小説:「最 果 て の 地 で 君 を 描 く 」
それは、たった2週間の出会いと別れでした。

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Chapter:3





■Chapter:3


「リオール……ですか」
 上司からその名を聞いて、ロイは重い口ぶりでなぞるようにその都市名を復唱した。そうだよ、と気が抜けるような明るい声で頷いた上司は、ロイの眼前でひょいと腕を伸ばして盤面のコマをひとつ動かす。む、とロイの眉間にひとつ皺が刻まれた。
執務室にはのどかな空気が流れている。ここが軍務関係を扱う庁舎の一室であるということは、部屋の真ん中でチェス盤を挟んで座る男二人の制服を見てやっとわかる。それほどに、そこはほんの一時期前とは全く違う空気を持っていた。
「君もよ〜く知っているだろう? 懐かしの東方司令部管轄のあの街じゃよ。東方時代も、こうして儂とよくチェスをしただろうに」
「はぁ……」
 ロイは曖昧に言葉を濁しながら、うろうろと盤面のコマの配列を眺めた。丸い眼鏡に髭面の上司とは、チェスの相手として東方司令部時代以来の付き合いがあった。その後、ロイは当時の大総統直下の中央司令部への招聘が決まり、この上司とは別れたわけだったが、大総統制が廃止され、共和制への移行が着々と進みつつある時代の流れの中で、ロイはまたしても、この上司……グラマンの元に配されていた。
「あそこは、アームストロング家の援助もあって、一時期の荒廃が嘘のように栄えてるとか」
「ええ、まぁ……」
 ロイは、顎に手をやり考え込むような素振りで盤面を睨み付けた。そのリオールになら、「あの混乱」後にアームストロング少佐の頼みで一度、視察に行ったことがあったのだ。そこでロイが感じた一番のことといえば、アームストロング少佐と自分はまったくもって美的趣味が合わないということだったな、と思い出して、ロイはうんざりしたような表情を一瞬だけみせた。少佐の錬金術の造詣は、自分の趣味とは全く異なるものだったのだ。
「まだかね?」
 眼前の上司がニヤニヤしながら髭に手をやる。う、とロイは息を詰めた。今日のロイはいささか劣勢だった。
東方のような田舎ならともかくも、アメストリスの中央の、しかも国軍の庁舎で暢気にチェスに興じるなど、ほんの少し前には想像も出来ない光景だった。大総統制の廃止後、アメストリスは議会を中心に政治を動かす共和制へと生まれ変わろうとしていた。その過渡期にあって、前大総統の遺物ともいうべき過剰な軍備拡張路線は方向転換期を迎えて久しい。こののんびりとした庁舎内の空気も、ここ二、三年のそんな時代の流れの賜物だった。このチェスの勝負も、仕事に飽きたグラマンがロイを誘ったのだ。
君ねぇ、とグラマンは部屋に入ってきてすぐにキョロキョロしだすロイに呆れたように言った。
「もう少し君は休んだほうがいいよ」
「は」
 上司の部屋に、己の怖い副官がいるはずはなかったのだが、サボっている所を見つかればすぐに怒られてしまうのだ。だがしかし、上司はそれを知らない。
「たとえばさぁ、有休もだいぶ貯まってるじゃろう? 十四日分だっけ? それ全部使って、うちの孫と旅行するとかさぁ」
「……何を仰ってるんですか」
 ホークアイ中尉が聴いたら何をされるかわかったものではないような内容を、グラマンは涼しい顔で言ってのける。ホークアイ中尉はグラマンの孫娘だった。
「儂、糞真面目な奴、嫌いなんだよね」
「……閣下」
 言葉をお慎みください、とロイは軽く咳払いする。おやまるでいつもと逆だ、とロイはふと己の副官とのやりとりを思い出して、ヤレヤレと内心肩をすくめた。
グラマンはチェスの名人だ。ロイもほとんど勝てたことが無い。
ロイが次の手を決めかねていると、まだかね、とグラマンは再度聴いてくる。
「今少し、……お待ちを」
 むむ、とロイは盤面を睨むが、どうも集中出来ない。グラマンが唐突に口にした「リオール」という地名が胸にひっかかっていた。あの地には、ロイは色々と思い出がありすぎたのだ。
ほんの数年前の話だ。とある一人の少年が、あの地で胡散臭い宗教のインチキを見破って、その教主を失脚に追い込んだことがある。まるでそれがすべての始まりかのように、この国の根幹を揺るがすような事実が次々と明るみになっていったのだ。何年もの月日が流れて、それから色々なことがありすぎた。それでも、ロイの中に息づき続けるのは、そのリオールという単語から真っ先に連想された、一人の少年の存在。もう二度と会うことはないだろう、かつて確かに居た国家錬金術師だった。
「ふーむ、そうきたかぁ」
 ようやく進んだロイの一手に、グラマンは肩を竦めて、頭をポリポリと掻く。
「で、リオールがどうかしたのですか?」
 盤面と睨み合いを始めたグラマンにいくらかほっとしながら、ロイは問う。この老人は軍人の割りには一見温厚だったが、どこか食えないところがあった。
その懐かしい地名を聞いたロイの胸の内に宿ったなんとも言えない郷愁めいた過去の傷を知ってか知らずか、グラマンは先ほどから悠長に言葉を濁すばかりだった。一手一手、向き合う盤面のチェスの手と同じ歩みで、話をなかなか先に進めようとしない。コマがひとつ進むごとにようやく老人は話をひとつ進める。焦らされているようで、ロイは落ち着かない。
「ところで君」
 グラマンは盤面にその細い目を落としながら、何事か思いついたように口を開いた。今度はなんだ、とロイは心の中でゲンナリする。
「今度の選挙。……君、出ないのかい?」
 話をはぐらかされたような気がする。ロイは、いささか不機嫌そうに眉根に皴をひとつ刻んだ。しかし、盤面に視線を落としているグラマンには気付かれない。
「何度も申し上げましたように」
 努めて低い声で、ロイは小さく呟いた。苦いものが身体を駆け巡り、ロイの左目をしたたかに抉った。その見えない痛みに、彼は顔を顰めたのだ。
(この傷は、癒えることはないだろう)
 眼帯の裏に見えるものがある。それを抱えて、ロイは生きていかなければならないのだ。
ほんの一瞬言葉を切った彼だったが、迷いはなかった。
「……その話は、辞退申し上げたはずです」
「そうだったかね?」
 すっ呆けたようにグラマンはしゃあしゃあと聞き返してくる。このジーサンは! とロイは苦虫を踏み潰すような思いで、顔をあげようとしないグラマンの眼鏡の辺りをキッと片目で睨む。
「ずいぶんと君の周りは騒がしいように見えたが、肝心の君はそうでもないのかね?」
「周りが勝手に騒いでいるだけです」
 はっきり言って迷惑なのですよ、とロイはどこか拗ねたように唇を引き結んで目をきつく細めた。
「私は立候補するつもりは毛頭ないですよ」
「勿体無いねぇ」
 ヤレヤレ、とロイは肩をすくめる。これと似たような会話を何度繰り返しただろうか。だからこの老人は食えないのだ。温厚なように見えて、その挙動一つ一つに、不屈の強かさが見え隠れする。
 共和制に移行するアメストリスのここ一、二年の目下の課題は、新しい指導者の在り方だった。つい先だって倒れたキング・ブラッドレイは、専制君主的で強大な権力を手中にしていた。その権力集中的な指導者の在り方に疑念があがり、ブラッドレイ亡きあとその権限を強めている議会には、民意を反映した指導者こそが理想だという考えが収束しつつあった。そして、近く行われる選挙に、ロイをその候補に推そうとする雰囲気が一部にあったのだ。
「だいたい、先の大総統を討ったのは私です。……私がここで立てば、よくない前例を作ってしまうことになる。それこそ、民主的な国のあり方と道理に悖るというものでしょう」
「……」
 まくしたてるように言葉を並べるロイを尻目に、グラマンはのんびりと髭を撫でながら盤面を見つめる。グラマンのチェスの腕前は尋常ではなかった。彼は特にロイとの対戦を大いに好み、東方司令部から中央へロイが栄転の際には、餞別にチェス盤を渡してやったこともある。
そうした昔の馴染みもあって、暇をみては、こうして盤面の向こう側にロイを座らせて、チェスの勝負に興じていた。
「まぁ〜、それはそうなんだけどね、君」
 ついっとナイトの一駒を指先で撫でたグラマンは、それを軽くつまむ。
「それは事実としては、一応、知っている者は誰もいないってことになっているわけじゃろう」
 ロイは思わず瑪瑙色の瞳を痛々しく伏せる。
「国は順調に変わろうとしている。人の心もまた然り、じゃよ」
「……」
「私よりも、閣下のほうが適任でしょう」
 グラマンは一瞬肩をすくめた。彼は、先の大総統亡き後、軍部内代表を務めるようになっていた。現在の階級は大将。大総統府は軍部と行政部を完全に切り分けられ、さらに司法部が組織されて、それぞれ独立して運用されている。国の基幹は大幅にその組織を変えつつあった。
「難しいのは」
「……」
 グラマンはチェス盤を見つめながらのんびりと口を開く。
「新体制への移行を、旧体制が阻む恐れがあるということじゃよ」
「……」
「三つの機関をうまく転がす役目を行政府のトップに任せる。軍部ではなく、民意を反映したトップじゃ。その意味で次の選挙は総統を国民から選ぶってなったんだろう」
 ロイは、ええ、と興味なさげに頷く。民意をより強く反映した共和制への移行と、そのための総統選出の選挙は、候補者の資格は問わないとした。必要なのは政党もしくはそれに準ずる組織からの推薦状と支援。そして、東西南北に分けて行われる地区選で各一人ずつが選ばれて、最終的に一人へと絞られる、段階的な選抜方式をとった国一大行事だ。国民のここ最近の関心はもっぱらその選挙で誰が立候補するかだの、誰に入れるかだの、そればかりだ。
「今この国で一番の問題は」
「……」
「根回しがうまい奴がトップにおらんことじゃ」
 何を言ってるんだこの老人は、とロイは少し呆れた様子でグラマンを見つめた。
「つまり、儂にはさっぱり向いていないってことじゃよ」
 ニッコリとグラマンは悪戯っぽい笑みをロイに見せる。
「それにあんな面倒なこと、儂はゴメンじゃなぁ」
「……閣下」
 咳払いする振りをして、ロイはグラマンの言葉に水を差す。
「それはいささか、問題発言ではないかと」
「そんなことはないよ」
「そうでしょうか」
 そうだとも、とグラマンは自信たっぷりに頷いてみせた。
「これは儂が君を推したいという説得の中での、ごくごく自然な会話なんだから」
 不意にグラマンの表情が真剣になる。ロイは息を呑んで、唐突に変貌した上司が纏う空気を敏感に察知した。
「儂は年をとった。新しい国を作るなら、若い者に任せてみたいと思うのが年寄りの人情ってもんじゃ」
 それに、とグラマンは一息間を置いてゆっくりと言った。
「天の采配と言う言葉もある。君を推す声が消えないというのも含めて」
「………それは、ありえません」
 グラマンが言いたいことを察知したロイは、自嘲的に彼の言葉を否定した。なぜなら、ロイは前大総統を殺した反逆者だからだ。
 ロイの「反逆」は、アメストリス史上では無かったことになっていた。世紀に一度あるかないかの大スキャンダルを扱いあぐねた軍の上層は、芋づる式に明るみになったこのアメストリスの地下で暗躍したホムンクルス達とその所業もろとも、歴史の闇に葬り去ろうとしていた。ロイは完全に不問に付されたわけではなかったが、それでも事実上反逆の罪を犯した者に対する処遇としては破格の処分……准将から伍長級への降格処分だけで済んだのだ。だがその降格処分すら、ロイが北方から中央へと戻ってからは解かれ、今、ロイは大佐官級にまで階級を戻されている。
「だからこそ、天の采配、と言ってるのじゃがなあ」
 ロイの心中を察したのか、グラマンは呟くようにぽつんと言った。
「……」
 進まない盤を穴が開くほど見つめながら、ロイは唇をかんだ。
 破格の処分をどう受け止めたら良いのか、ロイにはまだ自分の中で結論づけることが出来ていなかった。大総統と仲間のホムンクルス達が滅した命の数は計り知れない。しかし、ロイもまたその人生の中で数多くの命を屠ってきたし、大総統との戦いでもまた一人、小さな命を救うことは出来なかった。あの事件とホムンクルス達は、解決しえない深く大きな闇色を孕んだ人間の業を見せつけたのだ。
それが、ロイを苛む。なかったことにして、おめおめと生きていていいのか、と。
(誰も)
 ロイは身を切るような思いで以って、何度となく繰り返した絶望的な答えを心の中でまた復唱する。
(誰も、救えないのだ)
 口を噤んで何事か思いに耽るロイを尻目に、グラマンは軽く肩をすくめながらコトンと盤の上の駒を進めた。
「ま、君が何を背負って生きていくかは、君の勝手だがね」
「……」
 今度はロイのターンだった。盤上の駒の配置を睨みつけながら、彼は唇を噛む。
今日はどうも調子が狂う。
くそ、と心の中でひとりごちて、ロイは盤面を穴が開くほど凝視した。いつの間にか目の前に不利な陣形が出来上がっている。
 どこか焦ったように盤面を睨むロイの様子を、グラマンはしたり顔で観察する。
 髭に手をあてて、それを二、三度撫でたグラマンは、盤上を走るロイの漆黒色の瞳をひたりと見つめながら、ひと言漏らした。
「行方不明になっていた国家錬金術師」
 え、とロイの思考は一瞬止まる。何を言われたか分からず、頭の中でグラマンの言葉を咀嚼する。
「……君も知っているじゃろう。例の最年少国家錬金術師じゃよ」
「……」
 ロイの胸の内で、何かが跳ね上がる。予感に導かれるように、彼は顔をあげて、グラマンの顔を見た。動揺を隠せずにいる部下に、グラマンは迷うことなく告げた。
「見つかったそうじゃよ。……リオールで」
 その意味を汲み取って、ロイの目が大きく見開いた。






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■最果ての地で君を描く
劇場版鋼の錬金術師シャンバラを征く者 エドワード×ウィンリィ&ロイ

presented by 砂のしろ
template : A Moveable Feast

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