■火曜日■ 1924年冬。年の終わりも近いドイツの首都ベルリン。エドワードはアルフォンスとともに、ベルリン市内に住んでいた。ベルリン大学内にある資料を借りに図書館へ通う毎日だ。この世界にもたらされたらしいとある兵器の行方を追おうと決めてから、その行方を探る取っ掛かりを掴もうと躍起になっているところへ、とある研究者の噂をきいたのだ。 研究学者達の間でまことしやかに噂は流れていた。帝政ドイツの崩壊後、戦後復興へ向けて歩みだしたワイマール政府下において、新たな「火種」がくすぶっていると。そしてちらほらと漏れ聞こえるのは、新兵器の開発の噂だった。 その噂と、もたらされた兵器の関連を調べるために通っていた大学にほど近いカフェで、倒れた少女に再会したのは、そこまで貴重な偶然、というわけではなかった。 「昨日はありがとうございました」 いきなり話しかけられて、本を読んでいたエドワードはコーヒーを吹きそうになる。話しかけてきた少女の顔を見て、動揺を押し隠せなかった。 「いや……別に。倒れたアンタを運んだのはあの郵便屋だし……」 いいえ、と少女は首を振る。 「最初に介抱してくれたのは、あなただから。……本当に、ありがとう」 そう言いながら、彼女はエドワードの隣の椅子に腰をかける。 エドワードが座っているテーブルの前には、通りに面した窓がすぐ傍にあって、そこから外の景色がよく見えた。戦争で疲弊し、そこから徐々に復興を目指すベルリンの一日が、窓の外には流れている。 古びたそのカフェには毎日通っていた。カフェはたいてい空いていて、とてつもなく繁盛しているわけでもなく、かといって全く人がいない、というわけでもない。たいてい、コーヒーを一杯頼んで、本を読みながら時間をつぶす。 毎日通っていたが、目の前の窓から見える景色の中に、あの古びた郵便ポストがあることを、エドワードは今初めて知った。色褪せて景色に溶け込んでしまっていたそのポストの存在を知りえたのは、彼女の出現のせいだ。 この一年、忘れようと必死になっていたのに。 ふるりと、予感めいた動揺が身体を奔る。エドワードはこっそりと息を呑んだ。目のやり場に困って、広げた本に視線を落とす。直視出来なかった。その顔、その声、その髪。……瓜二つの少女を、別の世界に置いてきた。 「お礼をろくに言えなかった気がしたから。本当にありがとうございました」 そう言って、彼女は椅子に座ったまま、隣のエドワードに丁寧に頭を下げた。 「いや。だから、……オレ、別に何もしてないし」 少女と目を合わせることが出来ないまま、エドワードはぽつんと呟いた。何でもない振りをして、読んでもいない本のページを一枚ぱらりと繰る。 「あたしより、あなたのほうが顔真っ青だったから、大丈夫だったかしらって、あとで心配になったの」 う、とエドワードは喉を詰まらせたような苦い表情を作る。昨日は、動揺していた。あまりにそっくりなその顔立ちに、勘違いしそうになったのだ。 「お礼言いそびれて、マスタングさんも、あなたが誰か知らなかったから、どうしようって思ってたんです。ここで会えて良かった。この辺に住んでいるんですか」 「まぁ、……そうなるかな」 「あたしは、このお店の上のアパートに住んでいるの……って、コレは知ってますね……もしかしたらすぐ近く?」 「うん、まぁ……」 「やっぱり。あなた、よく見かけるもの」 え、とエドワードは少し驚いたように彼女を見返す。 「知り合いに、あなたがとても良く似ていて、この辺の人だったらうれしいなって。……ミュンヘン大学の図書館に入り浸ってるでしょう?」 げ、とエドワードは表情を強張らせた。 「……じゃ、オレのこと、知ってたってこと?」 「ええ」 そこへ、新しいコーヒーの匂いが割ってはいる。 「ウィンリィ、ちゃんと病院へは行ってきたのかい?」 丸い眼鏡をかけた店主は、その外観からは意外に思えるようなきびきびした仕草と言葉遣いで、彼女の前にカップを置きながら尋ねる。 「ええ、行ってきたわよ。……ありがとう、ピナコさん」 コーヒーを受け取りながら、ウィンリィと呼ばれた彼女は笑顔を向けた。横目でそれを見ていたエドワードはぎくりと心臓が跳ねる。満面の笑みなのだが、それはどこか儚げで脆い印象さえあった。 エドワードはコーヒーカップを手にとる。二人して、黙ってカップを啜った。カップに添えられたエドワードの手は、小刻みに震える。 眩暈がしていた。 「何、読んでいるんですか?」 言葉遣いが違う。当たり前だ。しかし、いちいち邪魔してくるところはどことなく一緒な気がするかもしれない……と思い始めて、エドワードは慌てて、そんな己の思考を打ち消した。彼女は「彼女」ではないのだから。 「……アンタに、分かるかな」 「あら」 心外だわ、とばかりに彼女は形の良い眉をきゅっと吊り上げてエドワードを軽く睨みつける振りをする。 「あたし、これでも図書館の司書をやってたのよ? ある程度の本なら知ってるわ」 へぇ、とエドワードは相槌を打ちながらも、どこか軽い失望を抑えられない。図書館の司書だって?……似合わねぇ。リゼンブール村の学校の授業だって、五分ともたずに居眠りを始める機械鎧オタクが、本だって? しかも、物理学の本を「知っているかもしれない」ときた。 「……それはそれは、失礼シマシタ」 そう言いながら、エドワードはちらりと本の表紙を彼女に示してみせる。茶色の革表紙にちらりと青い瞳を巡らせた彼女は、あ、と小さく声をあげる。 「知ってるわ。この先生」 ハハ……と、エドワードは軽い笑いを口先に浮かべる。やっぱり違う。当たり前だ。分かりきっていたことだ。それでも、胸に落ちる鉛色の落胆に、失望に、またも軽い眩暈を覚える。 「会ったこと、あるもの」 え、とエドワードの乾いた笑いは固まる。 「会ったこと、あるって?」 「ええ」 彼女はこくりと確かに頷く。すっかり湯気の消えてしまったコーヒーカップを両の手の中に抱えなおすと、申し訳程度に軽く啜った。食が細いのか、あまりカップの中は減っていない。 「シュレディンガー……て奴に?」 エドワードは彼女のほうに身を乗り出して、もう一度聞き直した。それは探している相手だったからだ。 彼女は目をパチクリと瞬かせて、不思議なものでも眺めるようにエドワードを見つめる。 「あなた、ベルリン大にいるんじゃないの?」 エドワードのどこか必死な剣幕に、彼女は少し驚いたように目を見張った。軽く首をかしげて質問に問い返す。大きな青い瞳が思いのほか近い所にあることに気付いて、あ、と我に返ったエドワードは身を引いた。 「あ、いや、オレは別にベルリン大にいるわけじゃない。図書館にはよく行っているけど、部外者だ」 そうなんだ、と彼女は頷いてから、また少しだけコーヒーを啜ったあと、小さく言葉を継いだ。 「シュレディンガーさんの家で、資料整理の仕事をしていた時があったの。あの人、ベルリン大のほうにも時々来ていたから」 「今、どこにいるか知らないか?」 彼女は小首を傾げる。 「あたしが働いていたのは一年ほど前になるし。……今は、連絡も取っていないから、知らないわ」 そうか、とエドワードは頷いた。ゆるゆると、別の落胆がおりてくる。気取られてもいい落胆だったので、とりたてて隠すこともしなかった。 「…………ごめんね? お役に立てなくて」 どこか俯き加減に、テーブルの上のカップを睨むエドワードを気にするように、彼女は自分のカップに両手を添えて抱えたまま、エドワードの顔を覗き込む。 さらりと蜂蜜色の髪が肩から滑り、一房、ぱさりと空を切るように落ちた。隣の席に座った彼女の挙動に、エドワードは一瞬ぎくりとする。 覗き込むようなその仕草に、ごめんねと言ったときのその口調。そして、金色の髪。 (……違う、だろ) 改めて、エドワードは自分に言い聞かせる。似ていても違う。絶対に、違うのだ。 いや、いいんだ、とエドワードはどこか口調軽くそう言った。どこかわざとらしい明るさに、彼女が再度小首を傾げるのが分かる。それを取り繕うかのように、エドワードはカップに手をとりながら、言葉を巡らせる。 「……シュレディンガーの所には、司書として?」 うーん……、と彼女は少しだけ言いよどむ。 「それもあったけれど、ちょっと、違うかも。……本当にお手伝いって感じで」 「なんで辞めた?」 彼女は少しだけ言葉に間を置いた。手の中のカップに視線を落とす。 店内に客の姿はまばらだった。ガラス張りの窓に面したテーブルに、二人して並んで座っている。通りを行く人々の様子が真正面に見える。くすんだガラスの向こうに、くたびれたドイツの日常が切り取られていた。そして、彼女が倒れた場所であるあのポストが、通りの向こうにある。 エドワードはカップに口付けながら、彼女をまじまじと横から見た。伏せ目がちに白いカップを見つめる彼女は、向こう側の世界に置いてきた「彼女」と、どう見ても瓜二つだった。 (よりにもよって) 苦いものが身体を巡る。それは、コーヒーのせいではなかった。 (よりにもよって、こちら側のおまえと、出会ってしまうなんて) どう接したらいいのか、分からなかった。エドワードの目は一瞬、ここではないどこか遠くの世界に飛ぶ。のどかな麦畑に囲まれた一本道を辿った先にあった、懐かしい家。その中で、機械に埋もれて、油にまみれて、手に職を持ちながら日々働いているだろう、幼なじみの「彼女」。ほんのひと時だけ帰ることが出来たときに、「おかえり」と抱きついてきた彼女。手と足を造って、また自分に与えてくれた彼女。 (全部、置いてきた) 向こう側の名残は少ない。強いて言えば、アルフォンスがそれだった。そして、彼女から貰った鋼の手足。それ以外は、何も持ってこなかったはずなのに。抱きつかれた時に腕の中に残った彼女の感触は、騒動の中で掻き消えて、今はもう思い出そうにも難しかった。何もかも置いてきたのだ。それなのに、よりにもよって、この世界で、そっくりな奴に出会ってしまう。 なんとも皮肉な、巡り合わせだった。 向こう側のウィンリィに、どう接していただろう。エドワードはもうよく思い出せなかった。それほどに、全てが遠くなりかけている。 「あたしね」 伏せ目がちに掌の中のコーヒーカップを見つめながら、ようやく彼女が答えた。 「あんまり、身体が丈夫じゃないの」 「……みたいだな」 「シュレディンガーさんの所にいるときから、調子が悪くて。続けられないと思ったから、お暇貰って…………」 「……血は、よく吐くのか?」 彼女の顔が硬く強張るのを、エドワードは何気ないふりをして眺めていた。 「最近は、ちょっとは、良くなってるの、よ?」 「―吐くんだな」 「……」 「医者は?」 「……通り向かいのお医者に診てもらってる。昨日も手紙を出した後に、病院へ行こうとしていたところだったの」 「そう……か」 エドワードが低く相槌を打ったときだった。突如、彼女が椅子を蹴倒す勢いで立ち上がる。テーブルに前屈みになるように手をついた彼女は、ひたすらに窓の向こうを凝視する。 「?」 なんだ? とエドワードが目を白黒させているうちに、彼女は軽やかな足取りで席から離れると、店の出入口に駆け寄る。それと同時に、カランカランと、店のドアに掛けられた鐘が勢いよく鳴った。 「郵便です」 入ってきた人影に、あ、とエドワードの表情が再度固まる。 「ご苦労さまです」 笑顔で答える彼女に郵便物を手渡す男の顔を、エドワードは知っていた。向こう側の世界で、焔の錬金術師と呼ばれていた男と瓜二つだったからだ。そして、昨日の朝にも遭遇した。……偶然にも。 「マスタングさん」 紺色の制服をカッチリと着た男は軽く会釈しながら、彼女に笑む。そして、彼女の肩越しに、表情を強張らせて店の一隅に座っているエドワードにチラリと視線を投げて寄越した。 「ああ、君か」 どうも、とマスタングは儀礼的に目だけの会釈をする。郵便ポストの前で倒れた彼女を抱えて、向かいのカフェの上階まで運んだのはこの男だった。 「具合の方はどうです?」 彼女に再度視線を移した郵便屋は、届けた手紙の束を数えている彼女に物静かに尋ねた。 「もうだいぶいいです。……昨日はごめんなさい」 「いえ。……ただ、あまり、無茶はしないで頂きたい」 ええ、と彼女は困ったように笑みを浮かべて、マスタングの言に頷いた。それを確認した彼は、では、と紺色の制帽を目深に被りなおしながら出て行こうとする。 その時、マスタングがチラリと自分のほうに視線を走らせたのをエドワードは見逃さなかった。険しい色を携えた瑪瑙色の瞳が、エドワードを一瞬だけ捉える。 「ピナコさん、郵便」 カランカランとドアの鐘を鳴らせながら、配達員は立ち去る。その背中をエドワードは見送る。腰掛けているテーブルに面した窓越しに、男が歩いて通り過ぎるのが見えた。窓の向こうの通りを歩く男は、もう一度ちらりと意味ありげにエドワードに対して視線を投げて、道の向こうに消えていく。 「そこに置いておいておくれ」 ピナコの声に、彼女は明るい声で返事する。彼女の手の中には、サイズを異にする数通の封筒が握られている。 「上の人の分は、あたしが配っておくわ」 「いつも助かるよ」 「いいのよ」 笑いながら会話を交わして、彼女はエドワードの隣に戻ってくる。椅子に座り直して、コーヒーカップの横に、手紙を並べ始めた。 「上の住人の分?」 どうやら、カフェの上階はアパートになっているらしい。エドワードの問いに彼女は頷く。 「そうよ。五人住んでいるの」 「ふぅん」 封筒を並べ始めた彼女は、しかし、郵便屋が来る前とはうってかわって元気がない。先ほどの足取りの軽さはどこへ行ったのやら、どこか暗澹とした表情で、手紙を並べている。黒塗りのテーブルの上にトランプでも並べるような手際で手紙が名前ごとに分けられていくが、その手の中の手紙が無くなる頃には、彼女の顔色はひどく冴えない色になっていた。 せわしない女だ、とエドワードはどこか落ち着きがなくなってくる。くるくると表情を変えるのに忙しい。振り回されそうになる。 コーヒーを一息に飲み干すと、彼女は手紙を束ねて立ち上がる。じゃあ、あたしはこの辺で、と言う声は元気がない。 椅子から離れて一度は背を向けた彼女だったが、あ、そうだ、とばかりにおもむろにエドワードを振り向く。去りゆく背中を名残惜しく見送っていたエドワードは、突然振り向いた彼女に慌てた。 「あなた、名前は?」 「名前?」 むせそうになる。聞き返した声が不自然に上擦って、エドワードはそんな自分に苛々した。まだ名乗っていなかったと、エドワードはそのとき初めて気付く。もうずいぶんと、彼女のことを知っているような気がしていたのに。 まだコーヒーが残っているカップを握ったまま、静かに答えた。エドワードだと。 「エドワード。エドワード・エルリック」 そう、と頷いた彼女の顔に、陰りを見たのは気のせいだろうか。しかし、その陰りの残滓を探ろうとエドワードが目を凝らす前に、彼女は跡形もなくそれを顔から消してしまう。 笑顔とともに、彼女は名前を口にした。エドワードは黙ってその笑顔を受け止めた。自分がどんな顔をしているか、分からなかった。彼女の名前は知ってはいても、改めて、思い知らされる格好だった。 彼女は、彼女の声で、彼女の唇で、名を告げた。 懐かしい、その名前を。 |