同じ頃、屋敷の一室では、一枚の書類に目を通すマスタングが居た。
彼が肘をついた机上には、一冊の本がページを広げたまま伏せられている。そしてその脇には、ほのかに湯気の立つカップが置かれていた。
「ふむ……なるほどね」
さらっと目を通したマスタングは、軽く鼻で笑って
その紙切れを机上の灰皿の上へ放る。
そして、己の右手を掲げて軽く指をこする。
すると、灰皿の上の紙片はかそけく音を立てて炎を上げた。
「中尉」
マスタングは頬を付きながら、静かに側近中の側近を呼ぶ。
「は」
間を置かずに、声は返ってくる。
「この報告書、確かに彼からのものだろうな?」
「間違いありません」
答えは手短に且つ的確に返ってくる。それに満足したように、
マスタングは部下の方には一瞥もくれずに目を細めて言葉を続ける。
その視線の先には、黒く焼け焦げ、煙を上げる書類の残骸がある。
「動くとしたら、明日か。…いや、今夜か…」
どちらにしても、とマスタングは目をさらにきつく細める。そして、ようやく傍らに控えるホークアイにちらりと目をやる。
「配備の方は?」
「既に完了しております」
「狐の動向はどうだ?」
「そちらのほうもぬかりなく」
ふ、とマスタングはホークアイに薄く笑む。
「君は相変わらず有能だな」
だからこそ、とマスタングは、灰皿の上にくすぶる黒い炭の塊をふっと吹く。
「私はこうして悠長に構えていられるわけだ」
そう言って、マスタングはカップを手にとり、ず、とすする。ふわりと香り立つのはコーヒーの匂いだ。
ホークアイは、そんな上司の様子を一瞥してから、ただ…と言葉を濁すように口を開いた。
「なんだ?」
カップを手にしたまま聞き返すマスタングに、ホークアイは僅かに迷うような表情を見せた後、言葉を継ぐ。
「…鋼の錬金術師が」
ああ……と、マスタングは再び目を細める。今度は、その表情にわずかに苦いものが混じったのを、ホークアイは見逃さない。しかし、そんな彼の表情は一瞬だけで、すぐに元に戻る。
「ちょっと、苦いな。」
その言葉が、コーヒーの味をさしているのだと分かっていても、ホークアイは内心勘繰るように、マスタングを見つめた。
「……苦い。が、まぁ、こういうこともある、とするか。」
マスタングはそう言って、カップの中身を一気に飲み干した。
中庭では、呆然とたたずむエドワードとウィンリィが居た。
「あんたは……」
エドワードは、その次の言葉が継げずにいる。
ぱしゃりと水の撥ねる音が響いた。
ただひたすらに静寂が横たわる夜の庭先で、エドワードとウィンリィ、そして二人の目の前に佇むその人物の視線が交錯する。
エドワードとウィンリィは、昨晩聞いていたあの言い伝えを反芻していた。
オルドールには赤い月が昇る日がある。
その月が昇る夜、流れるような金の髪をした乙女が月からやってきて、
天上へと続く梯子をおろしてくる。
その梯子を上って、その先へたどり着いた者は、
大いなる力を得られるという、伝説。
この言い伝えに、全く正反対の反応を示した二人がいた。
一人はそれを信奉し、一人はそれに否定的だった。
エドワードはそれが不審でならなかった。なぜ、あんな御伽噺に拘泥するのかと。
「だから、言ったでしょう?“彼女”は、救世主なんかじゃない、と」
言葉を継げないでいると、先に声が落ちてきた。
それは聞き覚えのあるものだ。しかし、そんなはずは無い、とエドワードとウィンリィは混乱した。その状況に、その矛盾に、その異常性に、理解が追いつかないのだ。
人影は、それを察知したようだった。
月明りのしたで、困ったように笑顔が浮かぶ。それは、笑っているはずなのに、どうしようもないほどに哀しげな表情だった。
「貴方は…誰?」
ようやく口を開いたのはウィンリィだった。エドワードの後ろに隠れるようにしていた彼女は、じり、と足を前へ踏み出す。エドワードは、おい、と彼女を制止しようとしたが、ウィンリィはふいと彼の腕から逃れ、その人影と向かい合うようにして対峙する。ウィンリィの青い瞳は、これ以上ないというほどに大きく見開かれ、同じく青い瞳をしているその人影を凝視した。
辺りは不気味なほどに静かだった。
沈黙を守り続けながら淡い光を降らし続ける満月はあんなに刺々しい紅をしているというのに、中庭に落ちる光はどうしてこうも優しい白い色をしているのか、エドワードには不思議だった。そして、その光には、切り抜いたような三人分の黒い影が落ちている。
「どうして…?」
ウィンリィは、信じられない、というように、口を開く。目の前の現実に、うまく対処できない。そこには見知った顔があった。とりとめのない話ばかりではあったが、何度か語らいもした。押せば倒れるのではないかというほどに蒼白くて華奢な身体をした彼女が心配で、看病もした。どう見ても、彼女なのだ。だが、違う。
目の前の彼女は、黒い髪をしていない。赤い目をしていない。
困ったように笑う顔も、唇も瞳も、彼女の形をしているのに、どこか全く違うのだ。
「誰、なの?」
信じられないのは分かるよ、と彼女は小さく言った。
「でも、これが私なんだ。」
彼女はそういい切って、驚愕の余り口をきけないでいる、自分と同じ年頃のウィンリィを見やった。少し話せばすぐに分かった。どれほど、この少女を羨ましいと焦がれただろう。…自分と同じ金髪で、青い瞳をしていて、自由闊達な彼女を。幼馴染に恋している彼女を。
「エレーナ……なの?」
ウィンリィはようやくその名を口にした。口にすることが出来た。あまりに信じられなくて、池の中に半裸の状態で立つ彼女をただひたすら見つめる。その返答を、信じられない思いで待つ。答えは、あっけなく与えられた。
「そうだよ」
とても静かな、何の感情もこもらない声だった。
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