Holy Ground -Please Kill me, and Kiss me-
05
「また無視したわ。あいつ、さっきのことをまだ根にもってるわね!」
ウィンリィは憤慨したように、手にもっていたグラスを空ける。
「さっきのこと?」
隣のハンスが首をかしげる。ハンスの頭には白い包帯が巻かれていて、見た目は痛々しいが、本人はなんともないというふうに平気そうな顔をしていた。聞き返されたウィンリィは、さすがに、自分が今まずいことを口にしたと悟る。
エドワード達の任務についてさすがに口外は出来ない。
「あ…いえ……」
急にしどろもどろになるウィンリィにハンスは笑う。そして、おもむろにグラスをテーブルに置くと、ウィンリィの手をとった。
「すこし……」
「え?」
ウィンリィは目を丸くする。程近いところにハンスの切れ長な瞳があった。
「踊りませんか?」
それは無理強いという言葉は似合わなかった。しかしそれでいて、有無を言わさない不思議な強制力があった。ウィンリィは導かれるままにホールの真ん中へ躍り出る。
手を引かれるままのウィンリィの瞳は、無意識のうちにエドワードを探していた。歩みとともに流れる景色の中に、射るような金色の眼差しを見止める。しかし、眼差しをしっかりと重ねるよりも前に、ハンスに視界を遮られてしまった。
「踊りはお嫌いですか?」
おぼつかない足取りのウィンリィは、ハンスのリードに戸惑いの表情を浮かべながらもついていく。
「そ、その、あまりこういう経験がなくて……」
しどろもどろに言葉を返すウィンリィに、ハンスは何も言わず、ただにっこりと微笑を浮かべてみせる。
「大丈夫、あまり硬くならないで」
ウィンリィは慌てて頷き、ハンスの指先をぎゅっと強く握ってしまう。しかし、指先がうっすらと汗ばんでしまっていることに気づいて、ウィンリィは思わず手を離そうとする。
しかし、ハンスはそれを許さなかった。
「大丈夫」
彼は静かに一言だけ告げ、ウィンリィの手を導く。
「……まずは流れている曲をきいて。聴こえるでしょう? あとは身を委ねればいい。……簡単、ですよ」
ハンスの声は小さく、そして低かった。囁きながら、ウィンリィの身体を強く寄せる。
「それとも……」
ウィンリィの身体を寄せながら、ハンスはなおもウィンリィの耳元で囁いた。
「私よりも、彼のほうがよろしかったか」
彼? とウィンリィは一瞬小首を傾げた。見上げた先にいるハンスは薄く口端に笑みを浮かべながら、ちらりとあらぬ方角へ視線を流してみせる。促されるままに辿った視線の先を見止め、一拍の間の後、ウィンリィは頬に朱を昇らせた。
視線の果てには、会場の壁際で腕を組み、こちらを睨んでいるエドワードの姿があったからだ。
「……違います?」
ハンスは悪戯っぽく目を細めて笑い、ウィンリィになおも尋ねた。会話の流れを止めることなく、ダンスのリードは続けながら。
なんて高いところから見下ろすのだろう。ウィンリィは思わずエドワードと比較してしまう自分に気づく。それは知らない視線であり、知らない囁きだった。圧倒的に立ちふさがる未知のそれに、ウィンリィは声を失ったまま、ハンスを見上げた。
「彼、あなたのこと、ずっと見てる」
「……え?」
「ああ、ダメです、彼を見たらダメですよ」
ハンスは穏やかな笑みを浮かべたまま告げた。
「あなたが彼を見ようとすれば、彼は必ずあなたから目を逸らすんです。……ご存知でしたか?」
ハンスは囁いた。だからね、彼の前で彼のほうを見てはいけない、と。
ウィンリィはまるで何かに囚われたかのように、ハンスの言葉に付き従っていた。流れる音楽が遠のいていく。赤い瞳に囚われたまま、足と手と胴体がくるくると動いた。正確に言えば、動かされていた。見えない糸に吊るされた操り人形のように、ハンスのリードにされるがままだ。
(不思議なひと……)
ハンスを見上げながら、ウィンリィはゆるゆると何かに引き込まれていくような感覚を拒絶できずにいた。地についているはずの足がふわりと浮いて、虚空を漂っているような、そんな心地を覚える。的確に施される囁き声も、血の色にも似た緋の目も、まるで何かを暗示するかのように、確固たる存在感をもっていた。ウィンリィは小さく息を呑む。これを何と形容すべきなのだろう。まるでそれは……―。
(まるで、すべてを見透かされているような……)
言葉を継げずにいるウィンリィに、ハンスはなおも囁いた。
「その様子じゃ、ご存知なかったんですね」「……そ…れは……」
気が付けば、否、とウィンリィは心の中で強くハンスの言葉を否定していた。
(違うわ。……あたしは、知ってる。エドがあたしを見てくれないこと。見るよりも前に、背中を向けていること)
自然とウィンリィは唇を噛む。指摘されなくともどこか分かりきっていることだった。それを、知らないフリをしてきたのに。
「それは……?」
ハンスは手をとりながら、ウィンリィの言葉の続きを促した。ウィンリィは幾らか眉根を寄せながら、ハンスを見返した。
「……それは…………」
言いかけて、しかしウィンリィは思い直したように口調を改める。
「……でも、仕方ないんです」
「どうして?」
どうしてって……とウィンリィは空転する思考の中で言葉を捜した。間髪いれずにハンスに問われて、思考が追いつかない。問われた意味と自分の中に生まれた本心を咀嚼する間もなく、そのまま言葉を返してしまう。
「あたしは、ただ、待つことしかできなくて……」
脳裏に浮かぶのは、硝煙の匂いと、土埃の漂う瓦礫の街。そして、遠ざかっていく彼の背中。慟哭の中でただ呟くことしか出来なかった。待つことしかできないの……? と。己か他人か、誰に対して問うたか知れないその問いに、答えはまだ出せていないように思う。待つことしかできない。いつだってそうだった。今までも、そしてきっとこれからも。
負い目になりたくない。でもただ待つことしかできない。あたしに何ができるのだろう。戦場と化した街の中で、ウィンリィの思考は、問いは、凍結している。
それは分かりきっていることであり、しかし、分かりきっているからこそ、ハンスの問いはウィンリィの心の奥底をえぐる。無理やりこじあけようとする。待つことしかできない自分が、知らないフリをして蓋をしていたものを、開けようとするのだ。
蒼の眼差しを伏せながら、黙りこくってしまったウィンリィに、ハンスはひどく静かに宣告した。
「違いますよ」
「……え?」
ウィンリィは顔をあげる。ハンスの言葉は力強く、匂いたつ確信めいたものを纏っていた。
「……待つだけではない。あなたにも、出来ることが」
言葉を唐突に切り、ハンスはちらりと横目を見た。
「……エド」
名を呼んだのはウィンリィだ。遠ざかっていた音楽が唐突に蘇り、ウィンリィはハタと我に返る。ハンスとウィンリィの傍らには、いつの間にかエドワードが立っていた。
エドワードはムスッと口を一文字に結んだまま、ハンスからウィンリィの手を奪う。
「悪い。……これは、オレの連れなんで」
睨みあげる金色の両眼と、それを迎え撃つように受け止める緋色の両眼の眼差しが、空中で交差する。
「ええ、もちろん」
ハンスは素直にウィンリィの手を離し、両手をあげて降参のポーズをとる。
「分かっていますよ。……貴方はずっと彼女を見ていたのを知っていますから」
一歩身をひいたハンスは、ウィンリィのほうを見やる。
「あなたにも出来ることがある。……覚えておいて。目と目を合わせればすぐに分かりますよ……それでは、どうぞダンスの続きを」
ウィンリィの瞳を射るように見つめながら、ハンスはそれだけを告げると、軽くお辞儀をして背を向ける。
「……ったく」
ハンスが遠ざかるのを見送ってから、エドワードはウィンリィをじろりと睨む。
「気をつけろって言ってるだろ? さっきの話聞いてなかったのか?」
う、とウィンリィは言葉に詰まる。
エドワードはポリポリと頭をかきながら、なおも言った。
「顔色、悪いぞ、おまえ。何話してたんだよ?」
「………」
ウィンリィは押し黙る。そんな彼女を見つめて、エドワードは軽くため息をついた。
「休むか? ……あっちに飲み物あるし」
しかし、ウィンリィは首を縦にも横にも振らない。軽く俯いた彼女は、ただエドワードのスーツの端をきゅっと握り締めた。
「ウィンリィ?」
どうしたんだ? とエドワードは彼女の顔を覗き込む。瞳を伏せがちにしたウィンリィは、小さく呟いた。
「……ダンスの続き」
「はい?」
一瞬、彼女が何を言ったのかが分からずに、エドワードは目をパチクリする。
「続き。……踊ってよ」
ウィンリィはそう呟くと、エドワードの手に自分の手を重ねる。
「おい……」
エドワードの左手はウィンリィの右手が、そしてエドワードの鋼の右手にはウィンリィの左手が合わさる。
なに言ってんだ、おまえ……と言いかけて、しかしエドワードは途中で言葉を呑んだ。あわせられてきた指をしっかり絡める。
「言っとくけどな」
ぐいっとウィンリィの身体を自分のほうに引き寄せながら、エドワードはぶっきらぼうに呟いた。
「オレ、あいつみたいにダンス知らねぇンだからな」
あいつとは、ハンスのことだ。なんだかんだと言いながら、エドワードはハンスのことを引け目に感じるらしい。それを悟ったウィンリィは明瞭警戒に
「知ってる」
「は?」
ウィンリィはクスっと笑みを零しながら、エドワードを見返した。
「知ってるわよ、そんなの」
でもいいのよ、とウィンリィは笑った。暗い表情から一変して明るく笑んでみせるウィンリィに、エドワードは思わず視線を逸らしてしまう。わけわかんねぇ! と思いながらも、なぜだか心臓がドギマギと落ち着きを失っているのに気づいたからだ。
口を硬く引き結んだまま、ギクシャクと音楽に合わせて動き始めるエドワードが、ウィンリィは可笑しかった。
やさしい調べが包み込むホールの真ん中で、いつもは背中を向ける彼が、今日は向けていない。重ねた掌の片方は温かく、片方は冷たい。
その事実に、心がキュンと音鳴り始めるのを、ウィンリィは力なく感じていた。
「エド」
「あん?」
「ネクタイ。曲がってる」
「あ?」
ウィンリィはするりと手を離すと、エドワードの首元に指を添えようとする。
「いいよ、キツイし」
「だめ」
程近いところでウィンリィの真剣な蒼の瞳が揺れている。それにドギマギしながら、エドワードは身を引こうとしたが、ウィンリィは許さなかった。
まろやかに流れる音色に、まだ終わりの気配は見当たらない。エドワードは軽く息をつきながら、観念したように彼女のされるがままになった。ウィンリィの手が離れてお役御免となった己の両腕を、軽くウィンリィの腰の辺りに回す。
まどろみにも似た調べは、予感めいた何かを囁く。それが何なのかは知らないまま、エドワードは誘われるようにウィンリィの顔を間近から見つめていた。煌びやかな明かりの下、間近から見る彼女の肌は真珠のように白く、唇は桜色に濡れている。そんな彼女を、エドワードはただ言葉無く見つめ続けていた。
(こいつ、誰だろ……?)
思えばここ最近、この幼馴染をこうやってマジマジと見つめたことは無かったような気がする。化粧でもしているのか、ウィンリィはいつもと違っているように見える。
「……楽しかった…?」
「は?」
ネクタイに一心に目を落としながら、ウィンリィは言った。
「エレーナさんとのおしゃべり」
……ずっと見てたんだから、なんてウィンリィは言わない。その言葉は飲み込んだ。
エレーナとの短い会話のことを指しているのか、と
「……別に」
言いながら、エドワードは落ち着かなくなってくる。
二人の間に沈黙が落ちた。
部屋から流れてくるのは上品な音楽。そして低く流れてくるのは人々の喧騒だ。ネクタイを直し終わったウィンリィは、重ねるはずのエドワードの両手がないことに気づいて、迷うように彼の両胸元に手をつく。伏せ目がちのまま、エドワードの胸の中にウィンリィはすっぽりと収まった。エドワードは軽くウィンリィの肩に顎先を寄せる。
身体を、妙な高揚感がくすぐるのをエドワードは自覚した。まずいな、と思った。今夜の彼女は、綺麗すぎる。
「ウィンリィ……」
身体を軽く離して、エドワードは彼女を覗き込みながら名を呼んだ。
「なに?」
しおらしい返事とともに、彼女の蒼い瞳が間近に揺れる。
言うべきか、言わざるべきか。考えるよりも口が動いていた。さっきから感じていた違和感が何なのか分からないまま。
「おまえこそ、楽しかった? ハンスとの会話」
彼女のきゅるりとした瞳が不穏に揺れる。
「どう、して?」
みっともねぇ、とエドワードは思わず眩暈を覚える。ああちがう、そういうことを言いたいんじゃない。
お願いだから、心配かけさせないでくれ、分かってくれ。言いたいけど、なんとなく言うのが恥ずかしい。うまく言えない。いや違う、言いたいのはそうではなく。
ウィンリィとハンスの二人が会話しているのを遠目に見て、ただ眺めていることが我慢ならなかったのだ。気が付いたら身体が動いていたのだ。それがどうしてなのか、エドワードはようやく、答えを得ようとし始めていた。
「何? エド?」
まっすぐにウィンリィがエドワードを見た。ウィンリィの目の前に金色の瞳が揺れている。二人の視線は重なり、ぴたりと縫い止められた。
エドワードは思わず手を伸ばす。彼女の腰に回していた腕のうちの片方を、今度は彼女の肩先へ。触れ合っていた身体はさらに重なり、二人の距離はゆっくりと縮まっていく。きらきらと煌くパーティーの明かりの元で、幾重にもプリズムを描き乱反射しながら踊る二人の足元の影が、ゆっくりとその形をぴったりと重ね合わせていく。
パール色の光を浴びた白い肌、薄い桜色に濡れた唇、そして揺れる空色の瞳。囚われるようにエドワードは手を伸ばしていた。触れるのは許されないような気がして、それでも絡めとりたい衝動が、彼女の肩まで降ろしたハニィブロンドへ伸びる。
「エ、ド……?」
見たことのないような、精悍で真っ直ぐな金色の瞳に囚われる。ウィンリィは動けなくなっていく。まるで世界のすべてがそれであるように、彼の瞳を見つめ返す。予兆めいた衝動が、身体の内側から打ち乱れる鼓動となって競りあがってくる。
(なんだろう、この感情は)
定められた儀式の所作のように、ウィンリィは思わず目を閉じる。困惑と同時に誘われるまどろみのような安堵の予感がそこにあった。彼の顔が近づいてくる。空気が動いて、それがわかる。この感情を確信する。もう音楽もなにも関係なかった。そこにエドワードがいる。そこにウィンリィがいるという、二人だけが認める世界。
二人して重なった想いが、感情が、なんという名前を持つのか、二人して今はまだ知らない。それでも身体は知っているかのように、二人を近づけあう。引き合わせる。
この感情に、名前をつけるとしたら?
答えを出すよりも、エドワードは目を閉じていた。ウィンリィの後れ毛に手を添えて、ゆっくりと彼女の顔に顔を近づける。
その様子を、物憂げに眺めている人物が二人、会場にはいた。
ひとりはハンス。そして、もうひとりは、このオルドールの主であるエレーナ。
壁際に寄った二人は、ホールの真ん中で踊る金髪の男女を見つめていた。
「炊きつけたのか」
主人の問いに、ハンスはただ黙って瞳を伏せる。エレーナはハンスの返答を待たなかった。ただただ憂いをたたえた赤き瞳を、わずかに歪める。
「なぜ……」
エレーナは小さく呟いた。
「……なぜ、何も知らないままで、いられないんだろうな。人は」
「………」
エレーナの言葉の真意を知ってか知らずか、ハンスは押し黙ったまま、ただこのオルドールの若き主人の傍に控え立つ。
そんな二人の会話をよそに、音楽はゆるやかにたおやかに盛り上がり、感情に堕ちる二人の男女の背中を押していた。
エレーナはただただ黙って、その場を見つめていた。
ホールの中ほどで、エドワードとウィンリィは人々の喧騒の中を甘い旋律に乗りながら、互いの感情を確かめるように、ただただ静かに唇を重ねた。
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