足りない-3
『あいつは、………空気、だよ。』
ただひたすら冴え冴えと落ちる闇の中に、
兄の声がこだまするように響いている。
…兄さんは無意識に言ったに違いない。
あの会話の中で、
出来るだけ平静を装って、出来るだけ当たり障りの無い言葉を選ぼうとしたに違いない。
何でもないことを強調しようとして言おうとしたに違いない。
なのに、それが裏目に出た。
『……でも、無いと、生きていけないね。』
そう言ったのは、僕だ。
兄さんのその言葉があんまり「ぴったり」だったから。
だから、言ってしまった。
無意識に、言葉が出ていた。
……知らないフリをする。それが、僕らの暗黙の了承だったはずなのに。
アルフォンスは、鎧の両脚を胴に引き寄せるようにして
縮こまるように床に座りなおした。
鎧の体を動かすたびに、かしぐような金属の音がこすれ合う。
眠ることの出来ない夜は、ただひたすらに長い。
暗闇に紛れるように時をやり過ごしていく中で、
何度この闇に引き摺られそうになったか分からない。
それほどに気の遠くなるような夜を幾つも数えてきた。
感覚の無い体は、時の流れを感じることも許さなかった。
たとえば、呼吸がそうだ。
息することも出来ない自分の鎧の体。
自分が生きているのか、ひいては自分が人間と言えるのか、
呼吸が叶えばそれで簡単に証明することが出来るかもしれないのに、
それさえも出来ない。
けれども、それでも長い夜をやり過ごすことが出来たのは、
側に兄が居たからだとアルフォンスは思う。
闇の中で息づくように落ちる兄の寝息を側で聞いて
それをゆっくりと鎧の空洞の中で数えていく。
そうすれば、数えただけ、空洞の中に時が積もり、
時間が流れていることを感じることが出来た。
……でも、今、兄は居ない。
アルフォンスは、つけないため息をつく。
…言わなければ良かった。あんな言葉。
無意識に吐いた言葉は、意識しなくとも自分に返ってきている。
それはきっと兄さんも同じ。
暗黙のルールだったはずなのに。
無意識に吐いた言葉の、これは罰なんだろうか。
アルフォンスは、さらに鎧の背を丸めて小さく縮こまる。
足りない。空気が足りない。
呼吸の出来ない体だというのは分かっている。
それでも足りないのだ。
あの寝息が聞きたい。
無いと、生きていけない。
時間を知る術が無いと、生きている感覚がしない。
生きている感覚がなければ、闇に呑まれそうになる。
…それが、恐い。
毎日不安で、何か足りなくて、いつも渇いてる。
感覚の無いこの体が、それでも切実に欲している。
そう思いながら、アルフォンスは目の前で自らの鎧の手を拳に変える。
しかし、乾いた金属音が生まれるだけで、
作ったはずの拳の上には変わらずにただ闇だけが落ちていた。
「で、あたしの質問にはいつ答えてくれるの?」
ふわふわと湯気の立つ向こうで、彼女が睨むように言う。
手を伸ばせばすぐのところに、彼女がいる。
これ以上近づかないで、という距離制限まで言い渡されて、
エドワードは内心、意味不明だよ、コイツ、と
ウィンリィを睨み返した。
湯気立つ水面の波が穏やかに静まることは無い。
ゆらゆらと揺れる水面下のさらに下に彼女の肢体が見えそうで見えなくて、
エドワードは、なんでこんな目に遭わないといけないんだ?と
視線を彷徨わせる始末だ。
結局、ウィンリィの言葉に負けて、冷たかった水はお湯になった。
次は何を言い出すんだ、という風に首までお湯に浸かるウィンリィを見返す。
「質問て?」
一拍の間を置いて、エドワードはシラを切ることに心を決めた。
思えば、とエドワードは昼間の会話を反芻する。
あれは、どちらかというと失言だった。
言うべきではなかった。
だから、弟に指摘されたときに、ひやりとした。
……無意識で選んだ言葉が、こんなにも自分を動転とさせている。
「だから、昼間のことよ」
食い下がるウィンリィを、エドワードはどうしてやろうかと思考をめぐらせる。
いちいち言う決まりは無い。
何より自分達は決めたではないか。
あのルールを。
「なんだったっけ?」
エドワードの言葉に、ウィンリィはむっとする。
「昼間言ってたじゃない。とぼけない…で……っ……あ」
んン…っ、とウィンリィは身をよじる。
エドワードが突然、彼女の体を引き寄せたのだ。
ウィンリィは泡を食ったようにもがいた。
「近づかないで、て言ったのに!」
最初に近づいてきたのはお前のほうじゃないか、と
エドワードは思った以上の抵抗を見せる彼女にむっとする。
人が水風呂に入って熱を沈めようとしていたのに
こっちの静止も無視して、計り取っていたはずの距離に割り込んできた。
「…………アホか」
…無茶なことを言うんじゃねーよ。
エドワードは低く呟いて、そんなの聞けるわけないだろ、と
後ろから抱え込むようにしてウィンリィを抱く。
濡れて背に張り付いた彼女のハチミツ色の髪を
指先で肩に寄せると、現れるのは彼女の白いうなじだ。
そこに軽く唇をあてると、くすぐったい、というように彼女の体が撥ねた。
彼女の腹の辺りを抱えていた両の腕を
そろそろと上のほうへ這わせる。
辿りついた両の膨らみを撫でるように捏ねれば
彼女はくぐもったような声を上げて、体を離そうとする。
水面下で手はうごめくようにウィンリィの肌を這い、
そのたびに彼女の身体はうねるように撥ねた。
胸の頂でピンと自己主張するそこを手で嬲りながら、
エドワードのもう片方の手は彼女の下腹部へと滑り込む。
ウィンリィの下肢の間から、じゅぶじゅぶと気泡が立った。
「や……っ…あっ…」
ウィンリィは顔を前かがみに伏せ、足を閉じようとするけれども
エドワードには敵わない。
彼女の途切れ途切れの喘ぎ声を耳にしながら
エドワードは音を立てて彼女の背中を吸うと、
ズルイ、とウィンリィは声を上げる。
「何がだよ」
顔を上げれば、
首をのけぞるようにして背後の自分を睨む彼女の目が程近い所にあった。
は、は、と息を切らしながら、彼女が潤んだ目で睨んでいる。
「昼間のこと。……誤魔化さないで」
は? とエドワードは切るよう言葉を吐いた。
「誤魔化すも何も、オレは答えるなんて一言も約束してない」
勝手に入ってきたのはお前だ。
そう思いながらも、昼間の自分の言葉を知らず知らずのうちに
エドワードは頭の中で反芻していた。
言葉を選んだつもりだったのに。
なのに、咄嗟に出た言葉は。
……誤魔化そうにも、誤魔化せない。
無色無臭の空気。だけど、こんなに存在感がある。無いと生きていけない。
それほどまでに思わせるような、そんな存在。
無意識にも意識している。
そんな、逆説が、身体の中を支配する。まるで空気のように身体を巡っている。
「答えは……逆。」
吐き出すようにそう言って、
エドワードはウィンリィの顎を指先で捉える。
そのまま貪るように唇を奪った。
逃れようと身を引く彼女をもう片方の手で抱えて、逃さないようにする。
逃げないでほしい。今だけは。
どうしようもないほどに満たされていく。
そしてもっともっととほしくなる。
満たされれば満たされるほど渇いていく。…そんな、逆説。
「意味が分からない」
唇を離すと、ウィンリィは言った。
薄紅に蒸気した彼女の頬に張り付いた髪を寄せてやりながら、
わかんないならわかんなくていーよ、とエドワードはぽつりと言った。
そう言うと、ウィンリィはさらに顔を顰めて目を潤ませる。
「それがヤダって……言ってるのに!」
確かめたいだけ。
毎日不安で、何か足りなくて、いつも渇いてる。
何を考えている?何を思っている?今、どんな気持ちなの?
確かめたいだけなのに、エドワードはそれを拒否する。
あのルールのためだと自分でも分かっていた。
でも、何か違う。何かが違うのよ。
身体をひっくり返されて、エドワードと向かい合うように座った。
噛み付くような勢いで首筋から喉元、胸へと彼の唇が移動していく。
身体を密着させて、落とされる彼の唇から熱が生まれていく。
それなのに、どんどん気持ちだけが冷えていく。
身体は密着しているはずなのに、どんどん距離が生まれている気がするのはどうして?
満たしているはずなのに、満たされない。足りない。
「あ」
ウィンリィは身体をのけぞらせる。
両の胸に交互に口付けられて、
気持ちとは裏腹に身体は熱を覚えていく。
すぐ手前にある彼の頭を抱えるようにして両の腕を伸ばしたが、
そこに思わず垣間見てしまったエドワードの表情に、ウィンリィは泣きたくなった。
…なんでそんな辛そうな顔してるのよ、馬鹿。
ウィンリィはエドワードの頭に回そうとした腕を
するりと彼の首へと移動させる。
「…?……ウィンリィ…?」
のけぞっていた彼女が唐突に自分の首に腕を回し、
肩口に顔を埋めるようにして抱きついてきたので
エドワードは困惑した。
肩を上下させながら抱きつく彼女が泣いていることに気づいて、
エドワードは、ハタと固まった。
「ちょ……おいおいおい……」
やりすぎた…?とエドワードは慌ててウィンリィの顔を覗き込もうとするが
それは断固として拒絶される。
なんなんだよ、とエドワードはウィンリィを抱いていた両の腕を離す。
「オレこそ、意味がわかんねーよ」
お手上げだ、という風に手をあげて、
エドワードはぽそりと呟く。
すると、あたしだってわかんない、と、涙声が返ってくる。
…確かめたいだけ。
あの言葉の意味を。
立ち聞きした時に、その言葉が「ぴったり」だと思ったの。
でも、目の前のエドワードは「逆だ」とハッキリ言った。
それが答えだって。
どっちなの?
確かめたいのに、だけど確かめられない。
あのルールのせいだ。
最初はそれでもいいと思った。
でも、どんどん欲張りになる。
距離をとろうと思っても、とり方が分からない。
近づきたいけど、近づけない。
近づいてみたら、近すぎて、恐くなる。
知りたいのに知りたくない。でもやっぱり知りたい。
ぐるぐる渦巻く自分の感情に収拾がつかない。
収拾つかないまま彼に抱かれて、
ただ感じるのは埋まらない距離感だけ。
「ウィンリィ………?」
お手上げだ、とそのことばの通り手を上げていたエドワードだったが、
ずるり、と胸の中にいる彼女の身体が唐突に力を無くしていくのに
ぎょっと慌てた。
おいおいおい、と水の中に沈みそうになる彼女を支えようとする。
呼んだが応答は無い。
力を失った彼女の身体はひどく重かった。
声が聞こえる。ウィンリィは目を閉じていた。
エドワードの声だ。
でもそれはどんどん掠れて小さくなって、渦を巻いて消えていく。
意識を手繰るように口を開いた。
そうしないと、ぷつりと何かが切れそうだったから。
何を言ったのか、そこまでの意識はもう無い。
けれど、言ってはいけないことを言ったような、そんな罪悪感だけが
染みのように残った。
途切れる意識の中で、
その染みは、どす黒く闇を孕んでウィンリィを飲み込んだ。
(fin.)
2005.2.18
……まだ続くらしいです。だらだらしてすすみません…。
⇒「15.心配」へ続きます。よろしければそちらもどうぞ。