■水曜日■ あの世界に置いてきてしまった幼なじみに、ひどくそっくりな女に会ったと、エドワードは弟に言わなかった。言わないまま、足は自然と、幼なじみの祖母にそっくりな店主がいるあのカフェへと向かう。 「シュレディンガーさんにどうして会いたいの?」 大学の帰りに、本を抱えたままカフェに入ってきたエドワードに、彼女が聞いた。 彼女は自分の住まいの一階のカフェに座って読書をするのが日課のようだった。 「ちょっとな、探しているものがあるんだ。でも今行方がつかめなくて……」 ふうん、と彼女は相槌をうつ。 「あの人が今度ミュンヘン大に来るっていう噂を聞いたけれど」 司書仲間から聞いたのだと、彼女は言った。彼女はもう今は司書はしていないという。身体が弱いというのは、誰から見ても明らかだった。何かの病気を抱えているらしいが、エドワードはあえて聞こうとはしなかった。踏み込んではいけない気がしていた。踏み込めば、あとには戻れないような予感がしていたのだ。 「あたしは良くわからないんだけれど、結構有名な科学の先生なんでしょう? 小難しい話ばかりしてたもの」 「そう……か」 エドワードは曖昧に頷く。彼女の隣の席に座ってほどなくしてから、コーヒーが運ばれてくる。それを片手に、本を読む。彼女はエドワードが本を読んでいると、自分が開いている本のページは閉じてしまい、エドワードのそれを覗き込む。 まるでどこかで繰り返していた、懐かしい日々を再現するような、その光景に、エドワードは眩暈がする。 そうだ、と何かを思い出したように、彼女はエドワードに、なぞなぞをしない? と言い出した。 「なぞなぞだ?」 その気がなさそうに本を読むエドワードに対して、半ば強引に、彼女は本を閉じさせる。 「シュレディンガーさんが言ってたことよ。興味あるんでしょ?」 どこか逆らえない空気は、「彼女」にそっくりだ、とエドワードは苦笑いを浮かべながら、降参だよ、とばかりにテーブルに肘をついた。で? と彼女の顔を覗き込む。 「なぞなぞって?」 覗き込んだ彼女の顔に、幾らか朱がさしたように見えた。え、とエドワードはドキリとする。オレ、何かしたか? と問う間もなく、彼女は慌てたようにおもむろに大きな声を出した。猫を箱に入れるの、と。 「とても元気な子猫を一匹よ。そして、箱の中に、毒ガスを発生させる装置を一緒に入れるの。一時間後に毒ガスの装置が作動してガスが充満する確率は五十パーセント。一時間後に、箱の中をあけて、中の猫を確認するっていう実験」 さて問題、と彼女はどこか自嘲的な口ぶりで言った。 「箱の中の猫は死んでいると思う? 生きていると思う?」 くだらない、とばかりに、エドワードは即座に答えた。 「それは確率の問題だろ。……五十パーセントの確率で、猫は生きてるか死んでるか、どっちかだよ。答えなんてねぇよ」 「正解……よ」 彼女は肩をすくめて笑んだ。しかしその口調は、どこか寂しげだ。 「でも、箱の中を確認するまで、猫は生きてるか死んでるか分からない。猫は生と死の世界、両方に存在しうるのよ。箱をあけるまで、誰も答えは分からない。それでも、答えは五十パーセントの確率で、箱をあけなくてもすでに決まっているのよ」 自嘲めいた口調で、彼女は声弱く続けた。 「……もう答えが決まっているなら、箱をあけるのは怖いって思っちゃうわ。まるでパンドラの箱よりも始末悪いじゃない」 エドワードは眉を顰める。必ず災いの入っているパンドラの箱と、生もしくは死というどちらか一方の結果しかない猫の入った箱。彼女はパンドラの箱のほうがマシだというのだ。 「そうか? パンドラの箱には絶対不幸が入ってるだろ?」 そうよ、と彼女は力強く頷く。でも、あたしはパンドラのほうがマシだわ、と。 「だって、災いが入っていた箱の底にひとつでも希望が残っているパンドラの箱と違って、猫の入った箱には、希望か絶望のどちらかしか無いんだから」 彼女は寂しそうに言葉を続けた。 「もう中身は決まっているのに、あけるまで分からないなんて、なんだかずるいわ。……だったら、あけたくない。小さくても希望の入ったパンドラの箱のほうが、絶対マシよ」 そう言って、彼女はコーヒーを啜った。窓ガラスに映った彼女の顔は、どこか頑なに冷えているように、エドワードには見えた。 |