トライアングル-8
僕らは三人で一緒だった。……幼い頃は。
それが、今、崩れつつあるのだ、とアルフォンスは密かに嘆く。
何もかもなぎ倒しそうな、そんな暴風の吹く嵐の夜。
朝と同じように、
ウィンリィは整備室に居て、作業をしている。
その背後から、
アルフォンスが扉の音を立てて、部屋へと入ってきた。
ウィンリィは振り返らずに、
「どうしたの?アル」
と静かに問う。
作業の手を休めることなく。
その後姿を見ながら、
アルフォンスはひどいジレンマに眩暈を覚えていた。
「アル?」
不審に思ったのか、ウィンリィがふいと振り向く。
その目はなんだか充血していて、
ウィンリィは、妙な気だるさを全身から醸していた。
「ウィンリィ……大丈夫?」
「何が?」
聞き返してくる彼女の笑顔はとても疲れていて、
アルフォンスは首を傾げる。
…なんだろう?
何か、ちくりとあるはずのない胸が痛むのをアルフォンスは感じていた。
強いて言うなら、自分の魂が、痛いほどに感じていた。
ウィンリィは手を休めて、
部屋の片隅でぼんやりと突っ立っているアルフォンスのそばへと近づく。
「どうしたの?」
「何が?」
今度はアルフォンスが聞き返す番だった。
ウィンリィは、はるかに高いところにある、
アルフォンスの鎧の頭に手を伸ばそうとする。
触れた指先に刺さるのは、どこまでも冷たい温度だった。
それを思うとき、ウィンリィはとてつもなく哀しくなってくる。
「アル……」
ごめんね、と言う言葉は、ウィンリィはなんとかして飲み込んだ。
そして、代わりに一言、言った。
「……泣かないで?」
アルフォンスは、膝が崩れそうになる。
そう、まさに、アルフォンスは今、
地に膝をついて泣き出したい気分だったからだ。
泣く体が無い自分が、途方もなく悲しかった。
こんなことを言えるウィンリィが、だから憎めるはずが無かったのだ。
「………泣けないよ。」
アルフォンスはわずかに声を震わせながら、
静かに言葉を返す。
「ねぇ、ウィンリィ。」
「ん。」
真っ直ぐに自分を見上げてくる青い瞳をじっと見つめながら、
アルフォンスは静かに言う。
「僕たち、ずっと、一緒だったよね。」
「うん。」
「兄さんと、ウィンリィと、僕とで、三人で、一緒。」
「うん。」
「小さい頃に作った秘密基地だって、
三人だけの共有の秘密だったし。
三人で共有の秘密ならいっぱいいっぱいあったよね。」
「……うん。」
ウィンリィのうなずく声が、だんだん力なくなってくる。
どこで間違えたのだろう、とアルフォンスは逡巡するように
魂のみの身体で記憶をめぐらせる。
いつから、僕は、共有の秘密の中に入れなくなってしまったんだろう?
兄の手の中にあった、鎖の壊れた銀時計に、
目の前の幼馴染の首筋に揺れるように咲いた紅い花。
…これは、僕が触れられない、二人だけが共有できる秘密なのだ。
聡いアルフォンスは、それを全て悟っていた。
兄がウィンリィを好きだったなんて、とっくの昔から知っている。
ウィンリィが兄を好きなのだということは、今朝知った。
でも、本当は前から気づいていたのかもしれない。
気づいていて、知らないフリをしていたのかもしれない。
ウィンリィは、泣かないで、と言った。
きっと、泣ける体があったら、アルフォンスは泣いていただろう。
小さい頃、そうしたように。
泣ける体が無いから、泣いていないだけで。
だから、小さい頃そうしたように、
「泣かないで」と言ってくれたのだ。
ひどいよ、とアルフォンスは空洞の鎧の中で呟く。
鎧の身体になる前と変らないその声で、
そんな風に言わないで。
本当はもう、何もかも変わっているはずなのに、
こんな時だけ、変らないフリして、そんな言葉をかけないでよ。
でも、ウィンリィがこんな子だから、
だから、兄はウィンリィが好きで、
僕も憎めない、好きなのだ、とアルフォンスはそのジレンマに眩暈を覚えるのだ。
「……なじってくれても、いいわよ。」
唐突に、ウィンリィは声のトーンを落としてぽつんと言った。
エドワードの背中を押したのは、自分だ、とウィンリィは自覚していた。
目を瞑って、誤魔化せ、とそそのかした。
選ばせたのだ、自分を。
彼が酷い罪悪を覚えることを知っておきながら。
もう、許してとは言わない。
許さないで、とも言わない。
何を言ってもアルフォンスにとっては何の益にもならないのだ。
ただ、我侭になるだけなのだ。
だったら、ありのままを受け入れる。
その覚悟の証として、
自ら、あいつの銀時計の鎖をちぎってやった。
「なじるなんて……そんなこと、しないよ。」
アルフォンスは、吐き出すように言葉を紡いだ。
アルフォンスは兄を愛していたし、ウィンリィのことも愛していた。
小さい頃からずっと一緒だった。
兄がウィンリィを好きだというのなら、
それを受け入れたい。
ただでさえ、自分は兄を縛っているような気がしてならないのだから。
元の身体に戻る、と誓って、旅をしている。
本当なら、人体錬成を犯したあの日、死ぬはずだったのを、
腕を犠牲にして魂を取り戻したのが兄だった。
そして、その代わりの機械の腕を与えたのは、ウィンリィだった。
元の身体に戻るまで前に進むと決め、
エドワードは銀時計さえも手に入れた。
地を立ち、前に進むための機械鎧が壊れるまで、
エドワードはリゼンブールに帰ろうとしない。
そして、ウィンリィは
おそらくそんな兄が帰ってくるのを黙って待っているのだろう。
自分は、兄と、そしてひいてはウィンリィを縛っていることになるのかもしれない。
それをひしひしと感じていながら、でも知らないフリをしている。
だって、そうしなきゃ、自分は八方塞がりになる。
兄はきっと、自分に対する罪悪感がある。
それを知った上で、自分は何も言わないでおく。
でないと、今度は、目の前の幼馴染が泣くことになるのだから。
「ねぇ」
ウィンリィは、すがるような目をしてアルフォンスを見る。
アルフォンスはやはり首を振った。
そして、その代わりにといわんばかりに、口を開いた。
「兄さんと、共有しているものって、何?」
ウィンリィは困ったように瞳を揺らせた。
「言えない?」
いくらか迷って、ウィンリィは小さくうなずく。
「……いえないわ。」
そう、決めたのだから。銀時計をひきちぎったときに。
アルフォンスには言わないと。
「…ただ、言えることは…」
「うん…」
「言えることは、……戒めを、ってことだけ。」
「……戒め?」
ウィンリィはうなずく。
銀時計の中身は、自分とエドワードだけの秘密だった。
あいつの覚悟と迷いも全て封じ込めたあの銀時計の中身は。
わかった、とアルフォンスはうなずいて、
「それじゃあ、僕とも共有しない?」
と一言、言った。
「何、を?」
「……秘密を。」
兄さんには内緒の秘密を。
アルフォンスは、身体をかがめて、
ウィンリィの耳に鎧の頭を寄せる。
そして、そっとそれを囁く。
伏せられがちなウィンリィの瞳が一瞬、小さく見開かれ、
それは力なく閉じられた。
そして、こくりと首を縦に振る。
それを確認して、アルフォンスは屈めた身体を起こす。
その時、整備室の戸がぱたん、とあけられる。
「あ、兄さん。」
入ってきたのは、左足の整備を終えたエドワードだった。
ウィンリィの隣に立つアルフォンスを見上げて
エドワードは、おう、と小さく応える。
金の瞳がちらりとウィンリィのほうへと向いた。
そして、はっとわずかに目を見開く。
入ってきたエドワードの姿をウィンリィはぼんやりと見つめた。
自分をマジマジと見返してくるエドワードを不審に思う。
「な、に…?」
エドワードは急に怒ったような顔をして、
つかつかとウィンリィの側に寄る。
そして、左手をさっとウィンリィの額に当てる。
「この、バカっ。」
「な、何よ……っ」
急に怒鳴らないでよ!といおうとして、
ウィンリィはふらっと足元が覚束なくなるのを自覚する。
それを抱きとめて、
エドワードはひょいと物でも抱えるように
左腕一本でウィンリィの身体を肩に抱えた。
「ど、どうしたの…?」
さすがにアルフォンスも様子が変だと慌てた。
仏頂面をしたまま、エドワードが不機嫌そうに言った。
「熱。……こんなに高いくせに、
無茶しやがって!」
昼間、雨に濡れたからだ、とエドワードは眉をしかめる。
そういわれて、アルフォンスはようやく、
さっきからウィンリィの様子がいつもと違っていた理由を悟る。
「や…だ…!おろしてっ」
膝をがっしりと左腕で固定されるように掴まれて、
肩の上に後ろ向きにのせられたウィンリィは、
顔を赤くしながらエドワードの背中を叩く。
しかし、それには構わず、
エドワードは整備室のドアを足で蹴飛ばして開ける。
「おろしたらまた仕事するだろっ。
……今日はもう終わり!寝ろ!」
「や…よっ。あんたの腕、間に合わなくなるじゃない!」
「いーからっ!!」
そう言いながら、エドワードは二階の階段を上がる。
エドワードの肩の上でもがきながら、
ウィンリィは顔を上げると、
朦朧とした視界の端に、
自分達を見送るように突っ立っているアルフォンスがいる。
ウィンリィは、思わず、口を開こうとする。
しかし、それはすんでのところで、飲み込まれる。
「二人だけの秘密だよ」という、
アルフォンスの言葉が頭を霞めたからだ。
「おろして…ってば…っ!」
二階の自室へと連れて行かれたウィンリィは、
ようやくベッドの上へ転がされるようにして解放される。
「あた…し…は、大丈夫だから…っ!!」
「どこがだよ!無理すんじゃねーよっ!」
部屋は電気をつけていないので暗い。
開け放たれた扉から漏れる廊下の光が、
エドワードの背後から差し込むお陰で、
ようやく室内がうっすら見える、という状況だった。
むっとして、ウィンリィは眉を吊り上げる。
自分の何を知っているというのだ。
いつもいないくせに。
しかし、言おうとした言葉は音にならない。
眩暈がしていた。どうしようもなく。
エドワードの胸に掴みかかろうとして伸ばした手は力を失って、
彼の上着をただぎゅっと握り締めた。
そして、そのまま、
ウィンリィは彼の服の中に顔を埋める。
「………ウィンリィ…?」
不審に思ってエドワードは首をかしげる。
「…………なんで、泣くんだよ。」
意味わからん、とエドワードは勢いを失って、
うろたえる自分を自覚する。
「オレ、なんか、したか?」
そんなに仕事がしたかったのかよ、とエドワードは困ったように
ウィンリィの頭に左手を伸ばす。
触れていいのか分からなかったが、
とりあえず、彼女は自分の服を捉えて離さない。
なにより、胸に、彼女のすすり泣きが直に伝わっていて、
他になすすべが無かった。
なんかしたか、という問いに対して、
ウィンリィは何度も首を振った。
違う、違うの、と言いながら。
「じゃあ、なんだよ。」
わからねぇよ、とますますエドワードは弱る。
左手だけを彼女の頭に滑らせて、
彼女の金髪を指で掬う。
「…………アルが、泣かないから。」
「…アルが?」
ウィンリィはこくりと強くうなずく。
顔はエドワードの服に埋めたままだ。
アルフォンスはきっと泣いているに違いない。
涙が流せたら、きっと、泣いている。
幼い頃そうしたように。
それなのに、彼は涙を流さないし、何より、流せないのだ。
これが、現実だった。
それなのに、あたし達はなんて我侭な選択をしたのだろう。
誰もが我侭で、
誰もが優しくて、
そして、だからこそ、誰もが、悪くないのだ。
何を選んだとしても、残るのは、
手に溢れるほどにこぼれる、どうしようもない切ない想いだけ。
順繰りに巡るこの想いは行き所を無くしたまま、
トライアングルを描きながら、あたし達の間を巡っているのだ。
それが、とてつもなく、哀しい。
そして、とてつもなく、愛しい。
「もう、寝ろ。な?」
涙がなんとか止まると、
エドワードに支えられて、ベッドに横にさせられる。
「エド……」
「ん?」
呼びかけたら、エドワードはとてつもなく優しい目で応える。
「……なんでも、無い。」
エドワードは首をひとつ傾げて、
部屋を出て行く。
その後姿を見送りながら、ウィンリィはまた涙が溢れ出すのを止められなかった。
……『僕が兄さん達のことを知ったっていうのは知らないフリをして?
兄さんにも言わないで。……僕も、知らないフリをするから。』
それは、アルフォンスにとって、精一杯の選択だった。
つまりは、そういうことだ。
エドワードとウィンリィがアルフォンスに秘密にすると決めたように、
アルフォンスもまた、秘密にすることを決めたのだ。
知らないフリをしよう?
それを、三人で共有しよう。
アルフォンスが知ったことをエドワードが知らなければ、
少なくともエドワードはこれ以上余計な罪悪感は背負わない。
アルフォンスが知ったことをウィンリィが知らないフリをすれば、
ウィンリィはそのまま余計な罪悪を背負わずにエドワードを受け入れることができる。
アルフォンスが知ったことをアルフォンス自身知らないフリをすれば、
アルフォンスはそのまま、
何も知らない顔をして、エドワードとまた旅に出ることが出来る。
つまりは、そういうことだ。
そこに伴うのは、お互いを縛る罪悪感だった。
知っても知らなくても、後ろめたさはつきまとうのだ。
それは、誰のせいでもなかった。
しいて言うなら、お互いが優しすぎるからだった。
それが分かるから、ウィンリィは涙が止まらなかった。
哀しいほどに、お互いが優しすぎるのだ。
だから、自分の我侭がこんなにも醜く感じる。
……これは、罰なのだ。
決めたのだ、とウィンリィは涙を払う。
ごまかせる。もう、子どもじゃない。
子どもじゃないから、ごまかす。
子どもじゃないから、その現実からは逃げない。
逃げないで、全てを受け入れる。
それはとてつもなく重い罪の意識を伴うけれども、
それ以上の現実を知っているから。
だったら、ごまかすしかない。
どこまでもひたすらごまかして、嘘をついて、隠し通して。
ただ、降り積もる罪の意識に目を逸らさずにそのまま抱えるのだ。
だけど、この我侭のせいで、
アルフォンスが泣けない体で泣いている。
それを思えば、胸が切ないほどに焼けてくる。
誰もが我侭で、
誰もが優しくて、
そして、だからこそ、誰もが、悪くないのだ。
何を選んだとしても、残るのは、
手に溢れるほどにこぼれる、どうしようもない切ない想いだけ。
順繰りに巡るこの想いは行き所を無くしたまま、
トライアングルを描きながら、あたし達の間を巡っているのだ。
それが、とてつもなく、哀しい。
そして、とてつもなく、愛しい。
とめどなく溢れてくる涙を払いながら、
ウィンリィは朦朧とする意識を手放した。
(fin.)
2004.11.25
…あと三話で終わらそうと躍起になってたら、内容を詰めすぎました…。
なんだ、この長さは…(滝汗)考えなさすぎですな…。
もうちょっと続きます。