地響きがする。
「『鼠』か……」
エレーナはぽつんと呟く。
高官達のほとんどが退室した政務室で、
エレーナはこめかみに指を当てながら目を閉じていた。
座する机のちょうど向かい側からは、
サラムが、睨むような赤く湿った視線を送っている。
目を閉じていても、エレーナにはそれがよく分かる。
だからひとつ、重く息をついた。
「……お前が私に不満があるのは分かる」
しかしだ、と、
眼を閉じたまま、エレーナは鈍く口を開いた。
「私は父上の命令のままに動いているだけだ」
「分かっております」
間髪入れずに返って来た言葉に、
エレーナは不穏げに目をあける。
不審そうに揺れる彼女の赤い瞳はどこか濁っていた。
その目を真っ直ぐに見ながら、
サラムは口を開く。
「軍が街の郊外に集結しているという情報も入っています。
正面衝突は避けられません。先の脱走も、
あの国家錬金術師をさっさと殺していれば良かったのです。
衝突が避けられないのならなおさら。」
「ハンスは彼に利用価値がある、と」
エレーナの言葉に、そうは思えないといわんばかりにサラムは首を横に振る。
「仮にそうだとしても、あの錬金術師もまた、力を狙う者です。
生かしておく理由は無い。あの少女さえ手に入れれば」
その言葉に、エレーナはわずかに表情を曇らせる。
「どうしても、なのか」
「勅令です」
エレーナは唇を噛む。
ついた肘を机から下ろし、居直るように背筋を伸ばしてサラムを見た。
しかし、自分の目がほとんど見えていないことを
エレーナは痛いほどに自覚していた。
視界はどこまでもぼやけ、曖昧に揺れている。
それでも、見える振りをしなければならなかった。
自分に、限界が来ていることを、まだ誰にも悟られてはいけない。
「わかった。」
エレーナの脳裏には、
先ほど、庭の泉で驚きを隠せないまま自分を呆然と見ていた少女の顔がちらついて離れない。
――あなた達に会わなければ良かった。
呪うように吐いた言葉は、しかし最初から最後まで真実だった。
今、胸のずっと奥にある心臓をわしづかみにされたような
そんないたたまれない気持ちにさいなまれているのは、
自分が何をやっても裏切りを重ねているからなのだと、エレーナは思い至る。
過ごした時間は短かったが、それでも交わした言葉の端々から、
ウィンリィのひととなりは理解できたし、
己の母を連想してしまう青い目も、金色の髪も、
まとめて彼女が好きだったのだ。
同じものを持っているはずなのに、どうしてこうも自分は違うのか。
そうした失望めいたものを軽く抱くきっかけにはなったものの、
心底彼女が羨ましかった。
だから、失望されたくなかった。
偽ることは苦しい。暴露するのは容易だった。
それでも、何をやっても失望は折り重なるようにして自分の中に降り積もる。
どうして、と責めるように自分を見たウィンリィの青い目が、痛いほどに突き刺さる。
裏切ったのだ。
……裏切り者の街とは、よく言ったものだ。
そう思い至って、泣きたくなってくる。
いや違う、とエレーナは内心首をふって己の言葉を打ち消す。
もう何度だって泣いた。
「涙は枯れたんだ」と、幼馴染には言ったけれど。
涙を流しすぎて、自分はもう、赤い涙を流せない。
泣けない理由を作りたくて、そう言った。
そう言って、何も知らない幼馴染の彼を無用の道に引きずり込んだ。……あの夜に。
何をやっても失望は折り重なるようにして自分の中に降り積もる。
罪という名前で以って。
出会わなければ良かった。
知らなければ良かった。
そうしたら、簡単に殺せた。
……免罪符にもならない言葉を並べて逃れようとしている自分に気付く。
そうでなければ、自分を保てない。
エレーナは目を伏せて、唇を噛んだ。
歯がゆかった。
どうして力が無いのだ、と。
力が無いから欲したはずなのに。手に入れたいと願ったのに。
手に入れる前からもう、後悔している。そして自問している。
どうして力が無いのだ、と。
同じところをぐるぐる回っている気がした。息が詰まるような閉塞感にどうにかなりそうだった。
「父の命令どおりに」
エレーナは呼吸ひとつ分の間を置いてから、
吐き出すように呟く。
「彼女で。試す」
言いながら後悔している。もう何度も味わったけれど慣れることはない。
何度自分を殺せばいいのか分からない。
自分の願いはひとつなのに、そのための犠牲がある。そのために殺している。殺す為に殺している。
そんな気がした。
顔を歪めながらぽつりと言葉を継いだエレーナを、
サラムは何の感慨もない様子で見ていた。
冴え冴えとした表情に、人間の情味は無い。
「ご覚悟は結構なことです」
感情の篭らない声はさらに続いた。
「しかし、ハンス殿に対する貴女様の判断には納得いきません」
エレーナはまたひとつ、今度は大仰にため息をついた。
もう何度となく言われていることだった。
「……ハンスはよくやってくれている。
私はお前がそこまで彼に敵対する気持ちが心底分からないよ、サラム」
サラムは蝋人形のような表情の無い顔を真っ直ぐに向けたまま、
エレーナの言葉を否定する。
「敵対しているわけではありません。
私は長年の悲願をフェイ様のために成就させたいというただそれだけです。
ハイゼンベルクへの忠誠から言っているまで。」
エレーナは、サラムのハイゼンベルクへの忠誠という言葉のところで
辛辣に眉をしかめてみせた。
「……私も、ハイゼンベルクの人間なのだが?」
「ええ、分かっています。だからこそ、です」
何が言いたい、とますます眉を顰めたエレーナは机に片肘をついて、手を頭につく。
睨み上げるように顔を斜めに傾けたまま、
エレーナはサラムの言葉を待った。
主筋の娘の睨むような視線に、
しかしサラムは動じない。
淡々とした表情で、その視線を見返す。
「貴女様とハンス殿は近すぎる」
エレーナはその言葉にぴくりと顔をこわばらせたが、
それは一瞬のことだった。
すぐに取り繕うように、歳が近いからな、と短く返す。
「それだけではありません」
サラムはにべもなくエレーナの言葉を打ち消した。
「私が、知らないとお思いか?」
放った言葉には、嘲笑うような語調が篭められている。
「………何が、言いたいのだ」
エレーナはついた肘を机上から離して、
姿勢をなおしながら、サラムを直視する。
濁った紅の双眸が、射るように配下であるはずのサラムを捉えた。
赤い視線はわずかに敵意めいたものを剥きながら、
配下の言葉の続きを渇いたように待った。
そのとき、
またひとつ、地響きが起こった。
「――ボルティモア大尉!」
エドワードは叫ぶ。
ボルティモアの背後には数人の兵卒らしき者が続いている。
憲兵である彼がなぜここにいるのか。
ふと後ろ髪を引かれるような、そんな疑問が全く無かったわけではない。
しかし、それを考える前に、
何の前触れも無く、唐突に建物がぐらりと激しく揺れ始める。
何事だ、とざわめくのは、エドワード達を取り巻いていた男達だ。
落ち着かない様子で隣人同士顔を見合わせる。
揺れはそこまで大きくはない。
しかし、低い天井からは、埃っぽい砂がぱらぱらと散る。
石造りの建物はそこまでやわではないようだった。
足元も身体もおぼつかなくなるほどのゆれだったが、崩壊するほどでもないようだ。
動揺の走る男達の中にあって、
ハンスはいたって冷静だった。
涼やかで切れ長の赤い瞳は、真っ直ぐにエドワードを見ている。
エドワードを一瞥したボルティモアは、
ゆっくりと敬礼の姿勢をとる。
エドワードにではなく、ハンスに。
「鼠駆除は終わったか」
ハンスの言葉に、ボルティモアはもう少し時間がかかりそうです、と返す。
「あ、んた……!」
エドワードは言葉を継げない。
状況を理解し始めて、またしても眉を顰めながら唇を噛むエドワードを見ながら、
ハンスは何の感情も込められていない声で冷ややかに言う。焦ることはないさ、と。
「相手は錬金術師だ。こいつを餌にすれば釣れるはずだよ」
そう言うハンスの視線の先には、
なす術もなくハンスを睨み上げているエドワードの姿がある。
どうすればいい、と全く打開されない、むしろさらに悪くなってしまっている状況に
エドワードは思考をめまぐるしく巡らせる。
多勢に無勢なのは分かりきっていた。
加えて、今自分がいる場所がよく分からない。
どこかの地下らしいとは想像できるのだが、それだけだった。
意識を失った場所は、オルドールの屋敷の庭先だ。
それからどうやって運ばれたのか自分には分からない。
先ほどからハンス達が言っている「鼠」は恐らくマスタングのことだろう、とエドワードは踏んでいた。
彼らの言から知れた「爆発」が本当なら
屋敷に滞在しているマスタングが気付かないわけが無い。
しかし、ここがオルドールの屋敷とは無関係の場所ならば、そう簡単に断言も出来なかった。
加えて、この状況でボルティモアの造反が否定できないなら、
マスタング自身もまずいことになっているのではとふと思い至る。
事態は、手に余るほどに、そして思った以上に、深刻らしい。
その時、後ろの彼女の声がする。
「エド……」
不安げに名前を呼ばれた。
エドワードは背後を振り向かなかった。
その代わり、握った手に力を込める。
指先は冷えていた。
自分の手が冷えているのだとようやくエドワードは自覚する。
応えるように握り返されて、繋がれて伝わるその感触に、
簡単に導かれるのはひとつの答え。
逃げなければならない。
思考を占めるのは、その明確な答え。
他に道は無い。
……考えろ。
後ろは振り向かない。
唇を噛みながら、前だけを向いた。
行く手を阻むハンスを睨む。
赤い目が、絡みとるように自分を射る。
その目を睨みつけながら、
エドワードはゆっくりとほぐすように繋いだ手を後ろ手にゆるめる。
赤い目に見咎められないよう、赤いコートにぴったりと腕を這わせながら、隠しながら。
ためらうような動きを見せる彼女をなだめるように、
顔は前を向いたまま、繋いだ指だけで言葉を交わす。
握った指先を少し離して、また少しだけ触れて、再度離す。
言葉に出せない分、丹念に、言い聞かせるように。
……逃げなければ、ならない。だから。
「無駄だよ」
ハンスはもう一度、哂うように言う。
押し黙ったまま自分を淡々と睨み続ける国家錬金術師に、無情に答えを下す。
「諦めろ」
その言葉に、唐突に、
へっ、と錬金術師は哂い返す。
ん?とハンスは眉を顰める。
それをみてとりながら、エドワードは叫ぶ。
「いやだね……!」
……大丈夫だから。
口でいえない代わりに、最後に、つ、と触れた指先に言葉ひとつをのせたあと、
間髪いれずにエドワードはするりと己の両手を合わす。
構えていた槍がからんと音を立てて地面に落ちるその前に、全てが終わり、始まる。
手の鳴る音は乾いた響きひとつ分。
その瞬間、青白い光が辺りを包んだ。
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