■日曜日■ 二日ぶりにカフェに姿を現した彼女の顔は、やはり蒼かった。 そして、エドワードはまたしてもカフェに来ていた。もう、立ち止まるには遅すぎた。それを自覚していた。エドワードは手紙を読んでしまったのだ。彼女が彼に宛てた手紙を。「彼女」ではないと分かっているのに。 「起きてて、いいのかよ」 本を抱えたまま、窓際のテーブルについたエドワードがぽつりと言うと、彼女は儚げな笑みを浮かべた。 「薬、飲んだから」 そう言って、彼女はピナコに水を頼む。 「調べ物、はかどってる?」 「まぁまぁ」 「手伝ってあげようか?」 「馬鹿言わないでくれ」 病人に何が出来るっていうんだよ、とエドワードは不機嫌そうに顔をしかめた。しかし、言いながらどうしてこんな言い方しか出来ないんだと既に後悔し始めている。 ごめん、と彼女は小さく呟いた。 「なんで、あんたが謝るんだ」 エドワードは慌てた。ほどなくして運ばれてきた水にひと口も口をつけようとせずに、彼女は小さく笑んだ。 「だって、心配してくれたんでしょ、今。……ありがと」 「…………」 ほんのり目を丸くしたエドワードは、彼女の顔をまじまじと見たあと、なんでそうなるんだよ、とボソっと言い捨てた。肩をすくめて、何でもない風を装って本に目を戻す。字に目を走らせる振りをしながら、小さく言う。 「今日は、配達屋はこねぇよ。日曜だからな」 分かってるわよ、と彼女は頷く。 「じゃあ、上でおとなしく寝てろよ。……顔色、本当に悪いぞ、おまえ」 大丈夫だってば、と彼女はなおも笑った。 「ここに、いたいのよ」 その言葉に思考が固まる。エドワードは息をひとつついて、隣に座る彼女をちらりと横目で見た。 「…………あの配達屋に、いろいろ言われた」 「何を?」 「名前が最悪だとかなんとか」 「……」 隣に座る彼女の顔が曇るのを、見逃さなかった。見逃せるはずがなかった。 知っているんだろうか。パンドラの箱の方がマシだと断言したこの女は、目の前の通りに佇むあの赤い郵便ポストに手紙を入れることの意味を。 つきつめて言っていいものか、エドワードには分からなかった。彼女の表情から推し量ろうにも、難しそうだった。なにより、エドワードは後ろめたかったのだ。届くはずがない彼女の手紙を読んでしまったことに。 「アンタの恋人の名前、オレと同じなんだな」 「……」 「オレは、アンタの恋人じゃないぜ」 彼女の横顔が、さらに険しく曇る。形の良い眉がピクリと動いて、彼女はようやく口を開いた。 「分かってるわ」 ワカッテルワ。 彼女が発した言葉を、次の瞬間、エドワードは何度も何度も頭の中で再生している。まるで壊れた蓄音機が頭の中でけたたましく鳴っているみたいだ。 沈黙が落ちた。 二人の背後には店の客がいるはずだが、その瞬間、何も聞こえなかった。まるでその場には、二人だけしかいないような錯覚にエドワードは堕ちる。 さらりと、視界の端に、蜂蜜色が鮮やかに揺れた。懐かしい郷愁めいた感覚が、心の中に匂い立つように充満していく。胸がいっぱいになっていく。 忘れようとしていたのに。 あの手紙を読んで、錯覚してしまう。答えたくなる。会いたいと応えたくなる。言いたかったこと、言いたくても言えなかったこと。 まるで出せない手紙を持っているようだった。だいぶ前にしたためておいたのに、結局出せなかった手紙を、胸の内に暖めている。出すあてをみいだせないまま。忘れようとしていたのに。 「―ねぇ」 トンと軽い音がひとつ響いて、くすんだ木製のテーブルの上に、金色のカーテンが波打つ。 彼女は、テーブルの上に片頬だけをつくように伏せると、本に目をやるエドワードの視界に潜り込むように下から見上げてくる。 「ねぇ、どうする?」 彼女の声はひどく静かだった。そして、それ以上に、客のまばらなカフェには、ひたすらに凛とした静謐が漂っていた。 「あなたを、好きになったと言ったら、どうする?」 「……は?」 ぴり、と空気が割れるような音を聞いた気がした。 (救いがねぇだろ?) この女は知らないから、そんなことを言えるのだ。 エドワードは視線を動かさなかった。本の上に視界を固めたまま、乾いた声で、よしてくれよ、と言った。心を硬く冷やして、石にする。出せない手紙は、彼女宛ではないのだから。 「あんたの恋人の代わりなんて、まっぴらだ」 「分かってるわ」 冗談よ、と彼女は言って、テーブルに伏せた顔をあげる。エドワードに笑いかけようとして、しかし、彼女は笑顔を作らなかった。 静かに声は落ちた。どこか棘めいたものを冷ややかに含みながら、それはエドワードに刺さる。 「あなたは、いつも、別の人を見ているのね」 ひやりと心臓が冷えるのを、エドワードは抑えられなかった。 「…………何が?」 初めて、彼女に目をやる。 「あたしを見るとき。……目があたしを見ていない」 何言ってんだ、とエドワードは笑おうとした。しかし、彼女と同様、笑顔を作ることは出来なかった。 「誰? すきなひと? もしかして、あたしに、似てるの?」 目の前で、「彼女」と同じ青が揺れていた。やめてくれ、とエドワードは眩暈がした。そんな目で、見ないでくれ。聞かないでくれ。 (置いてきたんだ。オレが。なのに、オレはどうして) まるで永遠に手に入れられないそれを焦がれるかのように、目の前の彼女とたゆたう日々を共有して。 (置いてきたのは、オレ自身なのに) 待ち続けているこの女に、何が出来る? 何もできやしないのに。 救いがなかった。そして、エドワードは救えない。この女を。 「帰る」 がたんと音をたてて、立ち上がった。椅子は激しく揺れたが、倒れはしなかった。本をまとめて、帰ろうとする。 「待って」 制止する彼女の声を振り切るように、エドワードは目を瞑る。 「愛して」と請う言葉が「助けて」と聞こえた気がした。救えるはずなどないのに。 閉じる視界の真ん中で、彼女の姿を思い描こうとした。金髪で、空色の瞳をしていて……―ああチクショウ、とエドワードは苛々してくる。どうして、この女と同じ姿しか思い出せないのだろう。 「悪いけど」 言いながら、落胆している。 (そんなつもりは、本当にないんだ) 伸ばされた手を払うようにして、エドワードは店を出ようとカウンタに向かう。 しかし、背後で、椅子をもろとも蹴倒すような物音が不吉に響いて、思わず振り返った。 「…………っおい……っ」 立っていた足元を掬われたような、ひやりとした感触が身体をぞわりと襲う。エドワードは目を見開いた。 床の上を、金色の髪が波打っている。 「ウィンリィ!」 カウンタから、ピナコの声が爆ぜる。 エドワードは思わず彼女に手を伸ばす。駆け寄り様に、ピナコに叫んだ。医者を、と。 床に倒れた彼女の身体を抱え起こす。ぜいぜいと肩で息をしながら、彼女はエドワードの腕の中に身体を預ける。彼女の唇が、小さく何かを呟いた。 唇が描いたその形は、己の名をなぞるものだと、エドワードは気づいていた。 |