見せないその影は、囁くように言った。 「……風邪って、うつせば、治るって」 何を言われたのか分からなくて、エドワードは闇の下で目を瞬かせる。少しだけ、思考は朦朧としていた。どうしようもなく跳ね上がる鼓動は、風邪のせいではなかった。 「なに……」 もう一つ息を呑みながら、カラカラになった喉を絞るように声を漏らす。 「なに、言ってんだ……おまえ」 夕食が終わって、あてがわれた部屋に早々に戻った。食卓をともにしたガーフィールも、アルフォンスも、明らかに様子のおかしいエドワードに心配そうだったが、大丈夫だと言い置いた。 電気もつけずにベッドに倒れこんでいるところを、ほどなくしてウィンリィが一人でやってきたのだ。 暗がりで身動きする彼女の影が手を伸ばしてくる。軽く身を引けば、ベッドの上にあがった彼女が、のしかかるようにして正面から抱きついてくる。 「うぃん、り……」 熱が余計にあがった気がした。抱きついてくる彼女に反射的に腕を回す。まるで押し倒されるようにエドワードは身体を深くシーツに沈めた。 (あつい) 上から抱きしめるようにしてエドワードを押し倒したウィンリィは、頬を彼の頬にこすりつけるようにして肩口に顔を埋めた。ドクドクと早鐘を打つ彼の身体は怖いほどに熱い。 「なんの、つもりだよ」 掠れた声が、吐息と一緒に耳の傍に落ちてくる。きゅんと身体の奥がひとつ疼いて、ウィンリィは切なげに瞳を伏せた。 (何ヵ月ぶりだっけ) 最後にエドワードが機械鎧のメンテナンスにラッシュバレーに立ち寄ったのは、いつだっただろう。 (嬉しいって思っちゃいけないんだろうけど) 無言のまま抱きついてくる彼女に腕を回したまま、エドワードは視線をちらりと真横に走らせた。 暗がりで彼女の顔はハッキリ見えない。跳ね上がる鼓動に、オレは風邪ひいてるんだよ、余計なことを考えるな、と言い聞かせようとしている自分がいて、エドワードは内心笑えた。 「ウィンリィ……」 ため息に近い吐息を一つついて、エドワードは腕を緩めようとする。惜しいと思う位には、まだ理性が働いていた。 「……うつる。離れてろ」 身体を押し退けようとするエドワードだったが、ウィンリィは従おうとはしなかった。 彼の上で軽く身を起こして顔を覗き込む。暗がりでも視線がひとつ交錯するのがお互いに分かった。熱っぽく澱んだ空気に蓋をするように、ウィンリィはエドワードの顔に覆いかぶさる。 少し湿った彼の髪に手をのべて、金髪を指先に絡めながら彼の唇に軽くキスをする。 「………ん…」 困ったように小さく声を漏らしたのは、エドワードのほうだった。 「……おまえ、な…」 唇を離すと、エドワードは怒ったように少し声を荒げた。 「なんのつもり……――」 ちゅ、と音を立てるように彼の唇をもう一度ウィンリィは啄ばむので、エドワードの声は途中で遮られてしまう。 ほ、と息を軽くつきながら、ウィンリィは低く囁いた。 「……看病してるの」 はぁ? とエドワードは目をさらに瞬かせた。 「なに、いって……」 彼女がクスっと忍び笑いしているのに気付いて、エドワードはムっとする。 「これの、どこが、看病だよ。おまえが、襲ってるだけだろ……?」 「……」 彼の言葉に、ウィンリィは何も言わなかった。暗闇の下で、唇の上に小さく笑みを結んだまま、エドワードの頭や頬をしきりに撫でる。 エドワードは目を逸らせるように瞳を伏せた。頬に触れてくる彼女の細い指先が少し冷たくて気持ちがよい。 「エドでも風邪ひくことあるのね」 不意に、額にひやりと冷たいタオルを掛けられた。いつの間に? とエドワードは目を白黒させながら、額にあてられたままにされる。 「なんか、珍しいね」 されるがままになっている彼が、どこか可愛い、と思ったけれども、ウィンリィはそれについても何も言わない。可愛いなんて言えば、エドワードは怒り出すに違いない。 「そーかよ」 ウィンリィの顔が近づいてくるのが分かった。エドワードは思わず目を閉じるが、唇はさすがに落ちてこなかった。上に乗っかったままの彼女は、タオル越しに額をこつんとエドワードにあてる。さらりと音がして、エドワードの頬にちらつくのは彼女の長い髪だった。 「……つめたい」 目前で囁かれて、エドワードはごくりと息を呑む。緩めていた腕に思わず力をこめる。上からのしかかってくる彼女のわき腹から背中にかけて腕を回して抱き寄せた。 「普段、体力バカのくせに」 彼女が小さく笑った。エドワードは思わずムっと唇を尖らせる。誰のせいだよ、と思ってしまった。 ウィンリィはそれを敏感に嗅ぎ取ったようだ。一拍の間を置いて、低い声が落ちた。 「あたしのせい?」 タオル越しに額を当てあったまま、見つめあう。不意に蘇るように耳に透ったのは、雨の音だった。 エドワードがラッシュバレーに来てからずっと、雨が降り続けている。 腰にまわしていた左手を彼女の頬にそっとあてた。もう片方の義手は彼女の身体をさらに抱き寄せるように力をこめる。 「……だったらどうする?」 額のタオルを取り去ると、エドワードは首を軽くあげて、ウィンリィの唇を摘むように口付けた。 「どうするって?」 唇を離して、彼女が甘く尋ねてくる。 もう分かりきっている。エドワードもウィンリィもお互いに悟っていた。 熱のせいだろうか、エドワードには分からなかった。簡単に理性が瓦解する。それでも自分を焦らすように、ウィンリィの頬を左手で何度も軽く撫でた。 息苦しい。熱のせいかもしれない。もう一度下から啄ばむようにキスをして、エドワードは眩暈を覚えた。息が苦しい。もっと空気が欲しい。そう思った。 「どうして欲しい?」 あまり積極的には動けない体勢だった。彼女が上から囁いてくるのがなんだか悔しかった。薄墨を流した闇の中で、ウィンリィの金髪をなでつけながら彼女の顔を睨むように見上げる。 「あたしのせいなんでしょ?」 誘うようにウィンリィはゆっくりと言った。流れていく時間が、届かないどこか遠くの世界のものに思えるような、そんな錯覚にエドワードは落ちていく。目の前に彼女がいる。それだけで充分だった。熱のせいでおかしいと、そう言い訳を繰り返しながら、エドワードは彼女の服に手をかける。 「責任……」 「……」 闇の下で、彼女が軽く顔を傾けるそぶりを見せる。それがまどろこっしくて、エドワードは最後まで囁く。 (バカなことを言ってる) そう思いながらも、言葉は止まらなかった。きっと、熱のせい。熱にうかされてたんだ。その熱が出たのは、こいつのせい。こいつの、「お願い」のせい。 「せきにん、とれよ」 彼女が笑った気がした。作業服の上着だけを脱いだ格好の彼女は、いつも肌の露出が大きい黒のチューブトップを着ている。 その布に覆われている膨らみにエドワードは手を伸ばす。 「……ン…」 恥ずかしそうに彼女が小さく声を漏らす。それでもエドワードの行為を拒絶するわけではなく、控えめなその愛撫を受けながら彼の唇を舐めるようにキスする。 (今だけでいいの。傍にいて…?) 言葉にすることのない気持ちを胸の内にだけ紡ぎながら、ウィンリィは彼を貪る。感情を確認するこの行為を知ってしまったことを後悔すべきなのかもしれなかった。それでももう止まらないし元には戻れない。 「セキニン…とる…から」 前のめりになるようにして彼に抱きついて、幾度となく唇を啄ばみあいながら、ウィンリィは切なげに声を漏らした。 「して……うつして…」 どこもかしこも柔らかすぎる彼女の身体を下から抱きしめながら、エドワードはさらに甘い眩暈を覚える。いつからか始めてしまったこの行為に、彼女に、溺れている。まだ何も掴めない道の途中のはずなのに。 感情も行為も、いつだってエドワードの想うようにままならないまま、甘受していることに、ひとつまみの罪悪感を覚えながら、ただひたすらに確かなのは彼女が欲しいということだった。 熱にうかされていることをどこか言い訳しながら、彼女の唇を受け止めて、貪り返す。もう何度となく繰り返して覚えてしまった行為を、今更止められるわけがなかった。 |