■土曜日■ エドワードはいるか、というマスタングの声は冷ややかだった。店主のピナコは、軽く顔をそちらに向けて示す。導かれるようにして、マスタングはエドワードの背中にその瑪瑙の瞳を縫いとめた。 「エドワード」 いくらか怒気の含んだ声が背中に届いたが、エドワードは振り向かなかった。それは後ろめたさがあったからかもしれない。この郵便配達員が、どういう用事で彼を怒りながら呼ぶのか、知りたくなかった。手紙をせがむようにして、マスタングを待っていた彼女の姿は、もちろん今日もこのカフェには無い。 彼女の容態は芳しくなく、今日もあの部屋で一人で臥せっているはずだ。そして、エドワードは手紙を持っていく。郵便配達員から貰ったんだと言って。 「エドワード……っ」 再度呼ばれて、エドワードは振り向かずに、何、とだけ言った。コツコツと床を噛む脚音が近づいて、客のまばらな店内に大きく響いた。 いくらか乱暴に、マスタングはカフェのテーブルに手をついた。その手には、見覚えのある封筒が握られている。 やはり、と予感が的中していたことをエドワードは悟る。しかし、落胆するわけでも怒るわけでも泣くわけでもなかった。エドワードの中を支配するのは、名前をつけがたい、ただひたすらに静謐な空虚だった。 椅子に掛けたまま、窓越しに外を眺めるふりを続けるエドワードを、横から覗き込むようにマスタングが声を荒げた。 「彼女が、来たぞ」 ぴくりと、エドワードの表情が硬く強張る。臥せっていたはずなのに、どうしてだ? それを淡々とした漆黒の瞳で一瞥して、マスタングは言葉を継ぐ。 「彼女がなんて言ったかわかるか? ……あの手紙の、差出人の住所が知りたいんだと。その一点張りだ」 「………」 「封筒に差出人の住所は載っていなかった。いやに読み取りづらい消印のみだ。インクが消えかけていて判読不能の」 エドワードの表情を舐めるように見つめながら、マスタングはなおも言葉を続ける。 「消印から、どこから出されたのか教えてほしいと粘られた。……一応、わからないと答えておいたが……っ」 「………」 何の声も表情も露にしようとしないエドワードに、イライラしたようにマスタングは眉を吊り上げた。 「お前……! 何をしでかしているか、分かっているのか……!」 エドワードは、かちゃんと音を立てて、コーヒーカップを乱暴に置く。 「エドワード……!」 責める眼差しは力があった。それはどこまでも正しい。分かっていた。だから耐えられなかった。目を反らしていると、こっちを向け、とばかりにマスタングが肩に手をかける。それを振りほどこうとしたが、おもむろに胸倉を掴まれた。 「おい……!」 人の話を聞いているのか、とマスタングは息荒く身を乗り出した。ようやくエドワードは彼の顔を真正面から睨みつける。 「……あんたのせいだ」 「なんだと?」 聞き返されて、訊こえなかったのか? とエドワードは口端を歪ませた。 「こうなったのは、アンタのせいでもあるって言ってるんだ!」 何を、と配達員が言いかける前に、畳み掛けるようにエドワードは口を開く。 「あんたがあの手紙を見せるから! なんでだ! なんで、オレに渡した? オレ宛じゃないのに!」 なんだなんだ? と人影のまばらな店内にそれでもたむろっていた幾人かの客が、好奇の視線を投げてくる。 「オレは、……返事を書いただけだ!」 詭弁だ、と言いながらもエドワードには分かっていた。 出せない手紙の、本当の宛先は、彼女ではない。エドワードの手紙もまた、彼女の手紙と同様、届いていない。 それでも出してしまった。救いたくて、救われたくて。 「………」 マスタングは目を見開きながら、まくしたてるエドワードの胸倉を掴んだまま押し黙っていた。言葉を継げずに、ただただエドワードを睨んでいた。 はぁっ、とひとつ大きく息をついた後、エドワードは目を伏せた。わかってるよ、という声は、途中で掠れて掻き消えてしまう。 仕方なかったんだ。言い訳しようとした唇は、音を作らなかった。言い訳など出来るはずがなかった。最低のことをやっているという自覚だけはあったからだ。だけど、五十パーセントの確率で転がっていた絶望を、彼女に見せたくなかったのだ。 答えは最初から決まっていた。エドワードが彼女と会うずっと前から、結末は確定していたのだ。箱をあけたくないわ、と言った彼女の言葉が、エドワードの中にひたひたと響いている。支配している。その言葉に甘えて、自分のエゴを通しているのだと、分かっていた。 「でもな……」 エドワードはマスタングを再度睨んだ。眉間に険しい皺をひとつ刻んで、男が睨んでくる。その唇が小刻みに震えているのを見てとりながら、言い捨てた。 「でも…、じゃあ……どうすれば良かったんだ……!」 「……」 押し殺すような声を振り絞った。マスタングは答えない。問うに値しないことだった。エドワードは間違っている。マスタングは端からそう思っているだろうということはよくわかっていたし、問うたエドワード自身、もう答えはとっくに引き出してしまっている。間違っているのはエドワードなのだ。 簡単なことだ、とマスタングは言わなかった。彼の声もまた震えていた。これは彼の仕事ではない。彼は郵便を届けるまでが仕事なのだ。その先に、踏み込む必要は無いのだ。 「彼女に、本当のことを……」 マスタングの言葉は途中で立ち消える。言いながら、彼も絶句していた。 本当のことを、言う? 言葉にして初めてそれがどういう事なのか、うちのめされるように思い知る。マスタングは声を失った。そして、エドワードも。なぜならば。 「喧嘩、しないで」 二人して、息を呑む。瞳だけを巡らせて、そのか細い声のした方向へと向けた。 「二人とも、喧嘩しないで」 そこにいるのは、青ざめた顔をした、金髪碧眼の少女だ。手にあの白い手紙を握り締めたまま、店先にたっている。どうしてだ、とエドワードは瞠目した。そして、絶望する。あの本はどこにやった? どこに置いてきた? 彼女の部屋ではなかったか? 二人は、またしても絶句した。 |