75.いつか
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足りない-9



走っている。
ただひたすら、逃れるために。



息切れと動悸で眩暈を覚えていた。
それでも、ウィンリィは走った。
…ついこの間もこんなことをした記憶がある。
あれは、いつだった?
ずっと昔、小さかったあの頃。
追いかけっこをして遊んだあの頃。

世界は広く、追いかけごっこで行き着く果てが見えるほど狭くはない。
それを知らないほどの、何も分からない子どもではもうなくなったのだ。
だから、あの暗黙のルールを作ったはずなのに。

あれは、いつだった?
…そう遠い話じゃない。
あのときは、逆だった。
追いかけていたのはウィンリィで、
追いつかれたのは、エドワードだった。

視界が眩みそうになるのをウィンリィは覚える。
それでも、晴れたリゼンブールの空の下、
人通りの全くない小径をひたすら駆ける。
全てから逃れたくてただ走る。
行き着く果てが見えるほどこの世界が狭く無いのなら、逃れることも可能なはずだ。


それでも、追いつかれるのは本当にあっけなくて。



「つかまえた。」

わずかに息のあがった声に、背後から囚われる。

「はな、して…!」

人気の無いリゼンブールの道のど真ん中で、
ウィンリィは声を荒げた。
背後から掴まれた左手首をねじるようにして
ウィンリィはエドワードから逃れようとする。

「もう、いいよ」
ウィンリィはエドワードの手を振りほどこうとしながら、
掴んで離さない彼の顔をにらみつけた。
その青い目は不安定に揺れていて、
わずかに赤い腫れが伺える。

ウィンリィは今にもこぼれそうになる涙を必死にこらえていた。
…昨日の晩、あれだけ泣いたのに、まだ涙が出ようとしている。
身体の中には涙しかもう残っていないのでは無いかと思えた。
そして、それに相反するように、心は焦燥しきっていた。
胸にぽっかりと落ちる空洞感を、
溢れて止まない涙が埋めてしまえばいいのに。

ウィンリィは、息を切らしながら
向かい合うようにしてやはり息がわずかに上がっているエドワードから目をそむけた。

手は、だがしかし、掴まえられたままだ。
それを揺れ始めた視界の端で確かに確認しながら、
ウィンリィは唇をかみ締めた。

…アルフォンスに泣けば平気だと言ったのは嘘じゃない。
そう思っていた。
きっといつか涙は枯れて出なくなる。
枯らして枯らして、何も感じなくなればいい。
そうすれば枯れた心はきっと何も感じなくなる。
きっと、平気になる。
そうして、また笑って、旅に出る幼馴染達を送り出せるようになる。
そう、思っていた。


それなのに、
終わりにしようと言ったはずの彼が自分の手を掴んでくるのだ。
…まだ、待って。
待って欲しい。
まだ涙が枯れていないのだ。
手放そうと決心した気持ちがまたぐらつく。
このまま誤魔化しながら、
暗黙のルールを貫くのは無理なのだ。
エドワードとアルフォンスにはやることがあって、
ただそれを支えようと決めた。
感情に蓋をすればいい。
揺れる確かな気持ちに蓋をして、
笑って何事もない振りをすればいい。

けれども、昨夜、破綻を受け入れようと心に決めたけれど、
それでも何事も無かったように始まる日常に、
まだ心が追いついていない。整理できていない。
あともう少し、時間があれば全てを受け入れる気持ちになれる。
なれると信じたかった。
そうでないと、耐えられない。

それなのに。
彼が、手を掴んで、離さない。



「終わりにしようって、言ったのは、あんたじゃない」

目をあわせられない。
ウィンリィは悔しくて顔を歪ませた。
なんとかして、こらえたかった。
それでも、溢れてくる。
涙と一緒に溢れてくる。
蓋をしようと決めた、この気持ちが。溢れてくる。

視界はゆるゆると揺れ始め、
繋がった彼と自分の手をただひたすらにらみつけた。
手先に感じられるのは硬く触りなれたあの感触だ。


「…なのに、なんで……っ」


ぽたり、という音はしなかった。
それでも、ゆるやかな丸い形状を描いたそれが、
零れて、吸い込まれるように地に落ちていくのを
ウィンリィは力なく見ているしかなかった。


「なんで…、そんなコト、言う、のよ…っ!」


エドワードは、
自分が掴んでいる手とは別の片方の手で顔を半分覆うウィンリィを
唇を噛みながら見つめた。
先ほどは強い抵抗を見せた彼女だったが、
ふりほどこうと躍起になっていた手はつないだまま力を失い、
だらりと垂れている。
放せば、終わりだと、エドワードはそう思った。
そう、アルフォンスの言う通りなのだ。
自分は、まだ、何もしていない。


「だから、言ったろ。……空気だって」

エドワードの言葉にウィンリィは激しく首を振った。
駄々をこねる子供のように、分からないと涙声を発しながら。
空気って何、と訊いても応えてくれなかったエドワード。
そして、「そんなコト」を言う理由が「空気」だからだと言う。

「アルが」

エドワードは言葉を選びながら
ウィンリィの手をさらに強く握り締める。
そうしないと、また逃げられそうで。
…ああ、違うな、とエドワードは思い直す。
逃げていたの自分のほうだ、と。

目の前の彼女が好きで、だから抱いた。
けれどそれを悟られないように、
知らないフリをしようと、お互いにルールを決めた。
知らないフリをしなければ、
身体の無いアルフォンスを差し置いて、
彼女と全てを感じあったことに対する罪悪感から逃れられないと思った。
そう、逃れられない、と。そう思ったのだ。思ってしまっていたのだ。


「アルが、お前を泣かすなって」

片手で顔を覆っていたウィンリィの肩がぴくりと大きく震える。

「だから、泣くな」


だからって、何よ、とウィンリィは手のひらの中で
さらに顔を歪ませた。

「無理よ」
ウィンリィは小さく言った。

最初は小さな疑問だった。
エドワードが言った、空気ということば。
それが、始まりだった。
いや、違う、とウィンリィは自分の思考を打ち消す。
最初から無理があったのだ。
感情を自覚しなければよかった。
最初から、選ばなければよかったのだ。
でも自分の気持ちに嘘がつけなかった。
罪悪感に震えながら、キスを交わした。ついこの間のことだ。
それが、始まり。

嘘をつけなかった罰は、
その後塗り重ねるようにたくさんの嘘を重ねるという形で帰ってきている。
嘘をついて、誤魔化して、
心が焦燥していく。
それでも、身体は目の前の彼を感じていたくて。

アルフォンスが泣くなと言っても無理な話なのだ。
ウィンリィは止まらない涙を憎く思った。
…アルフォンスを前にしたら、自分は泣くことしか出来ないのだから。
それなのに、そのアルフォンスがエドワードに、自分を泣かせるなと言ったという。

エドワードは声もなく
ただウィンリィの手を握ったまま立ち尽くしていた。
何から言えばいいか分からない。
いや、言った言葉は彼女に拒否されてしまった。
どうすれば拒絶されずに済む?
どうすれば泣かせずに済む?

知らないフリをし続けるのは無理だと思った。
だから関係を元に戻せば、彼女を泣かせずに済むのではと思った。
自分さえ我慢すれば、いいと。
だから、拒絶した。終わりにしようと、そう言った。
そうしたら、やっぱり彼女は泣いてしまう。
一度拒絶したのは自分のほうなのだ。
今彼女が拒絶するのは仕方無いことだった。
だが、それでも、身勝手といわれても、
やっぱり誤魔化しようのない気持ちはどうしようもなく先行する。
自分の馬鹿さ加減が、全てが嫌だった。
同じところで右往左往しているのだ。
どうしようもなく気持ちが止められなくて、

約束も何もできないくせに独占欲だけは一人前に先行する。
それは無意識のうちに自分の中をずっと支配していて、
彼女に不必要な心配をかけてしまう。
お互いに疑心暗鬼で、空回りしている気がして、
気持ちがどんどん迷走していく。
それでも日常は変わらぬ顔をしてやってくるから、
誤魔化し続けるしか無いと思っていた。
でも、そうじゃない、逆なんだ、と。
今ようやく頭の中で理解し始めている。
アルフォンスが自分を叱咤するように言ったことば。
それに励まされるように、
エドワードは言葉を巡らせる。


「アルが、言ってた。
お前が、人間なんだって言ってくれたって。」
ウィンリィが欲しいものを与えてくれる、と。
だから、自分は平気なのだと。

「だから、そんなお前が泣くのは、
……泣かせるのは、許せないって。
誤魔化す必要なんか無いって」

エドワードは、顔を覆いながら泣くウィンリィの震える肩を見つめる。
どうすればいいか分からない。本当のことを言うと。
いますぐ彼女を抱き寄せて、きつく抱いて、
涙が止まるまで許しを請いたかった。
自分はいつも彼女に与えられてばかりで、何もしていない。

「努力する」
お前が泣かないよう、努力する。
だから、泣かないで。
泣かないように、オレが出来ることをする。

エドワードはもう一度、先ほど拒絶された言葉を言う。
「だから、言って」
どうしたらいいか。

ウィンリィは不意に顔を覆っていた手をおろした。
涙がぼろぼろ溢れている目をそのままに、
エドワードをきっとにらみつけた。


「あたしは言ったじゃない。
何も言わないのはあんたのほうよ!」

はっきり言ってくれないのはエドワードのほうなのだ。
ウィンリィは確かめたかっただけなのだ。
けれども、エドワードは昨晩答えをくれなかった。
どっちなのか、言ってくれなかった。
「答えは逆」とただそれだけ。
何が逆なの?
あたしとは逆ということなの?
それが分からない。
ハッキリ言わないのはエドワードのほうなのだ。



「……空気って何」
「え」

ウィンリィは顔を歪ませながら、
エドワードを睨むように見つめた。

「教えて。空気って何」

言って。
知りたいのはただそれだけ。
確認しても、何度確認しても足りないのだ。
言ってくれないと、どんどん疑心暗鬼になっていく。
確かな約束なんてしなくていいから。
ただ言って。ハッキリと。
キスをしても肌を合わせても、
何度確認しても足りないの。だから。

「あたしが空気って、何?」


同じくらいの高さで、
エドワードとウィンリィの視線が重なる。
ウィンリィは促すように言葉を継いだ。
泣かせない努力をするんでしょ、と。


エドワードはわずかに息を呑んだ。
何度だって言っているのに、どうして彼女が分かろうとしないのか
理解出来ない。
空気は、空気であって、それ以上もそれ以下でも無い。

「空気っていうのは…」

ウィンリィの青い目が、淡々と揺れてこちらを見つめている。
それを見て、エドワードはぐっと心に決める。

「…………だから、もののたとえで…」
「……」
「……無いと困るもので」
「……」
「…生きて、いけなくて」
「……」
「大切なもの、で」
「……」

空気。
無色無臭の空気。だけど、こんなに存在感がある。無いと生きていけない。
それほどまでに思わせるような、そんな存在。
無意識にも意識している。
そんな、逆説が、身体の中を支配している。まるで空気のように身体を巡っている。

つまり。

畜生、と心の中で毒づきながら、
エドワードはようやく吐き出す。

「…すきなんだよ……バカやろ!」



顔が赤くなるのを、自覚していた。
そして、目の前の彼女の顔が紅潮していくのを間近で見ていた。


「………なぁんで……」
エドワードは苦虫を潰したように顔を歪ませた。
意味が分からない、と心の中で頭を抱えながら。


「…なんでさらに泣くんだよ!お前は!」


紅潮したウィンリィの頬を濡らすように、
いくつもの丸い粒がどんどん溢れ零れていく。

いたたまれなくなって、
エドワードはウィンリィを抱き寄せた。
抱き寄せれば、しがみつくように
ウィンリィが自分の身体に腕を回してくる。
それに応えるように、エドワードもまた
さらに強く、ウィンリィを抱きしめた。
それに伴うようにして、身体の中を言いようのない充足感が満ちていく。


自分には右腕が無い。左足が無い。
弟には、身体が無い。
足りないそれを求めるために、旅に出ている。
前に進むために足りない手と足をくれたのは、腕の中にいる彼女だ。
弟に、人間だという言葉を与えてくれたのも、彼女だ。
…じゃあ、目の前の彼女に足りないものは。

自分達には、足りないものがある。
足りないから、だから、求めている。
そして、足りないから、与えられている。
互いの存在がどうしようもなく大切で、
だから、その存在そのものが与えあっていて。
足りないものを補いあっていて。


「嬉しい」

涙声で、ぽつりと言葉が落ちた。


エドワードは少しばかり目を丸くする。
思わず、
抱きしめた彼女の顔を覗き込もうとした。
しかし、ウィンリィは頬をこすりつけるように
エドワードの肩口に顔を伏せたままだ。
伏せたまま、もう一度嬉しい、という。

ウィンリィは、涙が止まらなかった。
止まらないと思った。
先ほどまで流していたそれとは、種類が違う。
焦燥を覚えていた心の中が、
種類の違うその涙で潤っていくような、そんな気持ちになっていた。
涙を枯らすしか無いと思っていたのに。


「もう一度」

「え」

ウィンリィは伏せていた顔をようやくあげる。
道の真ん中で、
二人して抱き合っていたが、構わなかった。
「もう一度、言って?」

げ、という風にエドワードの顔がさらに赤くなる。

「…あたしが泣かないように、努力するんでしょ」

涙で顔はぐちゃぐちゃになっている。
見られるのは恥ずかしかったけれど、与えられたその言葉の響きには負けていた。

しばし躊躇した彼は、
それでも彼女の努力するんでしょ、という言葉に押されたのか、
ぐっと唇を噛む。
顔は赤いままだ。

言われた後に、ウィンリィはぽつりと言った。

「…あたし、もらってばかりだ」
「は…?」

エドワードは首をかしげた。
ウィンリィは涙を払いながら、だってね、という。

…アルフォンスからはエドワードの手を放さないで背中を押された。
欲しくてたまらなかった空気の答えはエドワードから与えられて。


「もらってばかりなんだよ」

違うよ、とエドワードはウィンリィの言葉を打ち消した。

「それは、逆」

え、とウィンリィは分からない、という風に瞳を揺らせた。
その瞳にはまだ涙が光っている。

足りないから補い合える。
与え合える。
いつか、全てを手に入れるまで。
それまでは。


「もらってばかりいるのは、オレも同じだ」
アルフォンスもそう言っていた。
だけれど、それだけじゃない。


気づかせてくれたのはアルフォンスだ。
しかし、アルフォンスは目の前の彼女のおかげだと言っていた。
つまり、三人して同じことを願っている。
お互いに、お互いのことを。
いつか、それが叶えばいい。叶えたい。
だから、それまでは、
彼女を待たせてしまうことになるけれど、
そして待っててとはやっぱりいえないのだけれど。

いつかやってくる「いつか」のために、
自分に出来ることは前に進むことなのだ。


「そう。…逆」
全ては背中合わせの逆説。
だからこそ、
足りないものを与えたい。


「…キス、していい?」
唐突な言葉に、
ウィンリィは、え、と目をわずかに見開く。
「泣き止むまで。…努力する」
「あ、ちょっと…」

ウィンリィは思わず目を閉じる。
閉じた瞼から、やはり涙は粒を作って零れた。
しかし、与えられたそれが嬉しくて、
涙が止まらなければいいとさえ思う。
もらえるとは思っていなかった言葉をもらって、
それでも心は貪欲だ。
もっともっとと欲しくなる。まだ足りない。

唇を離したら、
やっぱりまた欲しくなる。

「もう一度」

ちょうだい、とウィンリィが言えば、
応えるようにエドワードはまたキスをする。


触れたところからじわじわと侵食するように広がっていくものは、
リゼンブールの陽気にも似た
陽だまり色の充足感だった。


<fin>




2005.6.1

…「足りない」連載終了です。お付き合いくださり有難う御座いました。お互いに大切な存在で在るというのは、つまるところ計算無しに与えたり与えられたりっていう関係で、計算無しだからこそ誤解や疑心暗鬼が生じていて…というのをぐるぐると書きたかったのでしたが、あんまりうまくいかなかったと反省…。


長くなってしまったので、後書きはコチラ





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