小説「Holy Ground」

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2章 憧憬-7



……夢を見るときは、揺れる水面を眺めているような、
そんな気持ちに襲われるのだ。
だから、これもまた、たくさん見た夢のひとつなのだと、
そうエレーナは理解していた。
夢を見ながら、これは夢なのだと、自覚している自分を眺めていた。

『お前を生まなきゃ良かった。』
ワイングラスをふらふらと手の中で揺らせながら、
美しい母が放った言葉は、今でも生々しく響いている。
あの頃は、自分が何を言われているのかようやく分かり始めた、
そんな頃だった。
けれども、そんな言葉を浴びせられても、美しい母を恨むことは無かった。
母の瞳はとてつもなく透き通った空色をしていて、
揺れる金髪は腰までふわふわと揺れている。
母は美しく、そして優しく、そしてまた冷たいひとだった。
覚えているのはそれだけ。
『こんなはずじゃなかった。…こんなはずじゃ。』
母が何を望んでいたのか、それは分からなかった。
酒に溺れながらうわごとのようにそれだけを母はひたすら呟いていた。
何かにすがるように。

『ねぇ、見て。空があんなに高い。』
砂漠地帯に囲まれた居住区に、一本だけ枯れない木があった。
その木に「彼」と二人してよじ登って、はるかかなたまで広がる青い空を眺める。
視線のずっと先には地平線が見える。
清々しい青の空と、荒涼とした黄土色の砂漠が一線になって消える場所。
『あの先には、何があるの?』
彼は得意そうに教えてくれる。
『魔法の国だ。』
『まほう?』
『なんでも物をつくりかえることができるんだって。』
いつか、行きたいなぁ、と彼は小さく言った。
『やーよ。』
否定されて、彼はむっとする。
『どーして?』
『わたしはここがすきだもの。おとうさんも、おかあさんもいるし』
しあわせって言うのよ?といったら、彼はふぅん?と相槌を打った。
『でもおれはいくぞ。おまえも、まぁ気が向いたら連れてってやるよ。』
そう言った彼の笑顔は最高に眩しい。
だから、寂しくなる。
どうして美しい母はあんな風に笑ってくれないのか、と。
『わたしって、おかしいの?』
『レナ……そんなこと、ないよ?』
レナはどこもおかしくなんかない、と
今とは比べ物にならないくらいにかつては小さかった男の子が、慰めるように頭を撫でてくる。
『レナを苛めるやつがいたら、おれが守ってあげるから。』
だから、泣かないで?
そういいながら、彼は額に唇を寄せてくる。
触れたそこは泣きたいほどに温かくて。
それは、幼い頃から毎日のように繰り返してきた儀式のようなもの。



「……気が、ついた…?」
「……ウィン、リィ…?」
揺れる水面から顔を上げれば、そこに金髪の女の子がいる。
それが、昼間、助けてもらった金髪の少女だと分かるのに、
エレーナは多少の時間を要した。
揺れる金髪が、母を思い出され、まずいな、と思う。
目の前のひとが母であるはずがないのに。
身体を起こそうとするエレーナをなんとかウィンリィは押しとどめる。
「待って…。まだ、起きちゃダメ。」
眩暈を覚えて、エレーナの身体はまたベッドに沈む。
息をひとつついて、瞳をめぐらせる。
明かりがひとつだけ灯された部屋にいるのは、ウィンリィだけだった。
「私は…どうしたんだ?」
「食事の途中で倒れたの。…大丈夫よ、ハンスさんが処置してくれた。」
ハンス……と、エレーナは小さく呟き、
ゆっくりと瞳を閉じる。
「あの騒ぎは…?」
「誰も怪我はしてないって…。今、マスタングさんたちが色々働いてくれてる。」
だから、安心して? と言いかけたウィンリィの言葉は途中で途切れる。
「……エレーナ…さん?」
「なんでも、ない。」
エレーナはゆっくりと自分の顔を両手で覆う。
止まれ、と念じても、それは止まらなかった。どうしようもなく、溢れてくる。
「ウィンリィ……目の前に欲しいものがあるのに、
欲しくてたまらないのに、それを状況が許さない。そんな時があるだろう?」
「………?」
ウィンリィは目を瞬かせ、顔を覆ったまま喋りだすエレーナを見つめる。
「……わ、からないわ。…どういう時?」
「目の前にたくさんの選択肢が並んでいるんだ。
その中で大切なものが二つだけあって。
でもその二つは相反するもので、どちらかを選べばどちらかは壊れる。
どちらを選んでも、その他のたくさんの選択肢もまた壊れる。
………もう、どうしようも、ないんだ。」
吐き出すようなその言葉には重い鉛でもついているようだった。
二人の間に沈黙が落ちる。
ごめん、と言ったのはエレーナだった。
顔から手をおろし、エレーナはまっすぐにウィンリィを見る。
その赤い瞳から、もう涙は流れていない。
「変な話をした。……ごめんなさい。」
そこに居るのがあんまり普通の女の子と変らないので、
ウィンリィは内心慌ててしまう。
「う、ううん!…き、気にしないで。」
エレーナは軽く笑って、エドワードと話をしたよ、と言った。
「うん。……見てた。」
ウィンリィもまた軽く笑った。
「ウィンリィの言っていた通りだったな。」
「そう?」
ああ、とエレーナはうなずく。
「目的のために軍の狗になったって、聞いた。」
ウィンリィは自分の笑顔に苦いものが混じるのを自覚する。
「…そう。あいつは、そのためだけに…。」
家を焼き払い、狗と呼ばれて、それでもただひたすらに前へ行こうとしている。
その邪魔はできない。
「…幼馴染なのだろう? エドワードと、あと、アルフォンス?」
「そう。アルよ。小さい頃からずっと三人で遊んでたの。」
今は、もう違うけれど、と言う言葉をウィンリィは飲み込んだ。
それはため息が出るほどに遠い昔のように感じる。
何も知らないで、小さな世界を三人で跳ね回っていた。
あの頃はまるで箱庭のように優しく、暖かく、
だから、その外にさらに深く広い世界が果てしなく広がっているのだと知らなかった。
「……うらやましいな。」
エレーナの呟きにウィンリィは首を傾げる。
「エレーナさんは……幼馴染とかいなかったんだ?」
「……いたよ。一人だけね。」
ぽつりとエレーナは言葉を返す。
「でも、もう、いない。」
「どういう、こと?」
「……いなくなったんだ。私が小さい頃はイシュヴァール戦線が戦闘が激化してたから。」
あ…とウィンリィが息をのむ。
「いいんだ。気にしないで。」
エレーナはそういいながら、ウィンリィに手を伸ばす。
「綺麗な、髪だね。」
触れようとしたが、途中でエレーナは手をぱたりと落とす。
「エレーナさんの黒髪も。すごく素敵よ?」
それはウィンリィの本心からの言葉に違いなかった。
しかし、エレーナは自嘲するようにそうかな?と言っただけだった。

先触れがあり、
部屋の外にエドワードが来たという知らせを受ける。
「いいよ。私はもう大丈夫だ。」
困ったような顔をするウィンリィに、エレーナは笑って見せた。
「いいから。……早く行かないとエドワードに嫉妬されてしまう。」
冗談やめてよ、と言うウィンリィを、早く行きなさいと押し出す。
扉の向こう側へ消えたウィンリィを見送って、
エレーナは一人、そっと右の手首に目をやる。

……幼い頃に交わした約束は、まだ有効なのか?

右の手首には古びた腕輪がはめられている。
施された装飾は、自分と同じ赤い色をした石がひとつ。
目の前がぼんやりとぼやけてくる。
正しい像を結ばない。しかし、エレーナはそれは涙のせいではないことをよく分かっていた。
「もう、限界か?」
闇に落ちた呟きは、誰もいない部屋に溶けるように消えた。

あの約束が有効だとしても、私は選ばない。選べない。
私達は、もう子どもじゃない。
エレーナは目を閉じ、その腕輪に唇を落とす。

それでもやはり、
もう夢でしか見られなくなってしまったあの地平線は、
どこまでも懐かしく、
いつまでも憧れていた美しい景色だった。

あの地平線の向こうが、魔法の国だと信じていた私はもう死んだのだ。

エレーナはそう思い至り、ゆっくりと唇を離した。






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