どれくらい歩いたのか分からない。
蝋燭の光が陰鬱に揺れているその洞窟の中で、
エドワードは重く息をつく。
どこかふわふわと波間を漂うような
不思議な感覚に何度となく呑まれそうになり、慌てる。
朦朧としてくる意識を慌てて叱咤しながら、なんとか保っている。
背後で引いているウィンリィの手はひやりと冷たかった。
それがなんだか怖くて、
エドワードはどこかその冷たい手を暖めでもするような気持ち半分で、
わずかに力をこめて握り締める。
しかし、
「エド…。痛い…」
おもむろに背後の彼女にそう言われて、
エドワードは慌てて手を緩めた。
「わり………」
どうやら強く握りすぎてしまったらしい。
握る力を少し緩めた拍子に、
ウィンリィはするりとエドワードの手から逃れてしまう。
「ここ、どこだろね……」
ひんやりとした湿気を帯びすぎた印象の強いその薄暗くも狭い洞窟に、
ウィンリィの声はひどく大きく反響する。
蝋燭の揺れで二人の顔の上にはコントラストの強すぎる陰影がゆらゆらと瞬いていた。
「さぁな」
どこか怯えた響きをもつ彼女の声を打ち消すように、
エドワードはぶっきらぼうに、しかし強い口調で返す。
「どこまで続いてるのかな……」
ウィンリィの言葉に返答はせずに、エドワードは首をひねる。
金色の眼差しは、狭い洞窟内の両璧に配されている蝋燭に向けられる。
あの見知らぬ植物が生い茂る空洞からこの抜け穴のような道をだいぶ奥へと進んでいた。
ざりざりと足元からは土を踏みしめる足音が響く。
どこか湿り気をじっとりと含んだその洞窟内は、
朱色をもっと暗くしたような赤茶けた土壌に覆われた場所だった。
奥へと進むにつれて、道の勾配は緩やかに上がっていっているのがそれとなく分かる。
そして、こんなに奥まで進んでいるというのに、
何かに誘われるように揺れる無数の蝋燭。
「少なくとも、行き止まりってことはなさそうだな」
どこか独り言のようにつぶやくと、ウィンリィもまた首を傾げる。
彼女のその無言の問いにエドワードは静かに答えた。
「蝋燭が揺れてる。どこからか空気がずっと吹き込んでる感じだ」
そう言いながら、エドワードはぺろりと乾いていた唇をひとなめした。
「進んでみよう。……離れるなよ」
ハンス達の狙いが何なのか、
エドワードは未だに検討がつかなかったが、ただごとではないのは確かだった。
先程、ハンスが口にした言葉
……賢者の石の存在が頭にちらついたが、
エドワードは何かから逃れるように首を振った。
彼らの狙いは分からない。
しかし、ウィンリィにただごとではないようなことが差し迫っている、
今分かることはそれだけだった。
「ほら……」
エドワードは手を伸ばす。
離れるなよ、ともう一度念を押すように言いながら、
一度は離れてしまったウィンリィの手を半ば無理矢理に引っ掴む。
左手で握った彼女の手はやはり冷たかった。
それに、エドワード自身も預かり知らない不穏を小さく覚えながらも、
そのまま、薄暗く狭い穴の中をさらに奥へと進む。
それからどれほど歩いたか分からない。
全身に鈍痛を覚えながらも、追っ手に出くわすこともなく辿り着いたのは、
ぽっかりと開けた場所だった。
細い通路に狭(せば)まれていた視界が急に広くなる。
「ここは……」
エドワードは絶句する。
それと同時に、急に存在感を増したのは、「匂い」だった。
わずかに眉をしかめながら、エドワードは記憶を辿る。
あの「匂い」だ。
甘く、それでいて痺れるように頭を掠め、支配していくような、不穏な香り。
そして、ひらけたその空間は、どこか鉄の錆付いたような、すえた匂いも孕んでいた。
なんだ……?と一瞬思考をめぐらせたエドワードは、その瞬間にぎくりと息を呑んだ。
(……血、のにおい…?)
ひたりと、底冷えたような感覚がエドワードの中に奔る。
そこは薄暗かったが壁際に配された燭台に
無数の蝋燭が揺れていた。
そして、壁に丸く口をあけるようにたたずむのは数本の抜け穴だ。
一、二、……無意識のうちに穴の数をエドワードは数える。
穴の数は、エドワード達が入ってきた穴も含めて、七本あった。
人が二、三人ほど通れるかどうかという位の大きさの抜け道が
七方向にぽっかりと暗く口あけている。
空間の一隅には、何かの加工作業に用いられているのか、
長い木製の作業台やら、何に使用したのか分からない大鍋、釜、竈がある。
そして、ところどころに落ちている、枯れた草花を
エドワードは見逃さなかった。
(…あの実、だ)
それは、先ほど落とし穴から落ちた先に広がっていた草木だった。
どぎつい赤色をした実をつけた、緑の植物。
それが、赤茶色の地面の上に、ところどころ忘れられたように落ちている。
人気のないその場は、
何かの作業場所のような雰囲気だった。
もうだいぶ使ってないのだろうと思われる様々な工具・用具が
使いっぱなしのまま部屋の一隅に放置されている。
(あの実で、何か作っていたのだろうか…?)
勘のようなものだった。確信はない。落ちた疑問に、答えはない。
そして、その丸い空間の中央、
赤茶けた土の上に、一部分だけ石畳になっている箇所があった。
7、8人くらいの人間が横並びになることが出来そうなくらいの大きな円形の石畳である。
その上に、明らかにそれと分かる陣が描かれているのが分かった。
エドワードはそれに走り寄って、膝をついた。
「錬成……陣…だ」
指先で、文様の一部をざりっとなぞった。
石畳に直接刻まれたらしいそれは、石粒を指先に残すのみで、
強くこすっても消える気配は無い。
背後からウィンリィが近づいてきて、
片膝をついて何かを考え込むような様子を見せるエドワードの顔を覗き込むように
腰をかがめる。
「何を……錬成するの?」
エドワードは間を置いてから、分からないという風に力なく首を振る。
彼の脳裏には真っ先に別の錬成陣が浮かんでいた。
昼間、エレーナが倒れた斎場で見たあの錬成陣である。
あの時、エレーナは何かを錬成していた。
しかし、あの錬成陣と、
いま目の前にあるそれは似ても似つかない。
あの斎場で見た錬成陣は、もっと複雑な構築式だった。
石畳に刻まれた錬金術記号を、エドワードは丹念に調べようと目を凝らす。
しかし、打ち身を作った体に、朦朧とする匂いに、
思考はどこか集中力を伴わずに、散漫する。
(……鳥…?なんだこの記号…)
構築式にある記号は、エドワードがあまり知らないものだった。
どこかひどく古い系統に属する、古典的な記号の羅列。
指先でそれをなぞりながら、エドワードはぼんやりとする思考を叱咤する。
あのとき、あの斎場で見た錬成陣とはやはり違う、というのだけは分かる。
エレーナがあの時、一体何を錬成していたのかエドワードはまだ分からなかった。
ただ分かるのは、ひどく不穏な翳りがある、ということだけだ。
ハンスは賢者の石の存在を口にし、
エレーナが倒れたあの場では、どこまでも不吉な、血生臭さがあった。
錬成陣は違っていても、あの時に感じた不穏な翳りは
今この場でも色濃く垣間見える。
……何の構築式だ。
エドワードは錬成陣をじっと睨むように見据えた。
吐き気と眩暈で意識が途切れそうだった。
口元を押さえたくなってくるような、
据えた匂いが胸焼けのようなものを催し、身内にせりあがってくる。
それになんとか耐えながら、エドワードはちらりと横目でウィンリィを見る。
「変な、においしないか」
ウィンリィは首をかしげた。
「別に?」
実際、彼女は平気そうな様子だった。けろりとした表情で
エドワードを見返してくる。
「そ、か……」
ならいいんだ、と小さく呟いて、エドワードは再度錬成陣に視線を戻す。
身のうちに、ずるりと暗い影が落ちる。
どこか予感にも似たそれは、形になりそうでならずに、
エドワードの手からするりと逃れて、零れていく。
つかみ所の無い不穏さが、意識を苛む。
なんなんだ、とエドワードは内心焦っていた。
「ひとまず……ここからどこに進むか、だな」
錬成陣の意味は分からず仕舞だった。
しかし、それよりもまず、ここからの脱出が先だった。
エドワードは立ち上がり、ぐるりと穴の中を見渡す。
「どこに行ったもんか…」
はぁ、とため息を落として、エドワードはげんなりと
七つの抜け穴道を見比べた。
「ちっくしょー……なんだってこんな穴ばっかり…」
言いかけて、エドワードはハタと口をつぐむ。
くるりと視線を巡らせて、
穴の一隅にある竈に目をやる。
使い古されていると一目でわかるそれは灰褐色の石で組まれており、ところどころ黒く煤けている。
その上には同じように煤けた、空っぽの大釜が無造作に置かれていた。
火を使用した跡がある。
蜘蛛の巣が張られていそうなほどに、使用されなくなってだいぶたっているようだったが
竈の中にはくたびれたような白さの灰が積もっていた。
「……こんなところで、火なんて炊くのか…?」
腑に落ちないものを覚えて、エドワードはじっと竈を睨んだ。
煤と煙のせいなのだろう、黒く汚れた土壁が、
墨でも流したように天井へと続いている。
それをたどるように視線を這わせていた時だった。
「鬼ごっこは終わりだ」
ゲームオーバーだよ、と落ちてきたのは、
ひどく静かな、低い声だった。
エドワードは一瞬息を呑んだあと、なんでもないと言う風に表情を居直る。
そして、ゆっくりと、探るように
声のした方を振り向いた。
隣のウィンリィがわずかに喉を鳴らして息を呑むのを横目に、
彼女を庇うように背後に回らせる。
エドワードの金色の瞳の先にあるのは、
どこまでも表情を失くした一人の男だ。
その紅い双眸が、ひたりとエドワードを捉えている。
「ハンス」
苦いものを呑み下すように、
エドワードは重く口を開いた。
エドワードとウィンリィの前に立つ彼は一人だった。
しかし、エドワードはじりじりとあとずさるように
部屋の中央へとウィンリィを庇いながら移動する。
人の気配はいくつもあった。
闇の下を蠢くような、無数のひそやかなその気配に
エドワードの動悸は跳ね上がる。
…囲まれている。
「へ…ぇ…。お前も、あの穴から落ちてきたの?」
丸い空間の真ん中へと足をじりじり移動させながら
エドワードはハンスを睨む。
ハンスが入って来た抜け穴道は、
エドワード達がこの部屋へ入ってきた道と同じところだった。
「『あれ』をみた?」
ハンスはエドワードの問いに答えずに、逆に質問を投げかける。
なんだ?とエドワードは眉をひそめた。
質問に答えようとしないエドワードを
ハンスは表情の無い顔で、ゆっくりと見下ろす。
「『あれ』を見たなら、俺は君を……殺さなければならない」
底冷えするような、冷たい響きを持った声で、
ハンスは断罪するようにそう言った。
いわれた言葉が、エドワードには一瞬理解出来なかった。
「なんの、話だ」
さすがにまずい空気を感じ取ったのか、
エドワードは嫌な汗を覚える。
まだ見知って三日程しか経っていないハンスは、
どこか柔和でつかみ所のない人間だった。
感情を表に出さずに、ゆったりと何かを押し隠すようにして笑って佇んでいる、
そんな印象だった。
しかし、今、エドワードの目の前に立つハンスは
押し殺せない感情を全面に出して、エドワードをどこまでも冷たい表情で見据えている。
その感情の名前を、エドワードはようやく探し当てていた。
―――それは殺気なのだと。
どこか本能的に、エドワードは悟っていた。
目の前の彼は、本気だ。
目を背けたくなるような確信が、胸に落ちてくる。
なぜ、と疑問符が頭の中を駆け巡った。
ついさっき、牢から逃れようとした時に、
賢者の石の存在をちらつかせながら、殺したくないのだと
どこか懇願するように言っていた彼とは別人だった。
「『あれ』って、なんだ」
睨むようにハンスを見返して、
エドワードは問う。
ハンスは答えなかった。
その代わりに、音も無く蠢いていた気配が
ばらばらと姿を現す。
七方の抜け穴道から示し合わせたようにいっせいに姿を現したのは
手に銃を所持したオルドール人だ。
揺れる蝋燭の光が、にび色に光を弾きながら一斉に向けられている銃口を浮かび上がらせる。
ハンスは片手を軽くあげる。
向けられた銃口が、一斉に狙いを絞るように構えなおされた。
人数は十人程度。その中には軍服を着た人間も混じっている。
七方向から向けられている銃に、エドワードはなす術が無かった。
……どうする。
からからに乾いた喉がひりひりと痛い。
乾いた唇を舐めても、味はしなかった。
息をのみながら、格段に違う殺気をひしひしと注ぐハンスを
エドワードは睨みあげる。
「……本当は」
ハンスは重く口を開く。
「お前が、羨ましい」
は、とエドワードは一瞬呆ける。
そんなエドワードを見下ろしながら、
ハンスは紅い双眸を僅かに歪ませる。
そこにあるのは、嫉妬なのだと、ハンスはよく分かっていた。
エドワードの次の言葉を待つまでもなく
ハンスはひたすらに冷酷な声で断言する。
「『材料』は手に入れた。…その女にも用はない」
殺せ、と彼はあっさりとそう言い下した。
なんだと、とエドワードは目を見開く。
思わず、ばっと背後を振り向いた。
しかし、既に遅かった。
「エ……」
ウィンリィの声は、最後まで言葉にはならなかった。
「え……?」
呆けたようにエドワードの口から漏れたのはその一言のみ。
何が、起こっている…?
目の前の光景を、エドワードは理解出来なかった。
振り向きざまのエドワードの視線が捉えたのは、
ウィンリィのはずだったのだが、それは、ウィンリィではない。
声が出せず、
しかしどこか無我夢中で、エドワードは手を伸ばした。
だが、届かない。
伸ばした鋼の手は、虚空をひっかくように泳いで、空を掴まされる。
目の前の光景が、信じられなかった。
思考が白く焼けていく。
瞠目しながら、彼女の名を呼んだ。
ウィンリィが、消えていく。
手の中をするりと抜けて、彼女は文字通り、「消えていく」。
泳がせた手の中に、砂を握ったような気がした。
ざらざらと、乾いた音を立てて落ちる砂のように、
彼女の姿が分解し、消えていく。
なんで、と目をみはったエドワードの前で、
もう完全に消えかけているウィンリィの悲痛そうな目が、何かを訴えるように歪む。
声にならない声で、何かを言おうと口が開いた。
しかし、それは言葉半ばで、硬直したように別の形へと変わっていく。
(……誰、だ……)
ひやりとしたものが、腹の底から湧いてエドワードの全身をそそけたたせる。
目の前にいるのはウィンリィのはずなのに、それは、ウィンリィではない。
獰猛な獣の類の、切れるような笑みを口元に大きく浮かべて、
エドワードを見下ろす、見知らぬ者がそこにいる。
伸ばした手を、エドワードはぱたりと落とした。
それと同時に、ウィンリィの姿をしたモノは、切れ長の嘲笑を口元に浮かべながら
忽然と煙のように姿を消した。
「な、ん……だと…」
これ以上ないくらいに金の瞳を見開いて、
エドワードは呆然と声を落とした。
その背後から、力を失って膝をついたエドワードを見下ろすハンスの紅い目は
何の感情も宿さない。
「どういう、ことだ」
エドワードはおろした手を震わせながら今度は額にあてる。
予兆はあった。あったはずなのに。手繰り寄せることは出来なかった。
形にはいまだなっていなかった、闇色の予感が、
突如姿を現して、全てを裏切る産声を上げたのだ。
「あれは、なんなんだ」
ゆらりとエドワードは呆然と振り向きながら、ハンスを見上げる。
「ウィンリィは……」
いつだ。いつからだ。
エドワードにはこの状況がうまく飲み込めなかった。
「彼女」は「彼女ではなかった」のだ。
じゃあ、「彼女」はどこにいる?
呆けたように瞠目するエドワードをハンスは哂わなかった。
レッドワインの色をたたえた瞳は、感情を込めずにエドワードに言を下す。
「既に、あの方の元だ」
あの方…?
とエドワードが問い返す間も無く、ハンスは一歩下がる。
「……今宵、赤い月は東の塔の真上に昇る。
力を手に入れれば、オルドールはアメストリスの支配から脱却し、蜂起する」
エドワードは目を見開いた。
にび色の銃口は、蝋燭のオレンジ色の光を宿しながらも
一斉にエドワードに向けられたままだ。
ハンスには守らなければならないものがあった。
そのためなら、幾らでも手を汚す。
それでも、自分はこんなにも弱い。
力を求めている。守りたいために。
失う予感をひしひしと胸のうちに溜め込みながら、それでも「彼女」を見守ることしか出来ない自分を、
ハンスは吐き気がするほどに呪っていた。
彼女が夢を見なかったように、自分もまた夢をみることはやめたのだ。
それをあの夜に誓った。
あの記憶をひとすじの道標にして、
あるはずのなかった神聖な大地を目指している。
彼女が探している、HolyGroundを。
そのためなら、幾らでも手を汚そう。
内に秘めた思いなど表面には微塵も見せないまま、
ハンスは、なんの前触れもなく、
あげていた右手を、緩やかに下ろした。
撃鉄のあがる金属音が、絶望の響きを醸す。
声は、渇いていた。
「ゲームオーバーだ。鋼の錬金術師。」
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