鼻をついたのは、甘い香りだった。
思わず、エドワードは鼻を手で覆う。
この匂い、どこかでかいだことがある、とエドワードは思考をめぐらせた。
目の前に飛び込んできたのは、
燭台に立てられたおびただしい数の蝋燭だ。
エドワードの足元にはレンガ敷きの廊下がさらに続いていて、
その両サイドを、たくさんの蝋燭が床に敷き詰められるように立てられていて、
風もないのに無心に揺れている。
鼻を押さえながら、
エドワードは足を踏み入れた。
人がひとりか、頑張っても二人ほどしか通れない、
その通り道をエドワードは急ぎ足で進む。
すぐ目の前には、
ハンスらしき人物の背中が見えている。
部屋はたくさんの蝋燭でうめつくされていて、
揺れる熱気に、エドワードは眩暈を覚えた。
「何があった……っ!」
エドワードは声を上げた。
明らかに、この奥の部屋から悲鳴が聞こえたのだ。
それは、確かに女の声だった。
「………来るな」
落ちてきた声は、非常にはっきりとしていて、落ち着いていた。
そして、とてつもなく、冷たい響きをしていた。
来るな、と言われて、はいそーですか、と引き下がるエドワードではない。
眉をしかめながら、
しかしエドワードは歩みを止めない。
「祭壇」と言われているだけあって、
その雰囲気は、どこからしの寺院にみられるものそのものだった。
正面になにやら燭台や器類がこまごまと並べられ、
ひときわ大きな蝋燭が揺れている。
蝋燭の光のせいで部屋の陰影はくっきりとしていて、
正面の壁面に飾られた絵画をゆらゆらと浮かび上がらせている。
その絵画が、扉に描かれたあの女の絵と同じだと、
エドワードは思考をめぐらせながら視界に捉える。
そして、その祭壇の前で、
膝をついているのはハンスだった。
ハンスの後姿を捉え、
そして、黒い髪の束が彼の腕から零れていることを、
エドワードは目に留める。
見れば、ハンスの腕の中にエレーナが抱えられていた。
「……どうしたんだ…」
「…来るなと言ったのに。」
ハンスの声は、ひやりとするほどに落ち着いていた。
彼の腕の中に身を沈めるエレーナの顔は蒼白で、
浅い息を繰り返している。
硬く閉じられた瞼にはどこかしら暗い影が落ちていた。
どう見ても、ただごとではない。
医者を…と、エドワードは踵を返す。
しかし、その必要はない、と鋭い声が返ってきた。
「じきに、回復する。」
「はぁ?…何言ってんだ、あんた」
回復するとかそんな問題ではない、とエドワードはエレーナの顔を見る。
今の時点で、エレーナは本当に苦しそうに顔をゆがめていた。
それを放っておく、と言っているのだ。この男は。
「医者を呼びに行く。
あんたが嫌っていうなら、オレが行く。
……それとも、オレがこのひとを連れて行こうか。」
エドワードは、跪くハンスの横に膝を折った。
近づけば、エレーナの浅く苦しそうな呼吸が、さらにハッキリと聞こえた。
「祈りを捧げにきてるってきいたケド、
なんで祈るだけでこんなになるんだ。」
「……よくあることだ。
エレーナ様はお体が弱い。」
ハンスは暗く声を落として、それだけを応えた。
そして、
そのまま腕に抱えたエレーナを地面に横たえる。
「ハ……ンス…」
目を閉じたまま、エレーナの唇だけが開いた。
見れば、彼女の左手は、
ぎゅっとハンスの服の裾を堅く握り締めている。
その手が、
ハンスの右腕を探るようにそろそろと動いた。
すがるように、手はハンスの右腕を掴む。
「お…願い…も…う…やめ…て…」
…やめる?何をだ?
エドワードは、エレーナの言葉の続きを聞こうと待った。
しかし、それはハンスの言葉によって遮られた。
「何も、仰らないでください。そのままに」
ハンスはそう言って、
わずかに開いたエレーナの唇に指を当てて、黙らせる。
彼女の唇に伸ばされた腕に、銀に光るブレスレットが蝋燭の光を鈍く弾いた。
何をする気だ……?とエドワードが問う暇もなく、
そのブレスレットが光りだす。
目を見開くエドワードの目前で、
ハンスは構わずに、その光をエレーナの額に当てる。
「な、…に…」
エドワードの目の前で、
エレーナの蒼白の顔が徐々に穏やかな色へと変っていく。
ぱたりと音を立てて、
ハンスの腕を掴んでいたエレーナの手は力なく地面に落ちた。
その手にも、同じように、銀のブレスレットが光るのを、
エドワードは見逃さない。
それは、揃いの装飾だった。
不吉なものを覚えて、エドワードの眉間の皺はさらに深くなっていく。
「……お前、…錬金術師か。」
地面に手をついて、俯いたまま力なく目を閉じていたハンスは、
落ちてくる不審の声に目を上げる。
睨みつけてくる金色の瞳を目に留めて、
ハンスは羨ましいな、と思う。
……目の前の、才能溢れる錬金術師が、ひたすらに羨ましい。
国家錬金術師の資格を取れるほどなのだから、
エドワードの術の腕前は相当なはずだ。
この時ばかりは、その腕が羨ましい。
「なぜだ。
イシュヴァールの人間は錬金術の使用を禁じていたはずだ。」
ウィンリィの言葉が当たってしまった、と
内心でエドワードは舌打ちする。
目の前で繰り広げられたのは、錬金術だ、とエドワードは直感した。
なんの錬成反応なのか、それは一瞥では判断できない。
しかし、赤い錬成反応は、エレーナの容態を急激に快方へと向かわせている。
それは、エドワードの専門分野ではなかったけれども、
治癒錬成に近いものを感じたのだ。
「イシュヴァールの人間は、ね。」
自嘲するように、ハンスは小さく呟く。
……かつて、地平線の向こうは、魔法の国だと信じていた。
しかし、それを信じていた自分は、とうの昔に死んだ。
己の心に懐かしい匂いを持ってこみ上げてくるこの感情は、
抱いてもどうにもならないただの感傷だった。
それを、ハンスは噛み殺す。
「……バカげた話だ。
イシュヴァールとか、アメストリスとか、
そんな意識でしか物を語れないなどと。」
「……何が、いいたい。」
エドワードの問いには答えずに、
ハンスは眩暈を覚える自分の頭をなんとか奮い立たせようとした。
しかし、術の使用は、予想以上に体力を奪う。
ハンスは、懐に手を伸ばし、そこから白い包みを取り出す。
「なんだ、それは。」
エドワードは疑惑の目を濃くする。
ハンスは額にうっすらと汗をうかべながら、薄く笑う。
「魔法だ。」
白い包みをゆっくりとほどき、
その中に入った白い粉末をそのまま口に流し込む。
数分の時が、何十分も、何時間にも感じられた。
何かを確かめるように、ハンスは目を閉じては開くのを繰り返した後、
ようやくエレーナを抱き上げて立ち上がる。
何かをいいたそうに、下から見上げてくるエドワードに、
ハンスは自嘲するようにまた口元に薄い笑みを浮かべる。
「言っただろう。ここは裏切りの街だと。」
「だから。」
答えになっていない、とエドワードはハンスを睨みつける。
「大いなる力を使うことは禁忌だった。」
「大いなる力?」
「お前達の錬金術のことだ。」
ハンスはエレーナを抱えなおし、ゆっくりと蝋燭の海の中を進みはじめる。
「待てよ!答えになっていないぞ。」
答える義務もあるまい、とハンスは背中を向けたまま軽く哂う。
「お前は、我らがなぜイシュヴァールを裏切ったか知らないんだな。」
「ああ、しらねぇよ。」
それは平和なことだ、とハンスはなおも哂った。
「それじゃあ、教えておいてやろう。
いずれ、知れることだし。」
「………」
エドワードはハンスの背中を睨んだ。
ハンスは立ち止まり、
首だけを背後へと向ける。
金の目と赤い目がかちりと火花を散らす。
「……かつて、我らの一族から、最大の禁忌を犯したものが出たのだ。
そのせいで、我らはイシュヴァールを離反した。
全ては、そいつの罪から始まったものだ。」
「最大の、禁忌………?」
ハンスは哂う。
「ああ。……バカなことをしたものだ。」
エドワードは目を見開く。
「…まさか、人体錬成…?」
ハンスは哂うのみだった。
返事はないが、その目は鋭い光を帯びる。
「人間は、時としてバカなことをしでかすものだ。」
お前も、その1人なのだろう?知っているぞ、とハンスは小さく言う。
エドワードは言葉も発せず、
ただ、妖しく光を帯びるハンスの瞳を凝視した。
「まぁ、私も人のことは言えないが。」
人は、愚かだ、そう、思う。
ハンスは小さくそれだけ言い捨てて、
斎場を出る。
エドワードは言葉を失ったまま、その背中を呆然と見送った。
オルドールの人間が、錬金術を使えるだけでなく、
かつて、最大の禁忌を犯していたとは。
信じられなくて、なすすべもなく、小さくなっていくハンスの背中を凝視する。
ふと、足元に視線を落とせば、
そこには黒い紋様が描かれている。
なんだろう…?と思い、
足元のレンガに目を凝らした。
黒い紋様は床いっぱいに広がっている。
その線状の紋様を目線で辿りながら、
エドワードは目を見開く。これ以上ないというくらいに。
部屋いっぱいに、その紋様は描かれている。
それは、どう見ても、錬成陣だった。
蝋燭に隠れて所々見えなくなっている部分もあるが、
明らかに部屋全体にそれは描かれている。
そして、正面の祭壇の上には、
何かを「錬成した」跡が残っている。
底冷えするような戦慄を覚えながら、
エドワードは「それ」をマジマジと目を凝らしながら見つめた。
目の前には、銀色の器があった。
底の深い鉢の中に、ひたひたと液体が張られている。
蝋燭の光を反射しながら水面を揺らすその液体を、
エドワードは、最初、水だろうと思った。
しかし、色が明らかに違う。
それは、オルドールの人間の目と同じ色だ。
いや、あの色よりもはるかに濃く、深く、錆びた色をしている。
吐き気がせりあがり、
エドワードは口元を思わず押さえた。
……血、だ。
エドワードは思わず、背後を振り返った。
しかし、もうそこにハンスの姿は無い。
……何を、何を錬成した……?
底知れぬ悪寒が、エドワードの身体を駆け巡る。
座り込みたくなる衝動をなんとかしてエドワードは抑えた。
なんとかして、自分の思考を整理しようと躍起になった。
しかし、嫌な予感が自分を捕らえて離さない。
それは、かつて、自分が犯した罪の匂いに似ていたからだ。
触れたくなかった。
あれを、あのことを、連想させるようなものには。
眩暈がする。
意味もなく冷や汗をかきながら、
エドワードは、音もなく蝋燭が揺れる部屋を見渡した。
そして、正面の絵を見上げた。
その絵画の中の女が流す涙の色はやはり血の色で、
襲いくる嫌な眩暈が、エドワードを捉える。
……何を、何を錬成した……?
「何…を…。」
しかし、エドワードの呟きに答える人間は誰一人としていなく、
部屋には、無心に揺れる蝋燭が何百何千と揺れていた。
その真ん中で、なすすべもなく、
エドワードは呆然と立ち尽くしていた。
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