目の前にぽっかりと黒い穴が開いている。
ハンスは無言で、その穴の淵に片膝をついた。
どこからともなく吹き上げてくる空気に、
彼の前髪が軽くなぶられ、揺れる。
「ただちに捜索隊を」
背後からのボルティモアの声に、
ハンスは声も無く頷いた。
吹き上げてくる空気の、その匂いに、
ハンスはわずかに顔をしかめる。
……バレたか。
ハンスは内心舌打ちした。
錬金術師を今度こそ捉えたと思ったのに、
今度は地面の下に逃げられた。
ハンスはこの穴の先に何があるか、熟知していた。
エレーナでさえ知らない、オルドールの大きな秘密がそこにある。
錬金術師を飲み込んだ黒い穴を見つめながら、
ハンスは立ち上がる。
そして、ちらりと背後のボルティモアに目配せする。
「差し向ける人員は最低限。
……人は、選べ」
ハンスの低い声に、
ボルティモアは軽く頭を下げる仕草をする。
それを見届けてから、ハンスはもう一度、
エドワードとウィンリィが消えたその穴に視線を戻す。
握っていたこぶしの中に汗が滲んでいることに
ようやくハンスは気付いた。
……緊張しているのか。それとも。
吐き気がするほどに、胸の動悸が煩い。
心臓を口からもどしてしまうのではないかというほどに、
心拍数はどんどん跳ね上がっていく。
ひどい焦燥感と焦りが、己の身体を痛いほどに焦がしている。
全ては走り出している。もう、遅い。
エレーナなら、にべもなく言うだろう。
それが分かっているから、なおさら
この事態に苛々が募った。
……殺すしかない。
唇を噛みながら、初めて落ちてきた答えに、
ハンスは驚くほどに冷静に向き合っていた。
もちろん、あの国家錬金術師には生かすだけの利用価値があると
ハンスは思っていたし、それは今も変わらない。
しかし、
この穴の先の秘密を知られたとしたら、
あの錬金術師を殺すしかない。
その先は、誰も足を踏み入れてはならない場所だった。
口外されれば、オルドールは破滅だ。
「ボルティモア大尉」
ハンスは静かに声をあげた。
整然と並び始めているいくらかの兵卒の前に立つボルティモアが、
何の感情もうかがい知れない表情でハンスを見返す。
「私も行く」
宰相代理の声を阻む者はその場にはいなかった。
****
意識が朦朧としてくる。
浅く呼吸を繰り返しながら、自分の息が切れ切れになり始めているのを
エドワードはゆるやかに理解し始めていた。
空気が重い。
風が吹くはずの無いその地下空洞の中で、
何の植物か、名前の知らない緑草の海が音もなく揺れている。
それを足でざくざくと踏みつけながら、
ウィンリィを引っ張るようにしてどこへともなく歩いている。
整然と並ぶようにして生い茂るその植物は、
明らかに人の手によって耕された柔らかな土の上で葉を生い茂らせていた。
なんなんだここは、と考えようとしたが、
うまく集中できなかった。
ああ違う、とエドワードは頭を振る。
まず考えなければいけないのはここから地上へ出る方法だ。
しかも、容易に予想できる追っ手の目から逃れながら。
意識が散漫としてうまくまとまらない。
無性に苛々してきて、エドワードは頭をかきむしる。
緑の海に果ては無いように思えた。
そして進めば進むほど、目の前を覆うのは濃い乳白色をした霧だ。
霧が出ているにも限らず、あたりは日の光でも降っているように
やけに白く、明るかった。
それなのに、
空気は酷く湿っていて、重たい。
アンバランスな感覚が交互に押し寄せてくる。
それに、無性に苛々していた。
ざくざくとその得体の知れない植物を踏みつけながら
どれほどの時間を進んだか。
無言のままウィンリィの手を引いていたエドワードの目に、
灰色にくすんだ、ごつごつとした岩肌が現れる。
「エド。あれ……」
背後のウィンリィが指で指し示した方向に顔を向ける。
乳白色の霧の合間に、ぽっかりと口をあけたような黒い穴が垣間見えた。
高くそびえる岩肌を丸くえぐったようなその穴からは、
ひゅうひゅうといくらかの風が吹き込んでいるのが分かる。
大人一人分の背丈しかないその穴を、エドワードは用心しながら覗き込む。
「……明かりがある」
穴の中には、壁際に点々と蝋燭がともされ、
吹き込む風にその明かりが不安定に揺れていた。
明らかに人が使っている痕跡に、エドワードの胸には期待と躊躇が交互に入り乱れる。
しかし、そうこうしているうちに、
エドワードに手を引かれていたウィンリィがすっと身を乗り出す。
「行こ」
「おい……」
追っ手に見つかる可能性にエドワードは躊躇していた。
しかし、ウィンリィは構う風は無い。
「風が吹いてる。きっと出口だよ」
そう言いながら先に進もうとするウィンリィを、
エドワードは待てと制止するように手を引っ張る。
「オレが先に行く」
……どちらにしろ目指している地上から追っ手が来るなら
鉢合わせを避けるのは難しい。
エドワードは息を呑む。
体中が痛くて、おまけに吐き気が酷い。胸がむかむかする。
こんな状態でひと騒動は勘弁願いたかった。
しかし、そうも言っていられない。
ここで躊躇して立ち止まるよりかは、前に進んだほうがよっぽど建設的な選択のように思えた。
エドワードはもうひとつ息を呑んで、
洞穴の中へと足を一歩踏み入れた。
嗅ぎなれつつあるあの甘い匂いが
頭を霞めたような気がした。
****
「ハンスが?」
自室で衣服を改めていたエレーナは、
侍女からの報告に顔を曇らせる。
鏡の前に立つエレーナは、
脇から差し出された丸い銀盆にのせられたグラスを手にとる。
そして、その隣に置かれた白い紙包をあけて、グラスの中に中身をあける。
粉雪のような白い粒状のそれが、グラスの水へとなだれこんで
白い沈殿を作った。
エレーナは無表情のままそれを口元へと持っていき、
一気に喉に流し込んだ。
眉間にひとつ皺を刻みながら、
エレーナはカタンとグラスを置く。
「すぐに呼び戻せ。……贄が見つかったと」
鏡の前に立つエレーナは、そこに映る自分がほとんど見えなかった。
既になにもかも限界がきていた。
自分がどんな服を着ているかも、もう知らない。
しかし、彼女の脳裏には、はっきりとある別の映像が結ばれていた。
それは、屋敷のあちこちで飾られ、
未だオルドールの人間に信じられている伝承の絵。
…なりかわれるものなら、とっくに自分がなっている。
何度か、後悔はした。
しかし、それにまさるものがあった。
だから、後悔の表情は表には出さない。たとえ、ハンスを前にしても。
一心に鏡を見つめている主に、
側に控えていた侍女はもうひとつの報告をさらに言い難そうに言葉を濁しながら続けた。
侍女の言葉に、エレーナはため息をひとつついた。
……茶番が始まる。
分かりきっていた。
ここに通せ、と言うエレーナの言葉は静かだった。
「鋼の錬金術師が失踪したとの報告を部下から受けました」
数分も経たないうちに、エレーナの部屋に通されたのはロイ・マスタングだった。
部屋の真ん中に据えられたテーブルに腰掛けたエレーナは
マスタングにも座るようにうながすが、
彼は部屋の入口のすぐ側に立ったまま動こうとはしない。
開口一番に、言われるだろうと予想していたことが真っ先に彼の口から出て、
エレーナは内心苦い笑いを押し隠す。
マスタングが影できな臭い動きをしているのはサラムからの報告で知っている。
「私も…先ほどそれをきいたばかりです」
エレーナは、机の上に置かれた銀盆をさげるように
侍女に目配せしながら、ゆっくりとマスタングを真っ直ぐに見据える。
「爆破事件に、誘拐事件……。次から次へとマスタング殿も大変だこと」
しずしずと下げられる銀の盆を横目でしっかりとマスタングは捉えながらも、
エレーナの言葉に小さく頷く。
「一連の爆破事件に巻き込まれたのではと考えるのが自然です。
昼間もなにやらひと騒動あったとの報告も受けておりますし。
なにより、同行していたはずのウィンリィ・ロックベルの姿も消えている。
一緒に巻き込まれたと判断するのが賢明かと思い、こうして許可を願いに」
エレーナは黙ってマスタングの言葉に耳を傾けている。
微動だにしないまま自分の言葉を聴いてるエレーナを正面から見据えながら、
構わずにマスタングは続けた。
「捜索隊を編成して探させたいと思いますが。その許可のほうを」
「……事件の捜査にあたっている憲兵に任せたほうが効率的だとは思うが」
エレーナの静かな言葉に、マスタングはすかさず異論を唱える。
「エドワード・エルリックは仮にも国家錬金術師で、今は私の配下にあります。
国家錬金術師の失踪はわが国においては一大事。
―――彼の技術を妙なことに利用されない為にも、ね」
ああ別に今のは他意はないですよ、と
アメストリスから来た大佐官級の男は笑いながら最後の言葉を打ち消す。
しかし、エレーナを真っ直ぐに見据えた瑪瑙の瞳は笑ってはいないことを
エレーナは目が見えていなくともよく理解していた。
……とんだ茶番だ。
エレーナは内心苦く笑う。笑いをかみ殺す。
もう心が麻痺していた。
これがやろうとしていることを前にして、笑うことを忘れたらきっと泣くしかない。
泣くことは、許されなかった。まだ。
「いいでしょう。許可します」
マスタングはすかさず敬礼の姿勢をとる。
「ご配慮いたみいります」
空気を切るような鋭さで、額に当てた右手をおろすと、
マスタングは出て行こうとする。
その背中に、エレーナは言葉を投げた。
「駅前から区境界線外周に沿って配備されているあの兵卒。
……あれ全てはわが屋敷には入りませんが」
群青の軍服はぴたりと動きを止める。
機械のような正確さで、マスタングはくるりと振り向いた。
その顔には笑っていない笑顔が張り付いている。
「あれは、トンネル陥没事故に対応する為に配備したものです。
今回の件とは何の関係も無いのでご心配なさらず」
「ずいぶんと復旧に時間がかかっているようだが」
「あと1、2日で列車の復旧は完了します。
そうすればさっさと我々は退散しますのでご安心を」
それはよかった、とそっけなく返すエレーナの言葉は乾いていた。
聞き届けたマスタングは今度こそ部屋から出て行く。
漆黒の長い髪をゆらゆらとたゆらせながら、
エレーナは表情の無い濁った瞳で、扉に消える群青の背中を見送る。
パタンと音を立てて扉が閉まったその瞬間、
エレーナは突如、身体をくの字に折り曲げる。
口元を抑えると同時に激しい咳込みが始まる。
おろおろと右往左往する侍女達の真ん中で、
途切れるように落した最後の咳込みに、エレーナは顔を歪ませる。
ゆっくりと口元から離した掌の中に
赤黒い血の塊が落ちているのを見て、駆けつけた侍女達は声をあげる。
「口外するな」
ぴしゃりとエレーナは振り絞るような声で言い渡した。
ぴたりと周囲の侍女達の動きが止まる。
「口外はしてはならない。絶対に、だ。……サラムと、ハンスには、絶対に」
唇の端から赤い液体が糸を引いているのにもかかわらず、
エレーナは誰にともなく、むしろ自分に言い聞かせるように、
口外してはならない、ともう一度押し殺した声で言った。
その様子を、扉の外でサラムが聞いていたとはつゆも知らずに。
扉の外。明かりの無い薄暗い廊下で、
サラムは側に控えていた使いに静かに耳打ちをする。
使いはゆっくりと頷いて、
おもむろに廊下を走り出した。
それを見送ってから、サラムはくるりと扉に向き合った。
その向こうからは断続的に続く苦しげな咳込みの音が響いてくる。
「エレーナ様」
サラムがノックをしている様を、さらに廊下の曲がり角から伺っている人影が複数。
「動いたな」
細い黒目をさらに細めて、マスタングが満足そうに低く呟く。
そして、ちらりと側に控えていた巨大な影に目配せをする。
「行きたまえ」
影は静かに頷いた。
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