足りない-4
なんだか騒がしい音がする。
廊下を何度も行き来する、慌てふためいた足音は一人分。
なんだろう、とアルフォンスは闇の中で鎧の頭をあげる。
しっかりしろ、この馬鹿、という声が微かに聞こえた。
それは、兄のものだ。
アルフォンスは不審に思い、立ち上がって部屋を出る。
明かりの灯された廊下へ出て行くとほどなくして、
浴室の入り口の辺りから、
見慣れた蜂蜜色の髪が枝垂れるように床に横たわっているのが目に入った。
アルフォンスはぎくりとした。そして、本能的に声を上げていた。
「……っウィンリィ……!?」
しかし、アルフォンスが駆け寄る前に、
その枝垂れるように伸びた髪がふわりと宙に舞う。
「兄さん…!」
浴室の入り口から飛び出してきたのは、半裸の兄だ。
その腕には、タオルでくるまれるようにして抱えられたウィンリィが居る。
「…いったい…」
アルフォンスは戸惑ったように発しかけた声を思わず小さくひそめる。
もうだいぶ遅い時間なのだ。もう一人のロックベル家の住人がおきだすと、
なんだかマズイ、と
目の前の兄とウィンリィの格好からアルフォンスは咄嗟に判断した。
「のぼせたみたいだ」
エドワードはそう言いながらアルフォンスの脇をすいっとすり抜ける。
向かう先は、二階の部屋だ。
「僕、水持ってくるよ」
階段を上がる兄の背中にそう言うと、振り向きもせずに頼む、という声が返って来た。
ウィンリィの部屋の扉を押し開けるようにして入ると、
エドワードは、ウィンリィを抱えたまま部屋の奥へと足をのばす。
そして、なんとかウィンリィの身体をベッドの上へと運ぶ。
シーツの上に、彼女の身体は力なく沈んだ。
月の無い夜だったが、カーテンの閉められていない部屋の窓からは
星明かりがわずかにもれる。
それが、彼女の顔を淡く浮かび上がらせていた。
それを思わず見つめながら、
エドワードは、先ほどの浴室の会話を反芻していた。
正確には、消え入るように彼女が最後に呟いた言葉を。
……どうしようも、無いじゃないか。
今更、だ。今更、そんなことを言わないでくれ。
エドワードは唇を軽く噛んで、ウィンリィに手を伸ばす。
シーツの上に濡れた彼女の髪が乱れるように波を打っていた。
彼女の頬に張り付いた髪を寄せようとして、
ウィンリィの肌がとてつもなく熱いことに気づく。
暖かい熱が生身の指先から伝わって、
エドワードは切なくなる。
本当は触れてはいけないものだった気がする。
伝わる熱は、本当は感じてはいけないものだった気がする。
しかし、全ては遅い。今更、なのだ。
「兄さん」
きぃっと扉が音を立てて開いた。
エドワードは思わず、触れていた指先を彼女の肌から離す。
「水、持ってきた。あと、タオルも」
鎧の金属音を立てながら、
アルフォンスはそう言って、鎧の手に持つ洗面器を示す。
「お、おお。さんきゅ……」
少し慌てた風を見せながら、エドワードは弟に礼を言う。
アルフォンスは、ベッド脇の小さな戸棚の上に持ってきた洗面器を置いた。
そして、タオルを洗面器に浸す。
沈黙の落ちた部屋に、タオルの水を絞る音だけが響いた。
「無茶、したね」
アルフォンスの言葉に、エドワードは思わず言葉を返す。
「む、無茶したのは、こいつのほうだ」
しかし、アルフォンスは何も答えずに、ウィンリィの額に絞ったタオルを乗せる。
「……熱い、のかな?」
弟が言わんとしていることに気づいて、
うん、すげぇ熱い、とエドワードは思わず身を乗り出す。
アルフォンスの隣に立って、絞ったタオルを取り、
ウィンリィの額に手のひらをのせる。
「やっぱ、のぼせ、だよな」
大した時間は入ってないんだけど、と言い訳するようにエドワードは付け足した。
濡れたタオルをウィンリィの額に乗せなおす。
そわそわと落ち着かない様子の兄を見てとり、
アルフォンスは呆れたようにため息を落とす。
「……そんな格好でうろうろしてたら風邪ひくよ。
着替えてきたら?ウィンリィは僕が看てるからさ」
兄ときたら、髪は濡れたまま肩まで垂らし、
上半身は裸、という体裁だった。
「ついでに、ウィンリィが起きたら水飲めるように
コップか何かに汲んできておいてよ」
僕、忘れちゃったからさ、とアルフォンスが言うと、
それもそうだな、とエドワードはアルフォンスの言葉に頷く。
兄の姿が廊下へ消えるのを見送ってから、
アルフォンスは、浅い息を繰り返すウィンリィに視線を落とす。
そっと、鎧の手を彼女の頬に伸ばしてみた。
エドワードは隠していたつもりかもしれないが、
アルフォンスはしっかりとこの部屋に入ってくるときに見ていた。
兄がしたように、自分もウィンリィに手を伸ばしてみる。
兄は熱いと言っていたが、やっぱりアルフォンスには分からなかった。分かるはずは無かった。
それが現実だった。
……そもそも、熱いってなんだろう。
冷たいってなんだろう。
ほんの数年前まで確かに「感覚」があったはずなのに、
アルフォンスには、これが感覚だ、という「感覚」がもう分からない。
ウィンリィに触れていた指を離して、
それを拳に固めた。
……そう。だから、欲しいんだ。欲しくて、たまらないんだ。
「……アル…?」
か細い声が響いた。
アルフォンスは身を乗り出す。
「目が、覚めた?」
星明りの下で、気だるそうにウィンリィは視線を泳がせる。
そして、自分の顔を覗き込むようにする鎧の頭に手を伸ばす。
「何?」
アルフォンスは首を傾げる。
首をかしげながら、そういえば、といつも不確かに思っている記憶を手繰るように
思い起こしていた。
……前にもこんなコトがあった。
彼女が、自分に恐る恐る手を伸ばしたのだ。
あの時も、恐かった。本当は、不安だった。
目の前の幼馴染が何を言い出すか分からなくて。
恐くて。不安で。心配で。
「ア、ル」
ウィンリィは言葉を続けようとした。
しかし、かがめられた鎧の頭に指先が届き、
そこに空虚な「カツン」という冷たい金属音を自覚した時、
ウィンリィの言葉は声にならなった。
「何?」
アルフォンスは促すように尋ねた。
知りたくないような、知りたいような、相反する気持ちが入り乱れて
アルフォンスを離そうとしない。…不安で。心配で。毎日乾いているから。
だから、欲しい。
それがどんな色をしていようと、どんな匂いをしていようとも。
どうせ、感じ取ることは出来ないのだから。
それは、諦めにも似た感覚だった。
感情に希薄にならなければ、目の前の「現実」は受け入れられなかった。
何事にも動じないようにしながら、波風立てないように、
兄と共に連れ立って旅をしていく。
目の前の幼馴染を置いて。
ウィンリィが泣きそうになっているのを、アルフォンスはしっかり気づいていた。
そして、先ほどから扉の向こうで息を殺すようにして立つ人影の存在も。
しかし、アルフォンスは気づかないフリをしていた。
ウィンリィが涙を堪えている。
何があったのか、アルフォンスには深い事情は分からない。
しかし、自分たちの間にはあの約束が生きている。それは確かだった。
知らないフリをするというルールだ。
アルフォンスはウィンリィを促すように言葉を続けた。
かつて、彼女は自分に言った。どうか、泣かないで、と。
泣けない身体の自分に対して、泣かないで、と言った。
だから、自分も言える。言ってしまう。
「……いいよ。ウィンリィ。泣いて?我慢、しないで?」
…何があったか、教えて?
……泣くのを我慢する彼女に、優しい言葉を掛けてあげる。
だって、僕は「何も知らない」のだから。
知らないから聞ける。ウィンリィが決して言わないだろうということを知りながら。
そして、兄がそこで聞いているということを知りながら。
感覚が無いということは、そういうことなんだ。
そういう、現実なんだ。
だから、感情に希薄にならなければ、目の前の「現実」は受け入れられなかった。
知らないフリして何でも聞いてあげる。
全ては、この関係に波を立てないために。
兄と共にまた、目の前の幼馴染を置いて旅立つために。
それが、あのルールだったはずだ。
そうして、ウィンリィはやっぱり泣かなかった。
その代わりのように、ウィンリィは一言言った。
「空気って、何?」
涙をたたえる目で、ウィンリィが問いかけてくる。
それを、アルフォンスはじっと見守った。
「僕に、聞くこと?」
空気をすえない僕に。
そういう意味じゃない、とウィンリィは首を振った。
もちろん、アルフォンスはウィンリィが昼間のことを言っているのだということくらいわかっていた。
しかし、アルフォンスは言葉を続けた。
「そのまんまの、意味じゃないの?」
ウィンリィが落胆するのが目に見えてよく分かった。
何かを堪えるようにして、ウィンリィはアルフォンスを見上げる。
促すようにアルフォンスは言葉を続けた。
「兄さんが、心配?」
ウィンリィは頷いた。
しかし、それだけじゃないわ、とかすれるように言った。
「アルも、よ」
アルフォンスは鎧の中でため息をついた。
そんなアルフォンスの様子を読み取ったのか、
ウィンリィはさらに続けた。
「心配だから……だから、腹立たしいのよ」
あたしは、怒ってるのよ、泣いてるんじゃなくて、と。
…知りたいのに、分からないから。何も言わないから。
言わないのがルールだと分かっていても。それでも。
震えるように言った言葉は、もう涙が滲んでいた。
涙声で、幼馴染は続けた。
「あたしたちって、何なの?」
ルールに、がんじがらめに足をとられていく。
ウィンリィは、そんな気持ちになっていた。
言えない相手がそこに居るということも知らずにウィンリィは言葉を吐き出した。
「エドも、アルも、…わかんないよ。」
(fin.)
2005.2.27
…まだ途中につき、言えませんが。アルが真っ黒けでスミマセン。(でもそんなアルに私は愛が)
感情を希薄にする、というアルに救いはあるのか、そしてエドとウィンリィの関係について
それがどう絡むか。そういうのが書きたいです。もう少し続きます。
それにしても、これ、エドウィンになってないな…。(ごごめんなさい…!)
⇒「20.不必要」に続きます。よろしければそちらもどうぞ。