大いなる力を初めて学んだのはいつだったか。
エレーナは、泉に身体を浸しながら、頭から水面下へもぐる。
視界はどこまでも暗い。しかし、それは闇夜のせいだけではないということをエレーナはよく理解しているつもりだった。
限界がきているのだ。自分の身体も。それは、分かっていた。
「……無茶をなさらぬよう」
声が落ちてきた。
エレーナは顔を上げる。水の滴る音が、暗い中庭に軽く響いた。
限界がきている。そのことを知っているのは、自分以外にもう一人いた。
「ハンス」
視線を巡らせようとしたが、おぼつかない。
目の前にあるのは、淡い月の光にぼんやりとしか像を結ばない中庭と、その真ん中辺りにゆらゆらと揺れるように立つ影だけだ。しかし、エレーナは分かっていた。ハンスがそこにいる。
「無茶をしたのは、お前だろう」
エレーナは水面の下で、ゆっくりと水を包み込むような仕種でかき回す。
「私は、平気です」
ハンスは吐き捨てるように、短く言った。
ゆらゆらと揺れる水面に、赤い月が波立つように反射していた。その下に、金色の髪をしたエレーナが、ハンスをじっと見上げる。見上げた瞳の色は青色だったが、それは昔の輝きをなくしてしまった、とハンスは力なく思う。
ハンスには幼馴染が居た。
彼女はいつも苛められていて、泣いてばかりいた。
どういう家の事情なのか、幼いハンスには理解できなかった。
しかし、近所に住む小さな女の子の家が、自分の家と同じ位に立派なつくりをしていて、そこに、自分が将来仕えるべき主が通い詰めている、ということは、幼いなりに知っていた。
泣いてばかりのその子は、大いなる力を使う国の話をすると喜んでいた。その頃、自分はまだそれを学び始めたばかりで、得意になっていた。しかし、それを外で話すことは固く禁じられていた。泣いてばかりのその子を慰めるために、ハンスは魔法という言葉を使った。砂漠の向こうには魔法の国がある。魔法使いが沢山いる。いつか連れていってやるよ、と意味も分からないまま言ったら、要らないわ、とその少女は拒否をした。拒否の言葉を口にした時の彼女は、凛としていて、瞳の青い輝きもどこまでも強くて、背中でふわふわと踊る金の髪もとても可愛くて綺麗だった。それに触れて、戯れにキスをした。己の父が母にやっていることをこっそりと真似て。
思えば、あれが一番幸せな頃だったのかもしれない。
幸せの意味なんてまだ理解もできていなくて、これが幸せなこと、これが不幸なことだという比較が出来るほど、長く生きているわけでも無かったけれども、あの少女はさらりと言った。「しあわせって言うのよ」と。それが言うことが出来る彼女が、家の中では何を見ながら生きてきたのか、そこで知るべきだったのに、幼い自分は幼い故にそれが出来なかった。ふわふわ踊るその金髪にキスをして、泣く彼女の額におまじないのように唇を寄せた。どこまでも幸せで、何も知らずに生きていけたあの懐かしい頃。
だから、主筋の娘に、大いなる力を使えと言われ、初めて対面した時は驚愕した。それは、相手も同じのようだった。対面して、お互いにすぐに分かった。目の前に立つのはかつての幼馴染なのだと。しかし、彼女の様子は昔とはだいぶ様変わりしていた。戯れに唇を寄せていたかつての金髪は黒色に染まっていたのだ。そして、今度はその青い目を赤色に変えてくれと言う。正気の沙汰じゃない、とハンスは拒否した。しかし、拒否は許されなかった。彼女は仕えるべき主筋の人間で、自分はまだ地位も何も無い、大いなる力の研究に長けている、宰相の息子に過ぎなかったのだ。
ハンスはたゆたうように水面の下で踊る目の前の彼女のその髪に触れたい、と思った。しかし、地位がそれを許さない。二人を隔たる身分の差が。
「私は…たいしたことはありません」
「そうか?…あとで、サラムに色々言われるのでは、と思ったのだけれど。」
エレーナはぽそりと呟く。
「立場がまずくなるようなことは控えてくれ」
いくら私でも庇いきれない時がある、と自嘲的にエレーナは言った。所詮、私は傀儡(かいらい)なのだから。病に臥せているはずの父に、やはり全権はあるのだ。妾の子である自分に力は無い。
「私のことより、あなたの方が問題です」
ハンスは言葉を選ぶように続けた。私か?と、見上げてくる彼女が身に着けているのは薄い布切れ一枚で、その下の肌が透けて見えた。それから目を逸らしながら、ハンスは口を開く。
「術は、あと2回…いや、あと1回かもしれません。使える回数は限られている。」
「そのようだな」
エレーナはさらりと言葉を返した。
その淡々とした口調に、ハンスは苛立ちを隠さなかった。
「そのようだな、とは…!」
エレーナは水の中で肩をすくめた。
「仕方あるまい。……もう、ほとんど見えていないのだから」
見上げてきたその青い瞳はどことなく影をたたえている。その瞳の濁りは、昔は絶対にありえなかった。自分のせいだ、とハンスは己の力の無さを何度悔やんだか知れない。
「これが、等価交換、という奴だ」
お前も錬金術師なら分かっていたはずだろう、とエレーナは言った。しかし、その顔には何の表情も無かった。怒りも哀しみも、名のつく感情が伺い知れない。ハンスはそれが悔しくてやりきれなかった。
怒ればいいのに。嘆けばいいのに。泣けばいいのに。なぜ、それをしない。
とある、赤い月の昇る夜、それを問い詰めたことがあった。エレーナは笑った。
「涙は、枯れたんだ」と。
「オルドールの民を偽っている。これが報いだ。」
エレーナの言葉はあくまで静かだった。
目の色を変える術を施すようになってからしばらくして、目が霞むようになっていた。視力はどんどん落ちていった。このままじゃ失明する、と言ったのはハンスだった。錬金術は万能じゃない。あなただって分かっているはずだ、と。
ハンスは許しを請うた。
「オレは、あなたを守りたいだけなんだ」と。
それを聞いたエレーナは約束をしよう、と言った。
「許しを請うお前を私は許さない。…その代わり、私の願いを聞いてくれないか?」と。
そうして、約束は交わされた。赤い月の昇る夜に。
震えるようにハンスは言葉を吐き出した。
「失明すると分かっているのに、これ以上は出来ない」
「ハンス」
「もう、やめてくれ。……レナ」
ぴく、とエレーナの表情が固まる。
「オレは…」
「ハンス」
ハンスは不意に一人称を変える時がある。それは、自分が言われたくないことを言われるときのしるしになっている。しかし、その一人称が使われるときに言われる言葉は、ハンスが一番言いたい言葉なのだいうことも、同時にエレーナは理解していた。
「オレは、お前が無意識にもうやめてくれって言うのを聞きたくないんだ」
術をかけようとすると、エレーナは嫌がる時があった。それは無意識に行われることが多かった。いつもは本心をさらけ出さない彼女が不意に気持ちを零す瞬間は、嬉しいのと同時に、ハンスには哀しかった。
「やめて欲しいんだろう。…だったら、やめるから。」
だから、やめろと命令してくれ。
しかし、エレーナの言葉はどこまでも冷たかった。
「無理だ」
「レナ!」
「その名で呼ぶな」
エレーナは立ち上がる。
水の滴る音が、闇に響いた。
昇る月を背にして立つエレーナの髪は、腰まで届くほど長い。金色の髪に、青い瞳。伝説そのままの乙女のようだ、とハンスは思った。そして、そう思った自分が憎らしかった。彼女はその姿のせいでここまで苦しまされているのだから。
「あの夜も、こんな月の昇る夜だったな」
エレーナは静かに言った。
淡々と、目の前に立つハンスを見つめる。
触れられない。触れたくても、触れてはならない。
ハンスはそれをよく理解していた。
しかし、それを一度だけ、破った。あの夜に。
「命令する。……力を。目に」
ハンスは嘆いた。己の力の無さを。非力さを。何が宰相代理だ。自分は目の前の幼馴染を守ることすら出来ない。
だから、エドワードが羨ましかったのだ。
天才といわれている、あの錬金術師が。
ハンスは、泉に立ち尽くすエレーナにそろりと近づく。
手をのばすと、彼女は静かに目を閉じた。
何度思ったことだろう。この瞬間に、彼女にキスをしたいと。
それを、ずっと押し殺してきた。許されないと分かっていたから。
いつもと同じように、力を発動させる。
腕に巻いた赤い石が鈍く禍々しい光を発し、
次に彼女が目を開いた時には、そこにはもう、青い瞳は無かった。
これが、最後だと、お互いにわかっていた。
「禊は終わりだ」
エレーナは静かに言った。
そして、赤い目をきつくハンスに投げる。
「サラムは糾弾してくると思うぞ。なぜ、エドワード・エルリックを殺さなかったのかと」
分かっています、と言うハンスの声は、もういつもの冷静さを取り戻していた。いや、取り戻そうと必死になっていた。
赤い目の彼女に視線を投げられると、もう、何も言う術はない。
そこにいるのは、間違いなく、ハイゼンベルク家の娘だったからだ。
「それに対しては、答えは用意してあります」
ハンスはようやくそれだけを言った。
不思議そうに首をわずかに傾げる主筋に、大丈夫です、と言葉を続ける。
オレは、あなたを守りたいだけなんだ。
その言葉は、いえないまま胸にしまった。
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