■水曜日■ 終わりがきたのは、唐突だった。 「手紙だ」 一瞬、何のことか分からずに、エドワードはポカンとマスタングを見上げた。 ピナコのカフェはいつも通り、多くも少なくも無い人の入りで、エドワードはいつものようにカフェに寄り、ピナコが彼女のために手料理を作るのを眺めながら、来るはずのない郵便を待っていたのだ。 この営みが、ずっと続くと、エドワードは手紙を受け取るまで錯覚していたことにようやく気付かされる。それは夢なのだと。 は? と呆けるエドワードに、マスタングはどこか苛々した表情を隠そうともせずに手渡した。 「彼女に、だ」 手紙を預ける彼の表情は硬かった。訝しげに、エドワードは渡されたそれに目を落とす。汚れた白い洋封筒はひどくくたびれていて、哀しいほどに軽い。 「……支局の、未着郵便の中に埋もれていたのを見つけた」 ぎくりと、気付きたくなかった予感にようやく突き当たって、エドワードは喉がカラカラに渇き始めるのを自覚する。 マスタングの声はひどく低かった。 「日付が、四年前だ。……それまで、ずっと放置されていた。住所不明だったが、知人の彼女にならと、持ってきた」 「……これ、って……」 暗澹とした声で、しかし答えはあっさりと与えられた。 軍からの死亡通知書だ、と。 吐き気がせりあがるのを、エドワードは力なく感じていた。 どこかで、この結末を知っていたかもしれない。戦争が終わって五年も経つのに音信不通の人間を、ずっと待ち続けている彼女。普通に考えたら、こういう結末を思い描くのが当たり前だったかもしれないのに。 (夢が終わる) 白い手紙を手にしたまま、エドワードは動けずにいた。 彼女は手紙を待っていた。男は手紙を書き続けた。エドワードは実物を彼女から見せられたことがある。幾通にもわたった男からの手紙を、彼女は全て大切に保管していた。 手紙を書くよ、と約束したわけでもないのに書き続けていた男が、突如音信不通になる。約束したわけでもないのに、彼女は、待ち続けるのだ。「約束してないから来なくてもいいの」という嘘の言葉を重ねながら、来ない手紙を待ち続けるのだ。届かないと分かっている手紙を、赤いポストに投函し続けながら。 そして、やっと届いた手紙は。 「彼女に、渡してくれ」 マスタングはそう言い置いて、くるりと踵を返す。彼の仕事は、彼女の家までそれを届けることだった。そして、彼女の家にいたエドワードがそれを受け取った。それで、彼の仕事は終わりだった。 どことなく力ない足取りで出て行く郵便配達員の背中を、エドワードは声もなく見送ることしか出来なかった。 彼女の容態は良くなかった。 空気さえも灰色に染まったような暗い部屋に、時折咳込む音が断続的に響く。 手紙を握り締めたまま、エドワードは彼女のベッドルームに入る。床板がぎしっと軋む音がした。そこは陰鬱とした空気が淀んでいる。途切れがちな咳をこぼしながら、彼女は眠りについていた。 彼女が待ち続けていた手紙は、まるでこの世の絶望を伴いながら、エドワードの手の中にあった。 横たわる彼女から視線をゆっくりと外す。ベッド脇の机の上には読みかけの本が開きっぱなしだった。エドワードは机に近づくと、その本の間に白い手紙を置く。そして、身体を投げ出すように、椅子に背を預けた。彼の重みで、椅子の脚がぎしりと床を軋ませる。 「………」 どうする? 答えは分かりきっているのに、自問してしまっていることに気付く。 昼間だというのに、カーテンを半分閉じた部屋は暗い。眉間に指をあてて、エドワードは瞑想するように目を閉じた。 約束はしなかった彼女の男。しかし、律儀に手紙を出し続けた男。エドワードにはなんとなく、顔も知らない、名前が一緒なだけのその男のことが分かる気がした。 (約束する必要なんて、ないと思ったんだ) たぶん、そうだろう。約束だなんて、形ある言葉を残すのが気恥ずかしかったのかもしれない。それでも、していないはずの「約束」を守る自信があったのだ。だから、約束をする必要はなかった。そして、だからこそ彼女が待ち続けているなんて、愚かな男は思いもしなかっただろう。約束していないがゆえに。それが彼女を縛り、結果的には彼女を苦しめることになるなんて、思いもしていなかったのだろう。 (馬鹿な、奴だ) しかし、そうひとりごちながら、頭ごなしにその見知らぬ男を責めることが出来なかった。そうする資格が、自分にはないような気が、なぜかしていたのだ。 男は手紙を書きたかったに違いない。エドワードが電話を出来なくなってしまった今、手紙が書けなくなった今、痛いほどに、男の気持ちが分かる気がした。 『あなたに会いたい』 唐突に、彼女の声が、そう音を作ってエドワードの脳裏に響き出す。 眉間に指をあてたまま、エドワードは目を見開いた。息をひとつ呑んで、視線だけを横たわる彼女のほうへ移動させる。彼女は背を向けて、寝入っている。 読みたくなかった手紙が二通、エドワードの手元にあった。二通とも、あの郵便屋が手渡したものだ。 (チクショウ) エドワードは心の中で毒づく。 (あの郵便屋のせいだ) あいつが、手紙を渡さなければ、読むこともなかった。知ることもなかった。ここまで踏み込むこともなかったのに。あの郵便屋がきちんと仕事をしないからだ。名前が一緒だからというだけで、あの手紙を自分に誤配しやがった。過ちだ。誤りだ。ぜんぶ、間違いだ。全部、ニセモノなのだ。 そこまで思い至った次の瞬間、その「考え」にエドワードがたどり着いたのは、あまりに唐突なことだった。 突拍子もなく、しかし確固たる悪意に満ちた確信で以って閃いてしまったその考えは、ひとつまみの罪悪感を伴って胸に落ちてきたのだ。 だめだろ。打ち消そうとしたが、止められなかった。悪魔の囁きは、一挙にエドワードの思考を占拠していく。 エドワードは横目で、寝ている彼女をちらりとみやる。時折息を乱すそぶりはあったが、起きる気配はなさそうだった。 白い手紙を、エドワードは読みかけの本の間にぱたりと挟む。そして、机の引き出しをおもむろに開けた。紙とペンとインク、そして、手紙の束を取り出す。それは、彼女が彼から貰ったという手紙だった。彼女は惚気るように、エドワードにそれを見せびらかしたのだ。自分がどんなに愛されているか、どんなに自分が男を愛しているか。紡いだ日々を暖め直すように、最高の笑顔で語り倒した。エドワードが、彼女をすきだと告白したあとのことだ。 馬鹿なことをしようとしている。 頭の片隅で、愚かしいことだという考えが瞬いたが、すぐに消えた。出せなかった手紙を、男は持ったまま、戦場で死んだのだろうか。凶弾に倒れた男の骸の胸には、出せなかった手紙が残っていたのではないだろうか。その手紙の内容は……―。 確信めいたものが、エドワードの中に落ちていた。出せなかった手紙を、男はまだ持っているのではないだろうか。持っていた、はずだ。 何度も読み返した痕が分かる、くたびれた手紙をエドワードは手にする。封筒から丁寧に取り出して、広げた。あまり綺麗とはいえない字で、つらつらと書き綴られている。 だめだ、と誰かが囁く。それはいけない。やってはいけない。最期にして、それは最大の嘘偽りだと。冒涜だ。死んだ男に対しても、待ち続けている彼女の気持ちに対しても。 それでも、白い手紙が携える、五十パーセントの確率の「絶望」を、エドワードは正視できなかった。彼女が言う通り、箱は開けてはいけなかったのだ。彼女に、これを正視できるとは、思えなかった。 (どうせ、ばれる) 字を真似しようと、どうしようと、男をこんなに愛している彼女なら、絶対に見抜くだろう。……それでも。だから。 彼女が起き出す気配はなかった。 夢の終わりを見たくないのは、己のエゴであることすらにも目を瞑ると、息ひとつ呑んで、エドワードはペンにインクをつけた。 |