■土曜日■ その日も彼女はやはり現れなかった。 「もう五年になるよ」 コーヒーの豆を挽きながら、ピナコはぽそりと言った。 「前の大戦に志願してね。それっきりだ。あたしゃ、よしなって言ったんだ。まだ一六だった。最初のうちは手紙が頻繁にきてたんだが、それも長くなかったよ。敗戦を迎えても、帰ってこなかった」 周囲の人間は、悲観的だった。 エドワードはその日、窓際ではなく、カウンタに腰をかけて、図書館から借りてきた本と一緒に、白い手紙をテーブルの上に置いた。 「だってそうだろ?」 カップをお湯で温めながら、ピナコはエドワードに同意を求めるように言った。 「五年だよ。仮に生きてたとしても、帰ってこないってことは、つまりそういうことじゃないか」 そして、彼女は手紙を待つようになったという。マスタングはそんな彼女に郵便をずっと渡し続けていたのだ。 「それからあの子は、宛先不明の手紙を書くようになったんだ。来ない返事を待ち続けながら」 古びたポストに、彼女は手紙を投函し続ける。 使われていない、存在を忘れられたあのポストが、投函すれば必ず相手に手紙が届く不思議なポストだと、一体誰が言い出したのだろう。そんなふざけたことを彼女は信じて、手紙を出しているのだ。もしくは、信じていなくても、手紙を出すことで、返事を待ち続ける理由を作っているのかもしれなかった。その結果が、受取人の名前しか書かれていないこの白い手紙。 エドワードは、マスタングから渡されたそれを、開封して読んでいた。何度も、何度も。彼女が過ごす、無為に流れる日々をつづった手紙を。 「あんたがこの店に来るようになって」 ほとほととコーヒーをカップに注ぎながら、ピナコは目元を緩ませた。 「あの子の顔色はだいぶよくなったよ。ついこの間まで、もう駄目じゃないかと思っていたんだ」 ソーサの上にカップを置いて、ピナコはエドワードの目の前に置く。 「なんの、病気なんだ?」 白く立つ湯気を見つめながら、エドワードはカップをソーサの上でくるりと回した。 「……分からない。例の学者先生の所から帰ってきてから、ずぅっと様子がおかしくてね。昼日中から倒れるし、血は吐くし、顔色はあんなだろ? お医者も手がないってほとほと困ってるらしい」 「そうか」 エドワードは虚ろに相槌を打った。ゆらりとカップから立つ白い湯気が、音もなく空に霧散していく様をひたすら眺めていた。 「なぁ、あんた」 そんなエドワードを見つめながら、ピナコは身を乗り出した。どこか期待を孕んだその声に、エドワードは無意識に身を硬くする。 「あんた、あの子のそばにいてやってくれよ。顔も似てるし、名前も一緒だ。……あの子が少しは落ち着いてくれるかもしれない」 なんだそれ、とエドワードはカップに口をつけながら眉をしかめた。 「それがいい。……あんたに会ってから、あの子の顔色はだいぶよくなったんだよ」 「馬鹿言わないでくれよ、おばさん」 エドワードは、ピナコに、というよりも、半分以上は自分に対して言っていた。 「オレは、あのひとの恋人じゃないんだ。……別人、なんだよ」 「別に、恋人になれってんじゃない。もうしばらくここにいて、あの子が落ち着くまで様子をみてやってくれ、ってことだよ」 「身代わりってか」 ハ、とエドワードは笑おうとした。しかし、笑えなかった。テーブルについた指先のすぐ傍に、白い手紙がある。 エドワードは金色の瞳を小さく歪ませた。なぜ、受け取ってしまったのだろう。 (救いが、ねぇよ) 彼女にとっての恋人が自分によく似ているのだとしたら、余計にまずい。だって、彼女は「彼女」に似ているのだから。 (まずいだろ) エドワードはコーヒーカップを置く。中身は半分以上残っていた。まずくはないが、ひどく苦かった。ゆるゆると、足元から身体の全部が罪悪色に呑まれていく。なぜ、こうまで罪悪感に苛まれるのか、エドワードは考えようとしなかった。考えたくなかった。知りたくなかった。見たくなかったのに。 手紙は、受け取ってはいけなかったのだ。 くそったれ、とエドワードは腹の中で悪態をついた。ガタン、と乱暴に音を立てて椅子から立つと、コインを叩きつけるようにテーブルに置いて店を出る。 ピナコは、何も言わなかった。顔色を変えたエドワードを、黙って見送る。 ピナコの視線を背中に痛いほど感じながら、エドワードは店の扉を閉めた。カランカランと鳴るベルの音がひどく大きく、重たく聞こえた。 まずい、と思い始めていた。踏み込みすぎている。この店に、これ以上来てはいけない。彼女に、これ以上、踏み込んではいけない。手紙を、受け取ってはいけない。 しかし、もう既に、遅かった。 |