ひやりと、胸の奥底が切れるように冷えた。
ウィンリィは声が出せなかった。
ひゅっと喉の奥が鳴ったような気がしたが、
それよりも、目の前が突如真っ黒になってしまったことに混乱した。
「ぁ……―――っ!?」
ぞわりと足元から体全体へと這い上がってくるのは、
身体がふわりと浮いたような感触だ。
しかし、浮いたのではない。
―――落下している。
ようやくそれに気付いて、
驚愕のあまり身体はやっとのことで声をあげることを思い出す。
自分の悲鳴が他人事のように耳に届く。
闇の中に反響し共鳴し、こだまを作って幾重にも重なりながら
自分の思考を占めていく。
しかし、それさえも現実感が伴わない。
青白い光が炸裂したと同時に、
足を支えていた地面が急に消えたのだ。
何が起こったのかわからなかった。
しかし、落下する瞬間に、伸ばされた手があった。
脳裏にチカチカと光が白く点滅するのに、目の前にはのっぺりとした黒い闇が覆いかぶさる。
全てが真っ暗になる前に、伸ばされたその手に無我夢中で手を伸ばしていた。
離れたくなかった。
だから、手を握る。ひどく温かく、それでいてひやりと冷たいその手を。
なのに、どうして。
落下速度の上昇と同時に加速していくのは、この闇よりも黒い不安と恐れだった。
手を、握っていた。握っていたはずだったのに。
それが離れる。離れていく。
嫌だった。怖かった。すがるように、闇の中で悪あがきをする。
だが、それをはるかに勝る圧倒的な力に身体を引き剥がされる。
「あ………ッ」
何かに引っ張られた気がした。
それは、大丈夫だと指先で自分を励ました彼ではないような気がした。
触れていた暖かみはあっけなく溶けて闇に喪失する。
助けて。
出そうとした声は、言葉にはならなかった。
****
「……また、揺れるな」
机上に置いたペンがカタカタと細かく震えるのを見つめながら
ぽつんと呟くエレーナに、
同じように低い声でサラムは答える。
「鼠がおりますゆえ。……駆除はボルティモアに。」
憲兵大尉の名前を聞いて、
エレーナの顔はわずかに歪む。
オルドールは、限定的に自治を認められた特別区だった。
送り込まれてきた狗は、送り込まれた先でも狗でしかなかった。
飼い主が違うだけだ。そして、エレーナは飼い主ではない。
エレーナはわずかに瞳を歪ませたあと、
逸れた話を思い出したかのように、伏せた目を軽く上げる。
下座に控えるサラムの蛇のような赤い湿った瞳と、視線が絡む。
「で?」
「………」
エレーナはサラムを淡々と見つめた。
押し黙ったまま見上げてくる配下は、父の配下であり、自分の配下ではない。
自分の配下は………そう思い至って、
エレーナは思考を遮断する。己の判断で。
「で?私とハンスがなんだと?」
返答によっては容赦はしないつもりだった。
エレーナの淡々とした視線は、しかし人を圧倒する力強さがある。
顔色の良くない彼女だったが、それが余計に、力強い視線に覇気を与えていた。
くだらない中傷なら、水面下で語られていることをエレーナは知っている。
もちろん、それは一部のもの、それこそ、自分の素性を芯からよく見知っている者の間で
まことしやかに語られているのだと、
他ならぬハンスから聴いていたからだ。
「お前の言いたいことは知っているよ、サラム」
赤く濁った目で配下を捉えたままのエレーナの表情はどこまでも淡々としていて
動きがない。
しかし、それとは裏腹に、小さな唇はよく動いた。
「私とあれは幼い頃からよく見知ってる仲だ。
だからお前が誤解するのも無理はない。……とでも言ってもらいたいか?」
どこまでも静かなエレーナの声に、
サラムは淡々とした視線を送り返す。
どこか遠くから、人の喧騒がまばらに耳に届く。
二人だけの政務室に、それがきれぎれに響いていた。
―――幼馴染以上の、ただならぬ関係にある。
そう、噂をされ始めたのは今に限ったことではなかった。
父が倒れて政務を任されはじめた頃はそれに傷ついたこともあったけれども、
それもすぐに馴れた。
色々な傷は、次々につけられていったけれども、すぐに慣れていく。
…麻痺が始まっているのかもしれない。
父が冒されてる「もの」に、自分もまた。
全てのことに慣れていった。慣れるしか、なかった。それ以外に、道は無かったのだ。
そして、今も慣れきっている。全てに対して。痛みにも、罪にも。
慣れることに、慣れるしかなかったのだ。
「…この非常時に、くだらないことに散漫するな」
エレーナは吐き捨てる。
「大いなる力を使える人間は限られている。
あれはそういった意味ではお前よりも遥かに父の役に立っていると思うが」
わずかに、サラムが息を呑んだ。
苦虫を潰したような、苦し紛れな表情は、しかし一瞬だけだ。
にらみ合ったまま、数分の時が流れたように思えた。
鉛を呑んだような重苦しい沈黙を破ったのは、
扉を勢いよくあけるオルドールの一兵。
彼は迷わずサラムのほうに歩み寄り、
何かを短く耳打ちする。
エレーナはそれを黙って見つめていた。
正確には、見つめているフリをしているだけだったが。
すべてが、限界に近かった。もう、限界は超えているかもしれない。
兵が下がり、
サラムは重い口をようやく開いた。
「あなたは分かっていない」
「……」
このごに及んで何が分からないというのか。
エレーナは試してみる気持ち半分で、何がだ、と問うてみる。
「その地位、あなただけのものではない、ということをです」
エレーナは眉をしかめる。
再度、何がだ、と問おうとした言葉はさえぎられた。
「朗報です」
サラムがその次に続けた言葉に、エレーナは瞬時に言葉を失う。
ゆっくりと息をついて、エレーナは椅子に深く座りなおした。
その様を、サラムは黙ってみていた。
「それじゃあ、行かねばならないな」
ぽつんと呟いた言葉に、覇気はない。
エレーナはもう、サラムを見てはいなかった。
脳裏に蘇るのは、どうしようもなく楽しかった時間だけだ。
それを全て、裏切ることになる。
……許しを請うことも許されない。
こんなにも、苦しいことなのか。
かつて、自分は同じことを幼馴染に語った。
許しを請う彼を、許さないと。
「バカだな……」
泣きたくなるが、泣けない。
涙は枯れたのだから、と言い聞かせる自分に目を逸らす。
そうしなければ、慣れることは出来なかったから。
かつて彼に言った言葉が、そのまま自分に返ってきている気がして、
それが、とてつもなく痛かった。
虚ろな瞳を空虚に歪ませるエレーナを
同じく虚ろな赤を滲ませながら、サラムは淡々と見つめていた。
*****
…気持ち悪い。
手探りをするように徐々に明瞭になっていく意識の中で、
エドワードはようやく、胸のつかえを適切に表現する言葉を探し当てる。
体中に痛みが走った。
ゆっくりと目をあけて、ここがどこなのか確認しようと瞳を巡らせる。
しかし、視界がひらけるよりも先に、鼻についたのは匂いだった。
どこかで嗅いだ事がある。どこだったか、思い出せない。
ゆるゆると働き出した思考を巡らせながら、
ああそうだ、とひとり心の中で合点する。
この甘ったるい匂いは、エレーナの屋敷のあちこちで嗅ぎ取ったそれと同じものだった。
あちこちで嗅いだのに、嗅いだ先からするりと逃れるようにうつろい消えていったあの香り。
徐々にひらけつつある視界はやたらに眩しくて、
うまく目をあけられない。
そして同時に、この甘ったるい匂いに意識が蕩けそうになる。
それまでは、嗅いだらすぐに立ち消えてしまうような
そんな曖昧な存在だった。しかし、今は違う。
脳を侵食するような、強く獰猛な香りが全てを奪おうと牙を剥いているような気がした。
身体を起こそうとして、走る激痛にエドワードは呻いた。
起こしかけた身体は力抜けてまた地面に横たわる。
背中が痛いのは落下したからだ。
追い詰められて、一か八かで地面に穴をあけた。
ただ単純に、縦穴を地面下に向かってあけただけ。
すぐに追いつかれるのは分かっていた。
だから早く体を起こして、逃げなければならなかった。
エドワードは建物の構造は知らなかった。あの時分かっていたのは、
自分達が閉じ込められていた牢はどこかの地下にあったらしいという、ただそれだけだった。
錬金術で逃げ道を作ったはずだった。
しかし、ひらけた視界に、まるく広がるのは縦穴ではなかった。
眩しくて、目をあけにくい。
我慢して辺りに瞳を巡らせる。
霧を流したような白い光に辺りは包まれていた。
湿っぽい空気に、背中に感じる湿った地面。そして、首元をざわざわとくすぐる何か。
さらには、胸の上にかかる重みを自覚して、
エドワードはようやく意識をはっきりとさせることが出来た。
それと同時に、ぎくりと身体がこわばる。
恐る恐る視線を天上から下へと移動させれば、
ふわふわとハチミツ色の髪が踊っている。
もちろん、自分のものではない。
のしかかる重みは、たいしたことではなかったが、
しかし別の思考が頭を占めそうになってしまって、ちょっと待て!と慌てて頭の中で自制する。
「ウィン……リィ……」
自分の身体の上で、彼女のものらしき柔らかな物体がぴくっと微動する。
「エド……」
か細い声が返ってきて、
伏せられていた彼女の顔がゆっくりとあげられる。
自分の顔を覗き込むようなその仕草を、エドワードは正視できずに視線を逸らす。
「……ぃ」
「え?」
彼女が聞き返してくるので、ちくしょ、と内心舌打ちしながら
エドワードは繰り返す。
「ウィンリィ………――重い」
「は?」
エドワードは視線を斜めに逸らしながら、もう一度口にする。
正視に耐えなかった。……こんな間近で、勘弁してくれ。
どうしてこんな目にばかり遭うのだと嘆く暇もなく、
彼女がなんですって!と掴みかかってくる。
ちょっと待て、とエドワードが降参のポーズを取って、なんとか押し留めた。
「そんな危ないもん振り回……」
いつの間にか彼女の手にあるスパナに目をやりながら
泡を食ったように慌てて言いかけた言葉を、
しかし、エドワードは途中で止める。
止めざるを得なかった。
「……ごめん」
なんて言ったらいいのか分からなかった。
真っ先に口について出たのは謝罪の言葉だった。
エドワードの言葉に、ウィンリィはかぶりをふる。
しかし、彼女の目からは涙が滲んでいるのが、
真下から顔を覗き込む格好のエドワードにはよく分かった。
……泣くな。
それを言葉にはなんとなく出来なくて、エドワードは唇を噛んだ。
代わりに、口を一文字に結んで、エドワードはウィンリィの頭に手を伸ばす。
見たくない、とでも言わんばかりに、
彼女の頭を自分のほうに寄せる。
ウィンリィはされるがままだった。
そのまま、エドワードは、彼女の頭を自分の胸に押し付けるように寄せる。
二人の間に言葉はない。
いたたまれなくなってくるエドワードだったが、
何か言おうと思って開いた口は、しかし慰めの言葉が分からなくて
気の利いたことはやはり言えない。
「……わかるだろ」
「……」
「なんだか知らねぇけど、あいつら、お前のこと狙ってる」
「……」
「地上への道を探して、大佐とアルを見つければ。
きっと何とかなる」
だから、大丈夫だ。
低く声を押しとどめながら、エドワードは畳み掛けるように言葉を継ぐ。
あまり大きな声は出せなかった。
心臓が早鐘を打っている。
追っ手はすぐに来るかもしれない。逃げ切れるかは分からなかった。
そのせいで、緊張していた。
そのせいだけではないとも分かっていたけれども。
「逃げるぞ」
な? と言い聞かせるように、見えない彼女の顔を伺うように
エドワードは首をわずかにもたげる。
胸の上に顔を伏せた彼女の頭しか見えなかったが、
その蜂蜜色の髪がゆっくりと頷くように揺れるのを確認して、
エドワードは再度身体を起こす。
背中にずきりと鈍い痛みを覚えるが、今度は構っていられなかった。
悲鳴じみた軋みをあげる全身をなだめながら、
ウィンリィを抱きとめたままエドワードは上半身を起こす。
……やわらかい。
考えている時間も余裕もないはずなのに、どうでもいいことに意識がいってしまって、
ちくしょ、と慌てたエドワードは誰にともなく悪態をつく。
抱いた腕をゆっくりとほどくと、
彼女の身体の力が抜けるのがそれとなく分かった。
それがなんとなく危なっかしい気がして、
エドワードは緩めた腕に再度力を込める。
そうすると、顔を伏せたままの彼女は
黙ったまま自分の背中に腕を回してくる。
エドワードはため息をついた。
ため息でもついてないと、この状況をやり過ごせそうにもなかった。
風が吹いた気がした。
気のせいか、とエドワードは瞳を巡らせる。
身体を起こしたエドワードの視界に、
飛び込んでくるのは知らない草原だった。
「………」
エドワードは言葉を失う。
視界の最果てまで、
辺り一面に、緑の草が生い茂っていた。
地面の下のはずなのに、辺りはやけに明るく、
地下とはとても思えない、ぽっかりと拓けた場所だった。
首をぐるりとめぐらせても、
一面、緑色に覆われている。
「なんだ…これ……」
エドワードは目を凝らす。
知らない植物だった。
いくつかは、実のようなものを付けている。
それは刺々しいほどに悪趣味な赤色をしていた。
どことなく毒々しい緑と赤のコントラストに酔いそうになる。
深緑の枝葉をいっぱいに天上に広げて、
音も無い空間に、無数の緑植物が揺れているというその見知らぬ光景は、
どことなく異様だった。
言葉もなく辺りを呆然と見渡していると、
腕の中のウィンリィがわずかに身じろいだので、
エドワードは反射的に腕を緩める。
「大丈夫か」
あげた顔にゆらゆらと蒼く潤む瞳を確認して、
エドワードは立ち上がる。
身体を走る激痛に眩暈を覚えた。
しかし、なんとか立てた。
「何かの畑らしいし……」
エドワードは周りを見渡しながら言葉を濁す。
半信半疑だった。
閉じ込められていた牢が地下にしろ、地下じゃないにしろ、
どことも知れないこのひらけた空間にひろがるこの緑の海は異常だった。
「…もしかしたら、どこかに出口があるかもしれない」
探してみよう、と自分にも言い聞かせるつもりで
エドワードは適当な方向へと身体をくるりと向ける。
「エド」
とりあえず歩を進め始めたエドワードに、
ウィンリィが名を呼ぶ。
「ん」
きょろきょろと辺りを見回していたエドワードは
瞬間ぎくりと身体をこわばらせる。
慌てて、くるっと首だけ背後のウィンリィに向けたエドワードだったが、
慌てたままに言いかけた言葉を、しかし失ってしまう。
「何よ」
その台詞はオレの物のような気がするが、というのは
胸の中にしまって、エドワードは何でもねーよと努めて素っ気無く言葉を返した。
そのまま前を向く。
しかし、意識は後ろに置いたままだ。
ぎゅっと、手を握られる。
左手を、力を込めて握られていた。
びっくりするほどにその手は冷たくて、怖くなる。
……調子が狂う。
ふっと唐突に胸に堕ちた翳りを、
エドワードはまだ明確に意識はしていなかった。
それよりも、ここから脱出することが先だった。
地面に縦穴をあけたと思ったのに、
どうやらあけたのは落とし穴だったようだ。
行けども行けども終わりの見えない緑の海をざくざくと踏みつけながら、
この異様な空間にどんどん気分が悪くなってくる。
……気持ち悪い。
胸がムカムカしていた。
しかし、胸のムカムカを思い出した瞬間に、ふっとあの「甘ったるい匂い」が鼻先によぎるのだ。
その匂いを嗅ぎ取ったかと思えば、また胸の不快感を思い出す。その繰り返しだった。
「お前、なんともないか?」
前を向いたまま、エドワードは聞いてみた。
背後からの答えは、何が?という質問だった。
不快感を抱いているのは自分だけのようだった。
落下した際に身体を強く打ったのが原因かもしれない。
生い茂る緑の植物がいくらかクッションの役目を果たしたようだった。
我ながらよく無事だったもんだとエドワードは歩きながら首をひねる。
そして、終わりの見えない緑の海に再度ため息を漏らす。
ところどころで揺れる赤い実は、
オルドールの人間の目の色に似ていた。
出口はどこだ。
ちくしょー!と叫びたくなってくる。
揺れる赤は、かぎりなく不穏の色だった。
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