ヤサシイ方程式-5
雨の音がやさしい。
降りしきる雨の音が、部屋の中に低く響いていた。
そして、その音に重なるように響くのは、二人分の呼吸。
ウィンリィはエドワードの顔を見ることが出来なかった。
彼の膝の上に抱えられるようにして、向かい合って座っている。
触れた肌はどこもかしこも痛いくらいに熱い。
言いながら既に後悔していた。
だから、ウィンリィは顔を上げられなかった。
エドワードの顔を見るのが怖い。
こんなに密着して、息遣いが降りかかるくらいに抱き合っていて、
それでも顔を見ることが怖い。
側にいることが怖い。
側にいてと言ったことが怖い。
沈黙が、鉛のように重く落ちた。
ただ聴こえるのは雨の音と、すぐ間近の彼の息遣い。
ウィンリィには、時間の流れが途方も無く遅く感じられた。
彼は黙っている。
何も言わない。
…ハッキリ言えと言ったのは、彼のほうだ。
だから、言った。
ウィンリィは顔をあげず、
彼の肩口辺りに添えていた自分の手を、ぎゅっと強く握った。
不安でたまらなかった。
身体を、離されそうで怖かった。
「な、に……」
不意に、擦れた声が落ちる。
なにいってるんだ、と言いかけたエドワードは、
途中でまた言葉を失う。
エドワードは顔を俯いたまま自分のほうを見ようとしない彼女の顔を覗き込もうとした。
しかし、それは拒否される。
理解が追いつかなくて、
エドワードは呆けたように、目を丸くしていた。
…わざわざ、言うことか?
そう思ったが、エドワードはすぐさまに、いや違う、と自分の思考を打ち消した。
面と向かって、そんなことを言われたのは初めてだった。
自分たちはお互いにそういうことは言わないようにしているのだと、
無意識にどこか避けているのだと、
そう思っていたから。
言われた言葉に固まってしまった自分の思考が、
徐々に解れていく。
そうして、与えられた彼女のその言葉に、
自分がとんでもなく驚いていることに、ゆっくりと自覚し始める。
………ゆるゆると襲ってくるこの感情は。
「あ……」
エドワードは思わずウィンリィを抱いていた片手を離す。
離したその手で、自分の口元を覆うようにして隠した。
自分の首に回されていたエドワードの手が離れていく。
ウィンリィはやっぱり、と失望した。
思わず顔をあげる。
やはり、言わなければよかったのだ。
言って、と言われても言わないほうがよかった。
でも駄目だったのだ。かなわないのだ。
あたしはあんたのそれに弱い。
だから。
「今のなし……。やっぱり、忘れて……っ」
顔をあげてエドワードにすがれば、
彼は口元を手で覆ったまま視線をそらす。
「エド…?」
様子が変だ。
ウィンリィは、心臓の辺りがさらに重く鉛を抱えたように沈むのを自覚する。
わすれて、ともう一度言いかけたとき、
無理、というくぐもった声が返される。
エドワードは涙目のまま自分を見返してくるウィンリィに、
ようやく視線を重ねることが出来た。
自分の頬が、焼けたように熱くなっているのを自覚している。
口元を隠すようにして覆った手を下げることが出来ないのは、
見られたら困るからだ。
どうしようもなく、緩んでしまう口元を。
エドワードの反応がいまひとつ分からず、
ウィンリィの不安は増大していく。
無理、と口を隠しながら答えたエドワードの顔は、耳まで赤い。
不安げに揺れるウィンリィの青い目を見やってから、
エドワードは無理だ、と改めて言葉を返す。
そして、彼女の目を見ながら、確認するように、
「言いたいことって、それ?」
とゆっくりと尋ねた。
目の前の青く大きな瞳が、困ったように迷いながら、頷くように瞬く。
「………オレが、困ること?」
なおも問えば、ウィンリィはさらに困ったように目を潤ませて
エドワードの視線から逃れるように目線を脇に逸らす。
そんなウィンリィを一瞥してから、
エドワードは不意に目を閉じる。
そして、ふぅ、とひとつ、大きく震えるように息を落とした。
それから、唐突に自分の口元を覆っていた手の平を返すようにして
ウィンリィの顎を捉える。
「あ」
ウィンリィの唇から小さく声が零れたが、
エドワードはお構いなしに彼女の唇を貪った。
そして、ウィンリィの腰を抱き寄せていた手で、
彼女の両の手を縛っていたタオルをぱらりと解く。
そうして、キスをしたまま、
エドワードはウィンリィの身体を再びシーツの上に押し倒した。
唇を食まれ、舌を絡めとられるように激しくキスが落ちてくる。
息が続かない、
とウィンリィが新しく涙を滲ませたところでようやく唇は解放される。
「……まっ……て…」
彼が行為の続きをしようとしていることに気づいて、
ウィンリィは抗うようにエドワードの身体の下で身をよじった。
「や、だ」
エドワードは何も言おうとしない。
怒っているのか何なのか、はっきりして欲しかった。
自分は言ったのだ。
言えと言われたから、だから言った。
エドワードの事情は痛いほど知っている。
自分の言葉が何かを変えるわけでもない。
メンテナンスが終われば、
エドワードは目的のためにまた自分の前から去るのだから。
それでも、答えが欲しい。
明確な答えが。
このまま行為に流されて、うやむやにされたくない。
あたしは、言ったんだから。言ってしまったんだから。
「やっぱり、怒ってるんでしょ……!」
噛み付くようにして自分の首筋に唇を這わせてくるエドワードの身体を
押しのけようと躍起になりながら、しかし身体に力が入らないのを悔しく思いながら、
ウィンリィは声を上げる。
誤魔化されたくない。ここまで言ってしまったからには。
肌をさすような快感がざわざわと蘇ってくる。
自分の肌を這う彼の唇の感覚に、流されまいとウィンリィは意識を必死で手繰る。
怒るなら怒ればいい。困るならはっきり言えばいい。
……どんなに誤魔化そうとしたって、これがあたしの本心なんだから。
頭では理解していても、感情のところで首を縦に振れない、誤魔化せない。
あたしは、どうしようもなくワガママなんだと。
ウィンリィはそれを自覚して情けなくなってくる。
自己嫌悪だけが残っていた。
誤魔化そうとすればするほど、目の前の彼がすきなのだと、自覚させられる。
…はっきり困ると言えばいい。あたしは誤魔化さずに言ったんだから、
あんたもはっきり言えばいい。あたしにそう言ったように自分も。
「言ったから…だから、もう…」
「…やめない」
ウィンリィは目を丸くする。
エドワードは、やめねぇ、ともう一度吐き捨てるように低く言う。
「あ…」
ウィンリィはエドワードの身体の下でぶるっと身体をひとつ震えさせる。
エドワードがさらに身体を沈めたからだ。
「や……ぁっ…」
「言った」らこの行為をやめると言った癖に。
エドワードが分からなかった。
「誤魔化さ、ないで…っ」
身体の真ん中から、生ぬるい快感が波のようにじわじわと押し寄せ始める。
それに気をとられないように必死になりながら、
ウィンリィは涙声でエドワードに抵抗する。
「誤魔化して、ない」
少しばかり切れ切れな彼の声が、しかししっかりとした口調で返ってくる。
それを耳で聞き取りながら、ウィンリィは声を抑えようとするが止まらない。
「あ……、ぁ…ん…っ」
ウィンリィはのしかかってくる彼にしがみついた。
何かを確かめるように緩やかだった彼の動きは、
少しずつリズムが早くなっていく。
それに伴うようにして、ウィンリィの声も短く切れ切れに漏れていく。
「ず、るい……っ…」
「なに、が」
「やめるって、…言った癖に…ぃ…っ…」
それに対して、そっけない言葉が返ってきた。
オレ、ワガママだから、と。
動きを止める様子も無く、
エドワードは密着していた身体を少し離して、
目の前で揺れる彼女の両の胸に唇を押し当てる。
ワガママだけじゃないわ、嘘つきよ、と
反論する彼女の声は、途中から艶めいた喘ぎに変わる。
彼女の胎内を掻き混ぜるように動きながら、
エドワードはどうしようもない感情に自分が支配されていくのを覚えている。
は、と息を短く落としながら、
エドワードは喘ぎを漏らすウィンリィの唇を塞ぐ。
涙を滲ませながら唇に応える彼女を感じるだけで衝動はどんどん膨れていく。
……ゆるゆると襲ってくるこの感情に、名前をつけるとしたら何がいい。
彼女に言葉を返すようにして、
好きというのはあまりに簡単すぎた。
いまさら、だ。
側にいて、と彼女がハッキリ言った。
…側にいたい。これは、誤魔化しようが無く本当の気持ちだった。
彼女の望みをかなえてやりたくて、でもそれが出来ない今の自分がある。
それでも彼女がそう望んでいると知って、
かなえられないと分かっている自分はそれでもどうしようもなく嬉しいのだ。
だから、自分はワガママなのだ。
そして、だからこそ、まだ、言う資格は無い気がした。
泣き喘ぐ彼女に、好きだと囁くのは恐らく簡単で、あまりにもそっけなく言えてしまう。
だから、いまはまだ。
だが、彼女は、誤魔化さないで、という。
誤魔化しているつもりは無い。無いのだ。
答えは出ている。お互いに一緒のことを思っている。
……これほど、答えはヤサシイのに。
「側に、いたい」
不意に落ちてきたエドワードの低い声に、
目を必死に閉じて襲い来る快感に震えていたウィンリィは、
一瞬何を言われたか分からなかった。
涙の滲んだ目を、丸く見開く。
ああ、違うな、
とエドワードは動揺の色を隠さない彼女の目を真っ直ぐに見下ろしながら、
言葉を言い直す。
自分も同じ気持ちなのだ。それは嘘じゃない。誤魔化していない。
分からせるにはどうしたらいい。
ワガママゆえにまだ好きとは言えないオレは、
でもやっぱりワガママだから分からせたい。
同じ気持ちなのだと伝えたい。
「いたい」じゃない。
それでは、足りない気がした。
…ウィンリィがその言葉を言うのを拒否していた理由は、「きいたオレが困る」からだ。
彼女は全て分かっていて、それでもなおその言葉を言った。
だが、現実は。
現実は、そのお願いをかなえられない。
彼女が泣くのはそれを分かっているから。
それでも彼女はそう言った。分かった上で「側にいて」とそう言ったのだ。
だから、オレも分かった上で答えをあげる。
答えはヤサシイ。イコールで結んで彼女に応えてあげる。
今はそれしか出来ない。
今はまだ。
ワガママなオレにはまだこれしかできない。
側にいて、という彼女のお願いを聞きたいから。
オレは彼女のお願いに弱いから。
だから。
言い直した言葉に対して、
ウィンリィは顔をくしゃりと歪ませた。
エドワードを見返してくる彼女の大きな目から、ゆるゆると丸い粒が膨らみ、溢れてくる。
「嘘、つき……!」
予想通りの言葉だった。
ウィンリィは喘ぎながら、必死に言葉を継ぐ。
「アンタ、まだ、風邪治ってないんじゃ、ない、の…!」
まだエドワードは熱が下がっていなかったのかもしれない。
ウィンリィは本気でそう思った。
でなければ、そんなこと、彼が言うわけが無い。
側にいてって言ったら、そう返されるわけが無い。返していいはずが無い。
エドワードは、熱が下がっていなくて、だからおかしなことを平気で言っているのだ。
…側にいて欲しかった。理由は単純だ。
どうしようもなく目の前の彼が好きだから。
答えはどうしようもなくシンプルで、簡単で、難しいことなんかひとつも無い。
それなのに、伝えるのはこんなに苦しい。やさしくない。
叶えられないことなのだと、ウィンリィは分かっていた。
分かった上で言ったのだ。
そして、誤魔化さないでというウィンリィのお願いを、
エドワードはその言葉で返した。
それが意味するところは。
アンタ、おかしいわよ、と切れ切れに返すウィンリィに、
エドワードは違うと短く返す。
「お互い様、だろ」
そう言いながら、
エドワードはウィンリィの唇にもう一度キスをする。
身体をさらに深く彼女に沈めながら、エドワードはどんどん律動を早めていく。
切れ切れに重なる二人分の喘ぎと、卑猥な水音が部屋に高まるように響いていく。
終わりが近い。
果てそうになる意識をかき集めながら、
まだだ、とエドワードは耐えていた。
好きだといわない代わりに自分の全てを彼女にぶつけたい。
ワガママな自分には、それしか出来ない。
自分も同じ気持ちなのだ。それは嘘じゃない。誤魔化していない。
誤魔化せるわけが無いのだ。
ワガママゆえにまだ好きとは言えないオレは、
でもやっぱりワガママだから分からせたい。
同じ気持ちなのだと伝えたい。
「いたい」じゃない。
それでは、足りない気がした。
だから。
「側に、いる」
もう一度そう囁いた。
嘘つき、という彼女の言葉は、
だが、今度は声にならなかった。
2005.5.29
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