トライアングル-9
ウィンリィは熱を出してしまった。
ロックベル家に行くと必ずあてがわれる部屋の窓が
ガタガタと音を立てている。
窓際の桟に腰をおろして、エドワードは息をひとつついた。
外を吹き荒れる嵐に気が滅入るのを感じながら、
エドワードは、ふとポケットに仕舞いこんだ銀時計を手にとる。
生身の左手の中にすっぽり納まったそれは、
とても重たい。…今夜は、いつも以上にそう感じていた。
「…アル。」
扉のかしぐ音がして、
暗い部屋に一筋の明りが一瞬だけ差す。
廊下の光を背に立つ鎧の弟に目をやり、
エドワードはすぐに視線を銀時計に戻した。
「何してるの。…明りもつけないで。」
「いや……別に。」
「電気、つける?」
アルフォンスの問いに、エドワードは低く、このままがいい、と答えた。
そう、とアルフォンスはうなずき、
部屋の扉を後ろ手に閉めた。
差した一筋の光は、すぐに闇へととってかわられる。
ぎしりと音を立てて、アルフォンスはベッドに腰掛けた。
すぐ斜め前には、エドワードが窓辺に座っている。
ぽつりと沈黙が落ちた。
ガタガタと打ち震える窓の音だけが、部屋の中に静かに響く。
ちゃり、と銀時計の鎖がエドワードの手の中で鳴る音さえもが、よく響き渡った。
「……それ、直そうか。」
ぽつんとアルフォンスが言った。
銀時計のことを言っているのだ、とエドワードは気づいて、
いや、いい、とやはりぽつりと答える。
止め具の部分が見事にちぎれた銀時計は、
ガタガタと窓の鳴る部屋の中で、鈍い光を弾いていた。
それを見やりながら、アルフォンスはまたしてもぽつん、ぽつんと言葉を継ぐ。
「ウィンリィ、熱出しちゃったね。」
「ああ……雨に、濡れたからな。」
「兄さんは、ちゃんとあの後身体拭いた?」
「ああ。」
ぽつん、ぽつん、と会話は流れ、そして途切れる。
銀時計をぎゅっと手の中に握りなおし、
目はそれを見つめたまま、今度はエドワードが先に口を開いた。
「アル。」
「ん?」
「……ウィンリィと、さっき、何、話してた?」
沈黙が落ちた。
エドワードは決してアルフォンスのほうを見ようとしない。
ただ、睨むように銀時計を見つめていた。
そんな兄の様子を見つめながら、
アルフォンスはウィンリィとの会話を反芻した。
……なんと言ったら、兄は許してくれるだろうか?
何を言っても、ダメな気がした。
何を言っても、兄は兄を許さない気がする。
それが判るから、だからウィンリィは自分と秘密を共有してくれたのだ。
でも、とアルフォンスは何かに振り返るように思考をめぐらせる。
「…兄さん。」
「ん。」
「昨日の夜のことだけど。」
「ん…。」
アルフォンスはエドワードの質問にはすぐに答えなかった。
「どうして、僕にあんなことしたの?」
「…あんなこと?」
昨日の晩、エドワードはアルフォンスの鎧に唇を落とした。
そのことを、アルフォンスが言うと、エドワードは、ああ、と
少しばかり空虚な相槌を打った。
「別に……理由は、ない。」
本当は、あったのかもしれない。
しかし、エドワードは口をつぐんだ。
それは言っても仕方ないことだった。
つきつけられたのは、虚しくも冷たい現実だった。
しかし、その現実を一番強く直面している弟に、言うことは無い。
いまさら確認することも無いことだった。
アルフォンスは、視線を上げようとしない兄を見ながら続けた。
「……ウィンリィも、同じことしたんだよ。」
「は……?」
驚きの表情を見せて、エドワードは顔を上げた。
「同じ、こと……?」
アルフォンスは兄の言葉に鎧の頭をうなずかせた。
「そう。…同じことを。」
許す覚悟があるのよ、と言って、キスをしてくれた。
兄と、同じ場所に。
窓の音が一層激しくガタガタと鳴った。
エドワードは窓の桟の上で足を折りながら座っていたが、
自分の膝におもむろに顔を鎮めた。
左手に、銀時計を握り締めながら。
それをアルフォンスは無言で見つめていた。
……隠しとおせるはずが、なかった。
エドワードは膝の中で目を堅く閉じる。
「アル。………どっちも、オレにとっては大事なんだよ。」
兄の声が予想以上に低く重くて、
アルフォンスは兄の言葉を遮ろうとする。
「兄さん、…もう、いいから。言わないで。」
エドワードは顔を膝にうつ伏せたまま、首を横にふる。
「どっちも大切だから。だから」
ちゃり、と銀時計の鎖が手の中で軋んだ。
「…だから、謝らない。オレにとってお前もウィンリィも大切だから。」
だけどな、とエドワードは言いながら、不意に顔を上げた。
エドワードの目と、アルフォンスの鎧の視線が、
闇の下で音を立ててかちりと合った。
「だけどな、オレはズルイから、
だから、こうして言わないほうがいいことをいちいち言ってしまうんだ。」
…オレがこうして言っているのは、オレが優しいからじゃない。
オレがズルイからだ。
全部、分かっている。
だから、謝らない。
謝っても謝らなくても、アルフォンスの現実は変らない。
だったら、どこまでもズルくズルくなるしかない。
「ごめんね。」
謝罪の言葉が、落ちてきた。
エドワードは目を見開く。
「僕も兄さんとウィンリィが大事だよ。
どっちも大切だから。だから、謝らせて?」
「アル……」
目の前の弟の囁き声が、鎧の空洞に反響しながら部屋に落ちる。
…謝るのは、僕が優しいからじゃない。なんでも許す心優しい弟だからじゃない。
僕がズルイからだ。
全部分かっている。
兄が兄自身も、自分も、全て誤魔化そうとしていることを知っても、
兄がズルくズルくなったとしても、それを自分はなじれないのだ。責められないのだ。
兄はもしかしたら自分が兄を責めることで救いを求めているのかもしれない。
でも、それをあえて自分はしない。
兄を責めても責めなくても、兄の現実はどうせ変らないのだから。
自分の存在が兄を縛ることになる。それは、変らない。
だったら、どこまでもズルくズルくなるしかない。
あえて、救いなど与えずに、このまま、前へ進む。それしか、無い。
…だから、
全てを分かった上で、
自分自身を許そうとしない兄さんを許そうとしている僕を許して欲しい。
優しさゆえではなく、自分の我侭ゆえに許そうとしている僕を。
「ウィンリィから、聞いたんだよ。」
何をだ、とエドワードは訊かなかった。
アルフォンスは静かに続けた。
「……秘密だけど。」
「…………なんだ、それ。」
戒めを、とウィンリィは言った。
あえて言うなら、戒めを共有している、と。
それならば、僕らにもある。
「…約束。」
アルフォンスは言いながら、
銀時計を握り締めているエドワードの手にそっと鎧の手を伸ばした。
前に進むために、兄は銀時計さえも手に入れた。
兄が前に進むために、ウィンリィは手と足を兄に与えた。
全ては、僕と兄の約束のために。
こんなに二人から与えられてばかりなのに、
それをこんな形で二人に返してしまう僕を、どうか許して?
「前に進むって、決めただろ、兄さん。」
約束だった。誓ったはずだった。
エドワードの左手の上に、アルフォンスの鎧の手が重なる。
「だから、忘れないで。」
エドワードの目が、また、わずかに見開かれた。
窓は一層激しく音を立てて軋む。
闇に沈む部屋の中で、
大きな鎧と、窓辺に座る小さな人影のシルエットが、
掌に鈍く光る小さな戒めを中心にして、繋がる。
エドワードからウィンリィへ、
ウィンリィからアルフォンスへ、
そして、アルフォンスからエドワードへ。
順繰りに巡る思いを一つに収束させるために。
ここにはいない、もう1人の幼馴染さえも巻き込んで、
それは三人を縛る鎖となる。
忘れないで、とアルフォンスはもう一度呟いた。
それにたいして、
小さな人影は、今度は確かに、ゆっくりと、うなずいた。
(fin.)
2004.11.28
…続きます。次回で終了……か?微妙に2つにわけるかもしれません。