小説「Holy Ground」

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4章 迷走-2



どこかで、暴露したかったのかもしれない。


エレーナはどこまでも穏やかな気持ちでそう思っていた。
事態は動き出している。
知らせてくれたのは、ハンスだった。
決断を迫ったのは、サラムだった。
もう、どうしようもないのだ。自分は、力を尽くした。これ以上は、もう無理だった。

偽るのは苦しい。だから、事情を知らない誰かに秘密を明かすのは、
イタズラをしているような、不思議な高揚と快感があった。不謹慎にもそう思ってしまう。
しかし、それは非常に不味いことなのだというのも分かっていた。
自分が支えなければならないもの、支えられてきたもの、
そういった、自分を成り立たせているものが、音を立てて崩れるのだということを
本当の意味で理解できていなかったのだと、
目の前で、驚愕の表情を浮かべる少女を見ながら淡々と思った。

「ごめんね」
自分でも驚くほど自然に、エレーナは口を開いていた。
謝らなければならないと思ったのだ。これから起こることを思えば、謝ってもダメだと分かっていたが、謝らずにはいられない。自分は卑怯な人間なのだ。罵倒されるのは分かっていたし、それは一番自分が分かっていた。自分をさいなむ矛盾が苦しくて、何度泣いたか知れない。

計算違いだったのだ。どこまでも。

こんな所で何しているの?そんな姿で?その格好は何?
ウィンリィが口をついて出た疑問に、エレーナは答えない。
その代わりのように、放り投げられた言葉は、とても乾いていた。

「あなた達に会わなければ良かった。」

エレーナはぽつりと言った。
どういうこと?とウィンリィはわずかに首を傾げる。

「あの列車事故さえなければ。でも、今思えば全部罠だったのかもしれない」
「意味が、分からない、よ」
ウィンリィの言葉に、エレーナは力なく笑う。笑うことしか、出来なかった。
そして、ウィンリィのさらに後方に立つエドワードに目をやる。
「君にも。……君のような錬金術師がこんな所に来たばかりに」
「何を、言っている…」
エドワードはようやく事態を飲み込めるようになってきていた。それほどに、思考が混乱している。この現実を、どう受け止めたらいいのか分からない。
目の前の女は本当にエレーナなのか?
エドワードは、泉の真ん中に濡れそぼった状態で立つ彼女を睨むように見つめた。そんな彼に対して、視線を投げ返すエレーナの眼差しは、どこまでも穏やかだった。しかし、その瞳は、ようやく見慣れてきたかと思っていたオルドールの人間の特徴を踏んでいない。漆黒だったはずの髪も、月の光を金色に弾いている。

「姿を、変えていたのか?」
エドワードは、ようやくそれだけを言った。それに対しても、あっさりとした調子でエレーナは頷く。
「そう…。全ては父の命令のせいで」
父?とエドワードは聞き返す。瞬時に、エドワードは昼間の記憶を辿っていた。本屋の女は、エレーナの父のことを「フェイ」と言っていたのを思い出す。
「父って、…病で臥せっているとか言う…?フェイ…?」
エドワードの言葉に、そう、とエレーナは頷く。
「どうして…?お父さんの命令で、姿を変えていたなんて…?」
やっぱり、意味が分からないよ、と言うのはウィンリィだ。
それを、エレーナは哀しげな表情で見返した。
「父の命令で……髪を染め、目の色を変えた。
術を施してくれたのは、ハンスだったけれど。」
ハンス…と、エドワードは小さく呟く。
「何の為に姿を?」
これに、エレーナは答えようとしない。
ただ穏やかに、エレーナは笑っていた。
月の光を浴びながら立つ彼女を、ウィンリィは心の底から綺麗だ、と思っていた。
泉の中に胸半分から上をさらけ出して自分を見る彼女の瞳は
見慣れていたワインレッドとは違ったが、とても綺麗な色をしていた。
泉の中で波打つ金髪も艶やかに光を弾いている。
姿を変える必要がどこにあるのだ。こんなに綺麗なのに。

「分からないことが沢山ある。」

エドワードはめまぐるしく思考を働かせながら、エレーナをにらみつけた。
ウィンリィが、変な水音を恐がるからここまで来た。
だが、まさかこんな事態に遭遇するとは思わなかったのだ。
水音が、中庭からしていることはなんとなく直感が働いていた。だが、動物か何かがいるだけだろうと軽く考えていた。だが居たのは動物などではなく、オルドールで伝説にまでなっている女。
ハタとエドワードは一つの記憶を辿る。
エレーナが言い伝えの女だとすれば、一つ筋が通ることがある、と思ったのだ。
エドワードが思い出していたのは、昨晩のハンスの言葉だった。

『本当に、本当に、綺麗な人だった。』

ハンスが言っていたのは、エレーナのことではないのか?
だとすれば、ハンスがことさらにあの言い伝えに拘泥したのがなんとなく分かる気がしたのだ。

「あんたはオルドールの人間じゃないのか?
だから、姿を変えたっていうのか?」
エドワードは思考をめぐらせながら、慎重に問いかける。
「オルドールの人間じゃなかったら、アンタは誰だ?」

姿を変えたとエレーナが言うのなら、
今、エドワード達に露呈している姿が、本来のエレーナの姿なのだろう。
だが、それは、エドワード達が認識していた「オルドールの人間の特徴」とは全くかけ離れたものだった。赤い目すら持たないエレーナに、オルドールの人間の特徴は見られない。それでは、エレーナは誰なのだ。
「アンタは…ハイゼンベルクの血統じゃないってことなのか?」

ゆるゆると襲ってくるのは、憶測に過ぎない様々な可能性だった。
疑問が疑問を呼ぶとはこういうことを言うのかもしれない。
混乱する思考をなんとか纏めようと、エドワードは必死だった。

「違う。」
血統じゃないのか、というエドワードの問いに対しては、エレーナはきっぱりと答えた。私は、確かに父の子なんだ、と。

「じゃあどうして…?」
声を上げたのはやはりウィンリィだ。ウィンリィは、理解できなかった。目の前の事実もそうだったが、何より、姿を変えていたのが父親の命令なのだというエレーナの言葉が理解できなかったのだ。
「どうして、お父さんがそんなことを?」
ウィンリィは、思わず、じり…とエレーナに近づく。
先ほどは、驚きのあまり言葉も身体もどう反応したらいいのか分からなかった。目の前の、自分と同じ年頃の少女があまりに自分とかけ離れた存在のように見えて、どう向き合ったらいいのか計りかねていたのだ。何度か交わした会話の中で、彼女が普通の女の子のようだ、と思えたときもあったというのに。再び出来てしまった距離を埋めるかのように、ウィンリィは、泉の中に佇むエレーナにじりじりと近づく。
「ひどいよ。そんな…」
事情は分からなかったが、ウィンリィには、それが酷いことのように思えた。事実、目の前で、言葉を区切るようにして淡々と口を開くエレーナの顔はとてもではないが嬉しそうではなかったからだ。そうだ、とウィンリィは思い返していた。エレーナはいつもどこか寂しげで悲しげな顔ばかりしていた気がする。凛とした口調で何か言うときも、その深い色をした赤い瞳はどこまでも哀しげな色をたたえていた気がする。

エレーナは、ぽつんと言葉を継いだ。
「私は、母の子ではないから」

その言葉を聴いて、ふとエドワードの脳裡に、本屋の女の言葉が蘇る。あの、どうでもよい井戸端会議のような内容のあの言葉を。

「アイーダ……」
ぴく、とエレーナの表情に苦いものが混じるのを、エドワードとウィンリィは見逃すことが出来なかった。
「そうだ、アイーダって、あの女は言っていた…」
エドワードは、エレーナの表情を伺うように、言葉を続けた。
「フェイの愛人って…。アンタは、その人の子供ってことか…?」
本屋の女は言っていなかったか?
その愛人は、アメストリス人だと。

「父は母との間に子供がいなかった。
だから、混血の私が父の嫡出として認められたというわけ」
自嘲するようにエレーナは言葉を継ぐ。思い出すのは、本当の母の記憶だった。酒にひたる母親の後姿しか記憶には無かったけれども。泣いてばかりいた。ただ愛されたかった。けれど、母は混血の自分を嫌っていた。慰めてくれたのは、幼馴染の男の子だった。レナを守るから。彼はそう言ってキスをくれた。幼いころの綺麗な、ガラス玉のような思い出だ。地平線の向こうには、魔法の国があると信じていたあの頃。魔法使いが沢山いる、希望に満ち満ちた、神聖な大地が。

エレーナは苦いものが胸につかえだすのを自覚しながら、ウィンリィと、そしてその幼馴染だというエドワードをみつめる。
……なんのしがらみも無かったら、私達もこんな風になっていただろうか。

父の後継として見てきたものは、とてもではないけれども綺麗なものばかりではなくて、自分がどんどん汚れていくのを感じた。綺麗だよ、と言ってくれたのは、一人だけだった。

「でも、まだ分からない。…だからって、姿を変えろだなんて言うか?普通…」
エドワードは眉をしかめながら、エレーナに問う。エレーナはさらりと答えた。
「私は母の子だということになっていたから。公式には。私の出生について知っている人間はごく僅かだ。それ以外の人間には、固い秘密だ。…アメストリス人は、嫌われていたから」
仕方ないんだ、とエレーナは小さく言った。

いつも、自分はどこかおかしいのかと思っていた。
姿が変だといわれた。周りの人間は皆黒い髪に赤い目をしていた。母と同じ姿をした自分は、オルドールの人間からも、母からも嫌われていた。
私は誰なんだ。そんな疑問符が、心の中にいつも染みのようにこびりついて離れなかった。だから、姿を変えろと言われたとき、嫡出子としてハイゼンベルクに迎えられると知ったとき、これで変わることが出来ると思ったのだ。愚かなことに。
むしろ、それは自分をさらなる深みに縛るとも知らずに。
髪の色は簡単に変えられた。しかし、目だけは無理だった。
いい術師がいる、と紹介されたのはもう何年前のことだろうか。
大いなる力の存在を、ハイゼンベルクに迎えられて知ったのはその時だ。

「……その、固い秘密を、なんでオレ達に言う?」
エドワードは、探るように言葉を返した。
不穏な空気が、かすめたような、そんな不安に駆られた。思い違いだろうか。いや、違う。
その証拠に、エレーナの顔はどこまでも穏やかだった。穏やか過ぎて、それがむしろ不穏だった。

「…ごめんね」
エレーナはまた謝った。謝るのは二度目だ。エドワードは、嫌な予感が募るのを止められなかった。予感は急速に収束していき、確信へと変わっていく。

己に言い聞かせるように、エレーナは言葉を継ぐ。
「もう、これしか、方法が無い…」


白い光が降り注ぐ中庭に、ばらばらといくつもの影が落ちる。
3つしかなかったはずの、人の形をした切り抜き絵は、
取り囲むように輪をつくり、小さく収束を始める。

囲まれた。
エドワードは唇を噛んだ。
辺りを見回さなくても、急に増殖した影は、牙を剥くようにその存在感を唐突に露わにした。
泉の中に立つエレーナの顔には、どこまでも哀しげな表情だけがあった。
そして、その横に、唐突に現れた男。
「勅令の通りに」
そう、確かに男は言った。

その言葉は、昼間、オルドールの街でも既に聞いていたものだった。






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