『許しを請うお前を私は許さない。…その代わり、私の願いを聞いてくれないか?』
守りたい物がある、といったのは彼女だった。
だったら、自分にも守るべきものがある。
だから、そのためなら汚れることは構わなかった。
それが錬金術の最大の禁忌だとしても、
平気な顔をして、言ってみせる。
分からない、という顔を向けるエドワードに、
ハンスはもう一度言葉を投げる。
言いながら、心は乾いて、放った言葉に既に絶望している自分がいる。
しかし、もうどうでも良かった。
守りたいものがある。それだけだった。
「何を……」
何を、言っている…?
エドワードは、投げられた言葉の意味を心底から理解できず、
不審の眼をハンスに向けた。
――赤い月が昇る夜、金髪の女が月からやってくる。
女の亜麻色にも似た金髪は、錆付いたにび色の月光に染まりながら銀色の梯子へと変わり、
天上へ続く路として下界に降ろされる。
地上へと降り立った女は戻れない場所を想いながら紅い涙を流し、
その涙は、砕けぬ石となる。
女と入れ替わりに梯子を最後までたどることが出来た者には、
大いなる力が与えられる。
「……地に堕とされた女の涙は血のような紅い石になり、
力を得るべき者の腕に紅い鎖となって巻きつくんだ。
その時に得られる強大な力。
……君達が、賢者の石と呼んでいる存在だ」
威圧的なまなざしをエドワードに向けながら、
ハンスは淡々と言葉を継ぐ。
「オルドールに伝わる話……いや、無理矢理、伝えられるように仕組まれた話、
と言ったほうがいいけれど」
最後の部分で、ハンスはやや自嘲的に言葉を切る。
それに不審を隠せないまま、
エドワードはさらに眉根を寄せてハンスをにらみつけた。
その伝説なら何度となくきいた。
最初はマスタングから。そして、エレーナ。さらに、ハンス自身からも。
エレーナがこの伝説に対して懐疑的だったのに対して、
ハンスは異常に執着していた。
しかし、今のハンスの口ぶりからすると、
どことなく彼は、「信じていない」節があった。
エドワード自身は、聴かされていたこの伝説にさして興味は無かったが、
エレーナとハンスの対照的な態度にはどことなく腑に落ちないものを感じていたのは事実であったし、
今、賢者の石と関係がある、と言われて無視をすることも出来なかった。
「賢者の石が、あるっていうのか」
偶然的に遭遇した列車事故で足止めを喰らった街で、
突然ふってわいた、「欲しかった情報」。
拭えない不信感を抱えたままとはいえ、
エドワードの中ではどうしようもなく好奇の気持ちが勝る。
「あるよ」
ハンスはあっさりと頷く。
頷いた表情はどこまでも渇いていて、
答えた言葉はどこか空虚な響きに満ち満ちていた。
「まだ、未完成だけれども。
材料さえ揃えば、完成するんだ」
「ざい、りょう…だと?」
聞き返すエドワードを尻目に、、
鋭く赤い双眸は、エドワードの背後に寄り添うウィンリィを、ひたりと捉える。
その視線を感じ取って、
エドワードはさらに身を引いた。
壁際に身を引きながら、背後のウィンリィを引き寄せる。
ひやりとしたものが背中に走ったような気がした。
それが全身をつたって、繋いだ手にさえもそろりと這い出す。
握った手がしんと冷たくなるその感触に、
ウィンリィもまた息を呑んだ。
赤い背中の向こう側に、
狂気をはらんだ赤い双眸が自分を捉える。
「そう。材料だ。紅い涙を流す人間が必要なんだ。
……何度試しても駄目だった。けれど、最適な材料が見つかったんだ」
「試すって…」
ハンスのその物言いに、エドワードはぞわりと背中がそそけたつのを覚える。
瞬間的に脳裏によぎったのは、
エレーナが倒れた斎場での光景だった。
塔の内部。イシュヴァラに祈るという名目で、エレーナは何かを錬成していた。
床に散乱する血痕と、錬成陣。
それが、瞬時に脳内に閃く。
――何を。
何を、錬成したんだ……?
「賢者の石を」
手に入れるために。
ハンスはさらりと言った。
手に入れるために、材料が必要なのだと。目の前で、言ったのだ。
君が必要なのだ、と。
狂気の色をはらみながら、
赤い両眼は、青い双眸を捉えたまま、言ったのだ。
「ふざ……けるな…」
「何が」
声が震える。
しかし、エドワードは、ぎり、とハンスを睨んだ。
「何が、だと?」
どうしてそう平気に問うことが出来るのだ。
「君も知っていると思っていたんだけど?」
ハンスは問題ないという口ぶりで、さらりと事実を、そして変えられない現実を
エドワードに知らしめる。
「石の錬成には、人間が必要だ」
言われなくても、エドワードには分かっていた。
一度はくじけそうになった現実だ。
しかし、だからこそ、違う道を探している。
「試しているのか……」
斎場での光景を思い出す。
せりあがってくるのは、酷い吐き気だった。
それに耐えながらエドワードはハンスを睨み、もう一度問う。
「人間で。……お前達の狙いは…」
ハンスの表情に暗い影が落ちる。
「伝説が本当になってしまったんだから、仕方ない」
……幼い頃に聞かされていたそれは、
恐怖にも似た御伽噺だと思っていたのだ。本当は。
最後には誰もが笑いあえる、そんな世界に焦がれて誰かが作った、ただの作り話なのだと。
その伝説が、本当になる魔法が存在したなんて、小さい頃は知らなかった。
魔法の国に連れて行ってあげる、という自分の言葉を
頑なに拒否した幼馴染の彼女は、正しかったのだ。
……誰もが幸せになる魔法なんて存在しない。
あるのは、切れば赤い血の流れる人間の話だけ。
生きることが、幸せを求めることが、こんなに苦しい。
こんなに生臭いことなんだと、小さい頃は、知らなかった。
彼女が夢を見なかったように、
自分もまた夢を見ることをやめようと、そう誓った。あの夜に。
ハンスはただひたすら黙って、
エドワードを見つめる。
感情の篭らない紅い瞳は、どこまでも暗い影を漂わせていた。
「しかたない、だと…?」
エドワードの声は震える。
あの錬成痕が脳裏をぐるぐると回っていた。
狙いが賢者の石なら、つまり、人間で試していたということなのか、と。
そこまで思い至って、
やはり、酷い吐き気がした。
吐き出したいのはなんだろう。眩暈を覚えながらエドワードは言葉も忘れて
兵に囲まれながら立ちつくすハンスを見上げる。
感情の篭らない、淡々とした表情がそこにある。
褐色の肌であるはずなのに、その表情は、白いという形容がぴったりだった。
ゆるゆると巡る感情は、
徐々に名前を伴いながら、エドワードの内部に頭をもたげる。
やりきれなさと、怒りと、
うずまく情感に理解が追いつかなくて、吐き気がする。吐き出したくなる。
「人間を犠牲にすることが…仕方ない、だと?」
「君だって、石を欲しているんだろう」
まぁ、分かってくれとは言わないけれどね、とハンスは自嘲的に言葉をついで、
周囲を取り囲む兵に目配せする。
「なんで、ウィンリィなんだ」
時間稼ぎでもするように、エドワードは言葉を選ぶ。
なんとかしなくては、とは思っていた。
しかし、この状況では、と眼前に立ちはだかる男達を前に言葉を失う。
ウィンリィを連れてこれを突破するのは容易なことではないと
簡単すぎる答えが引き出されてしまう。
それは前も聞いた質問だな、とハンスは面倒くさそうに眉をしかめる。
「エレーナの指示なのか」
エドワードの言葉に、
その背後で黙って二人のやり取りを聞くしかなかったウィンリィの表情が一気に曇る。
それをみとめながら、ハンスは違うよ、と短く否定した。
「あのひとは何も知らない。
……条件に合う人間を見繕って直接命令を下す役目は、あのひとのものじゃない」
言いながら、ハンスの表情がわずかに曇る。
苦いものでも飲んだように、少しばかりゆがめられた表情は、
しかしすぐに元に戻ってしまう。
気を取り直すように、ハンスは表情を繕う。
「とにかく、おとなしくしてもらおう。
サラムは反対したけれど、私自身は君を殺したくないんだ」
じり、とにじり寄るようにして、
兵たちの囲みがじわりと小さくなる。
多勢に無勢だった。
エドワードは唇を噛みながら、それでも武器を構える。
「無駄だよ」
哂うようにハンスが言ったその時だった。
「これは何事です」
はじかれるように、エドワードは声をした方を振り向く。
目指していた地上への入口に、
見知った男が立っている。
数人の兵卒を引き連れた彼の職務上の地位は、憲兵大尉だ。
……国家錬金術師には、少佐官相当の地位が与えられている。
彼が軍属なら、エドワードもまた軍属だった。
少々いけすかないところが無いわけでもなかったが、
マスタングの命令をよく聴いていたボルティモアなら、
この状況をなんとかしてくれるかもしれない。
それに思い至って、エドワードは瞬時に叫んだ。
「ボルティモア大尉!」
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