■日曜日■ 分かっていた。エドワードの確信は確率以上に正しかったのだ。箱の中の猫は生きているか、死んでいるか、どちらかなのだ。そして、知れば、彼女を失うことになると、エドワードは分かっていた。 白血病という病を、エドワードは知らなかった。マスタングの紹介で呼ばれた別の医者は、淡々と病状を説明する。そして、付け加えるように言った。もう手遅れなのだと。 事実だけを言い残して医者が去る。その背中を、エドワードは力なく見送ることしか出来なかった。暗鬱とした灰色の雲が重く垂れ込めたベルリンの空は、今にも泣き出しそうだった。 知ってたのよ、とベッドの上で言う彼女の声は淡々としていた。 「あたしの病気、治らないって。治す方法がないんだって」 彼女はとつとつと語り始めた。シュレディンガーという科学者の元で助手を務めていたということと、そこで行われていた実験を間近で見ていたということ。 「あたしの病はそのときのせいなの。死ぬ前に逃げろって、先生は言ってくれたけれど、手遅れだった」 知らない世界から持ち込まれた兵器の存在を、彼女は淡々と口にする。 「あなたの彼女は、あの兵器を作った世界のひとなんでしょう?」 責めてごめんなさい、と彼女は弱々しく詫びた。知っていたのか、とエドワードは言葉を失う。 ベッドの上に横たわった彼女は、すでに死人のような顔色をしていた。真昼だというのに、部屋はひどく暗い。ベッド脇の机には、開封されたもうひとつの白い手紙が、開いたシュレディンガーの本の間に落ちている。 「あたし、知ってた」 声を振り絞るようにして、彼女は言う。エドワードは、眉根を寄せて、蒼白の彼女の横顔を眺めることしか出来なかった。断罪の時はすぐそこまできていたと、わかっていた。それでも、顔を歪めて、彼女の言葉を待つ。 「あなたが、手紙を書いていたってこと」 「―」 「……それでも、受け取っていた」 「……」 「字だって違うし。おかしいとは思ってたの。でも、あなたを責めてないから、それだけは、誤解しないで」 「……」 「あなたに手紙を貰って、嬉しかったのよ。……でも、駄目ね。あたしは、箱の中身を見たくないって言ったくせに、箱の中の猫が生きているか死んでいるか、確かめたくなったの」 彼女は困ったように笑った。 「あたし、あなたに嘘を言ったの。あなたがあたしに嘘つきって言ったのは正しいのよ。忘れられないけれど、本当は忘れたかった」 彼女はぽつりと言った。忘れれば、幸せになれるかもしれないと。 「……だけど、駄目ね。どこまで行っても、逃げられないの。同じ顔をしたあなたをずっと待っている。あなたに会いたくて会いたくて、ずっと待っているの」 ねぇ、と彼女は低い声で囁いた。 「お願い」 きゅっと、ベッドに横たわった彼女が細い手をのばして、エドワードの服の裾を握る。すがるように、彼女は弱々しい声を継いだ。手紙を、書いて、と。 「お願い。……彼女に、手紙を、書いてあげて。あなたの彼女に」 きっと待ってるわ、と言う彼女は、青い瞳を潤ませながら、息をするのもつらそうに顔を歪めた。途端に、激しい咳込みが始まる。エドワードは思わず背中をさすろうとしたが、彼女はそれをさせなかった。阻むように、エドワードの手を払う。 「待ってるって、なんでわかる」 けほ、とひときわ大きく咳込んだ彼女は、愚問だわ、とでも言いたげに、エドワードを睨んだ。口を覆っていた手を膝にぱたりと落とす。彼女はその手の中に落ちている血溜まりをもう隠そうとはしなかった。 「あなたがあたしを見ていない。……彼女ばかり見ている。だったら、彼女もあなたしか、みていないわ」 だから、手紙を書いてあげて、と彼女はもう一度繰り返す。 「あなた、手紙のほうが素直なんだもん」 え、と彼女の言葉に、エドワードは何を言われたか悟ってうっすらと赤面した。それをみながら、彼女は笑みを浮かべかけ、そして、咳込み始めた。 その時は、緩やかに近づいていた。 夕方にさしかかり、空は突如として泣き出す。彼女の容態はさらにいっそう悪さを極めた。 親類縁者の存在を、誰も知らなかった。エドワードはカフェの女店主であるピナコを呼んだ。 暗い部屋の中で、エドワードはベッド脇に膝をついた。祈るような姿で、彼女の両手を握る。それに答えるように意識を混濁させ始めた彼女は手を握り返してきた。呼ばれた医者は、手遅れだとやはり首を振った。医者はいつでも事実しか告げなかった。 ひたひたと、終わりがそこまで来ている。 ゆっくりと、反応が薄くなっていく彼女を留めておきたくて、エドワードはまたひとつ罪を犯す。それが彼女にとって、自分にとってどんなに最悪なことを意味するのかということを分かった上で、声に出す。 「……ウィン、リィ……」 ぽつんと言葉を落としてしまった。すると、彼女の顔が、穏やかに緩んでいく。 「やっと、呼んでくれた」 蒼白の笑みをたたえて、彼女は掠れた声で言った。それまで一度も呼ばれたことがなかった名前に答えるように、彼女は呟いた。 「あたしの名前、を。……エド」 エドワードは、不意に嘔吐感を催す。目の前の彼女は彼女ではない。それなのに、今呼んでしまった自分に絶望し、失望し、憎悪した。いや、違う。最初からだ。最初から、自分は間違っているのだ。彼女は彼女ではないのだ。それなのに、何をやっているというのだ? まるで、言い訳するように。彼女にそれを施せば、許されるかのように。目の前の彼女に与えることで、それが免罪符になると、どこか思っていたのではないか? 救いたかったのだ。そう思うことさえ奢りなのに。約束もしていない手紙を待ち続ける彼女を。 「泣かないで?」 掠れた声で、彼女が言った。 「あなたに会えて、嬉しかったのよ?」 だから、この二週間、手紙を出さなかったの、と彼女は告白した。 「あの赤いポストに、……あたし、もう手紙を出していないの」 エドワードは目を見開く。それが何を意味するのかを、悟る。悟ってしまう。 「……なのに、手紙が、とどい、たの」 彼女は掠れた笑みを浮かべる。 貰った手紙が「あなた」からだったから、嬉しかったのよ、と。 「夢を見たかったの」 「……」 「あの人にまた会える夢」 「……」 「でも、夢は、夢ね……」 現実で見るものじゃないわね、と彼女は儚く笑った。それはひたすらに重苦しい絶望でしかない言葉だった。 エドワードはもう言葉を継げなかった。目の前はぐちゃぐちゃに崩れいて、焦点が合わない。嘘を塗りたくった世界が崩れていく。まるで砂で築いた楼閣が、海の白波に洗われるように。 救えない。誰も。しかし彼女は、それでも、と言葉を継いだ。 「それでもね……―ありがとう」 終焉はすぐそこまで影を落としていた。しかし、彼女にとって、それは終焉などではなかった。始まりだった。だってね、と言う彼女の唇はもう音を作っていなかった。 「だって、分かっちゃったんだもん。あのひとがいる場所がどこなのか」 だから、と、彼女は笑んだ。濁りゆく空色の瞳は、もうエドワードを映してはいなかった。だからね、と唇は謳った。 だから、あなたに、会いにいく。 医者の宣告の言葉を、エドワードは最期まで聞かなかった。 部屋を出て、一階のカフェを通り過ぎ、表に出る。外は土砂降りだった。カランカランと空しく響く鐘の音は、外の雨にかき消される。 「オレを、責めるか」 視界は醜く濁っていた。その真ん中に、男が立っている。紺色の服は、喪服ではなく、制服だった。今日は日曜日だというのに、この配達員は何をやっているというのだろう。 「いや」 土砂降りの中、道に立つ男は短く言った。 「彼女が、うらんでいないのなら、誰も責める資格など、なかろう」 それに、とマスタングは低く続けた。彼は土砂降りの中、暗澹とした表情で瞳を伏せた。 「私も、―同罪だ」 ずぶぬれになりながら、二人の男は、その言葉の意味を雨と一緒に受け止める。 私はこれを届けに来ただけだ、とマスタングは言った。ひょいと、それを投げてよこす。エドワードの手元にそれは届かず、泥水の流れる石畳の中に水飛沫をあげて落ちた。 「あの手紙と一緒に届けられた、彼の遺品だ」 視界が濁っているのは雨のせいではないと、エドワードは分かっていた。濁った視界の真ん中で、男が背を向けて去っていくのをただ声を押し殺してみていた。 道に落とされたそれを、拾い上げる。雨の音が、耳の裏を、身体の頭から足先までを、鋭くつんざいた。それは、幕の下りる音だ。すべてが終わる。夢のような、二週間が終わる。 拾い上げたそれは、懐中時計だった。名前が刻まれている。見知った名前だった。なぜなら、エドワード自身が、その名前を騙って手紙を書いたからだ。 ずぶぬれになるのもかまわず、エドワードは土砂降りの中、その懐中時計をパキンと音を立てて開いた。その時計はどこかで見覚えがあった。そして思い至る。ああ、あの懐かしい国で、自分を縛っていた戒めの時計と同じ形をしているではないかと。 自分もかつて、時計を持っていた。蓋の裏に戒めを刻んで、いつも持ち歩いていた。 嗚呼どうして、とエドワードは呟いた。 そこに、彼女がいた。蓋にはめられた写真の中で、一度も見たことがないような笑顔を弾けさせている。そして、その横で、どこか照れたようにはにかんだ、自分と同じ顔をした男がいる。 蓋の裏に、忘れるな、とかつて自分は時計に刻んだが、彼女の男は違うものを刻んでいた。違うものを、飾っていた。 自分にもそういう可能性があったのだろうか。そういう未来があったのだろうか。しかし、箱の蓋をあけてしまった今、答えはノーだった。自分は、彼女を置いてきてしまったのだから。誰も救えないのだ。それを抱えながら、この世界に生きていくのだ。彼女は手紙を書いてあげてといった。しかし、手紙は出せない。出せない手紙を、自分はまだ心の中に持って、暖めている。出すあてをみいだせないまま。 「……猫は、生きているか、死んでいるか、か……」 写真のように、笑いたかった。しかし、無理だった。二週間は短すぎた。しかし短すぎる夢の最果てで、エドワードは彼女が投げかけてきた問いの答えを見てしまったことを知る。答えなんかねぇよと、あの時エドワードは言ったけれども。 箱の中の猫は可能性なのだ。生きているか死んでいるか。選んだか捨てたか。愛したか憎んだか。笑うか泣くか。 開けた箱の底にいたのは、愛を失って泣く愚かな猫が一匹。 エドワードは膝を折った。写真のはまった懐中時計を抱えたまま、道路につっぷす。 「……ウィンリィ」 名前を呼んだ。呼ぶことでしかもう、存在を感じることが出来ない彼女を。 愛したかったのに、もう無理なのだ。それを悟った身体は、もういうことを聞いてくれなかった。 土砂降りの中、押し殺せなかった嗚咽がかき消されずに、ただただ虚しく、日曜のベルリンに残響する。 それは、たった二週間の、出会いと別れだった。 <END> ⇒Epilogue |