■月曜日■ 彼女の容態は芳しくなかった。 飛んできた医者はいい顔をひとつも見せなかった。絶対安静です、とエドワードとピナコに言い残すだけだった。 「なんでお前が」 カフェにやって来たマスタングは、あからさまに嫌そうな顔をみせた。エドワードは憮然とする。 「彼女から頼まれたんだ。あんたから手紙を受け取ってくれってな」 マスタングはちらりとピナコの顔を一瞥するが、ピナコは反対を見せなかった。渋々と、という形容が相応しい表情を押し隠そうともせずに、マスタングは手紙の束を渡す。エドワードは、どうも、とそれを受け取ると、窓辺に面したテーブルで、彼女がそうしていたように宛名ごとにそれを振り分けた。ピナコはそんな彼の横に、そっとコーヒーカップを置く。 手紙は? という彼女に、無い、と告げるのは、想像以上に酷なことだった。 彼女が見せる一瞬の落胆振りは凄まじい。それをひしひしと感じるから、エドワードはいたたまれなかった。しかし、彼女はすぐさまに思い直したように、いいのよ、とエドワードに言う。約束なんてしてなかったの。だから、届かなくても平気なの、と。 「ごめんね」 意識を取り戻したあと、すぐさま、彼女はエドワードに謝った。 「なにが」 「変なこと、言ったから」 医者が帰った後も、エドワードは彼女の部屋に残っていた。ベッドに寝かしつけられた彼女は、どこをどう見ても病人でしかなかった。カフェで会っている時には見えづらかった現実が、エドワードの前に立ちはだかる。 物の少ない部屋は薄暗く、生活感が感じられなかった。向こう側の彼女とは対極的な部屋に、エドワードは声を失った。 「謝るくらいなら」 エドワードは努めて静かに言った。 「言うな」 彼女はベッドの上で目を閉じる。そして素直に頷いた。 ワンルームの部屋は、ただっぴろかった。ベッド脇には机が置かれていて、いくらかの本が積まれている。エドワードは部屋を見回した。彼女の「恋人」の写真があるかもと思ったのだが、予想に反して、それは見当たらない。 「本気じゃなかったの。……あなたが、あんまり違う人を見る目であたしを見るから、言ってみたくなったのよ」 エドワードは言葉に詰まる。それは半ば正しいかもしれなかった。隠し切れない感情が、表に零れていたのかもしれない。 カーテンが半分しか開けられていない窓から、橙色の夕陽がざっくりと部屋に影を落としている。ベッド脇の丸椅子に腰かけたエドワードは、夕陽を弾く蜂蜜色の髪を見つめながら、静かに口を開いた。 「もう、……会えないんだ」 初めて、エドワードは語った。弟にも露にしたことのない感情を篭めて、会えないんだ、と。 「どうして?」 一瞬、エドワードは答えに詰まる。ひたひたと揺れる青の眼差しが、エドワードを射ていた。 「……死んだ、の?」 幾らかのためらいとともに投げられた彼女の疑問を、エドワードは即座に否定する。 「死んでない。……でも、二度と会えない」 そんなのおかしいわ、と彼女は唇を尖らせた。 「生きてるのに会えないなんて。……絶対に、変だわ」 会う気が無いだけじゃないの? と幾らか責めるような彼女の口ぶりに、エドワードは違うんだと返す。事情を知らない彼女に、どこまで説明したら分かってもらえるか、わからない。なんとか説明して、彼女と同じ顔をした彼女に、分かってほしかった。どこか願うようにそう思ってしまっていること自体が、何を意味するかを、エドワード自身気づいていなかった。 「あなたのすきなひと、きっと、会いたがってると思うわ」 「…………」 「居場所さえ分かったら、たぶん、飛んで会いに行くわ。……あたしがあなたのすきなひとなら、絶対に、そうするもの」 エドワードは顔をゆがめた。その顔で、そんなことを言わないで欲しかった。言われなくても、それは、痛いほどに知っていた。 あの手紙を読んでしまったから。 「そんなこと、オレはしてほしくねぇよ」 ほら、と彼女は咎めるようにエドワードを睨んだ。 「やっぱり、あなたは彼女に会う気がないのよ」 責める彼女を、エドワードは責められなかった。 「……オレは、忘れてほしい」 「……」 声が震えるのを自覚しながら、それでも分かってほしくて、エドワードは言葉を続けた。 「オレのことなんか、忘れてくれよって、……そう、思う」 言いながら、苦いものが胸に落ちるのを止められなかった。無視できなかった。しかし、言葉も止まらなかった。 だってそうだろ? 会えないのに、記憶だけを暖めて、会えないことに喘ぎ飢えながら、ただひたすら無為に時が流れるのを甘受するしか、もう手はないのだから。 「忘れてくれたほうが、絶対に、幸せだ」 その代わり、オレは忘れないから。ずっと、忘れずに、生きていくから。 唇から漏らすことは出来ないものを心の中で砕くように想いながら、エドワードは瞳を伏せる。部屋に落ちる茜色は不吉なほどに赤く赤く二人を照らしていた。 沈黙が落ちた。 そして、一瞬の間のあと落ちてくる言葉。「馬鹿ね」と。エドワードの心臓があわ立つ。まるで「彼女」のようなその口ぶりに。 「忘れられないわ」 「……」 「あたしは、忘れられないの。……あなたの彼女だってきっとそうだわ。……ただ忘れることが幸せなわけない。過去の思い出が幸せなら、その思い出を抱えて今を生きることが不幸だとしても、絶対に忘れられないわ」 忘れるなんて無理なのよ、と言った彼女の声は、虚無に満ち満ちていた。 |