足りない-8
ウィンリィは兄さんを手放したよ。
…弟がそう言った。
その中身を、字面の通りには理解しているつもりだった。
だってそうだろう。
エドワードは彼女が消えた入口を、声もなく見つめていた。
その無意味さに気づくのに、時間を要した。
それほどに、落ちてきたそのそっけない日常に、一番衝撃を受けていた。
…理解しているつもりだった。
だって、先に手を放したのは自分のほうなのだから。
落胆する資格さえ無い。
彼女の顔を見れば、彼女が昨日どんな状態だったのかはすぐに分かる。
泣かせるつもりは無い。
でも何をしても彼女は泣くのだ。
じゃあ、どうすればいい。どうすれば泣かせずに済む。
「誤魔化す必要は、無いんだよ」
アルフォンスの声が追い討ちをかけるように繰り返される。
エドワードは、ウィンリィの姿の無くなった部屋の入口から、
正面の弟に視線を移した。
鎧姿の弟は、座ったまま自分を見あげるようにして視線を投げてくる。
…オレのせいだ。そう思った。
その鎧姿の弟を、人間だと、疑ったことは無い。
だけれど、人間だと自分が思い込むことで
自分の罪の意識から逃れようとしているときが、
あるんじゃないかと思うときがある。
そこにある現実は、冷たい鎧の現実は、
自分が代わってやろうにも叶わないことだった。
どうあがいても、そこにある現実は、悲惨なのだと。
目の前には、あの禁忌を犯す前の弟の面影はどこにも無いのだ。
足りない体を取り戻すのは、だから自分の責任だった。
けれど、協力してくれた彼女が居なかったら、前に進むことは出来なかった。
代わりに泣いてあげると言ってくれた彼女が、好きで。
それが誤魔化せなかった。
感情より先に身体が動いていた。
あのとき。
数ヶ月前、ウィンリィから逃げた。
追いかけてきた彼女は自分を「つかまえた」と言った。
それが逆なのだと、痛いほどに分かっていた。
つかまったのは彼女のほうで、
彼女を縛ることになるのは最初からわかっていたのだ。
それを知った上で、彼女を抱いた。
間違いだったとは思いたくない。
それでも、知らないフリをしながら続ける関係は歪を生んで
続けるべきじゃないと思った。
彼女があんなに泣くのなら。
弟があんな嘘をつくのなら。
好きだという気持ちに蓋をすればいい。
感覚に曖昧になればいい。
「兄さん」
責めるように見上げてくる弟を、
エドワードは表情を歪ませながら見返した。
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
エドワードは自棄になったように、言葉を吐き捨てる。
いつものように何事もなかったかのように始まった一日。
何事も無かったように繰り返され始めた日常が、
自分には覚える資格も無い感覚を落としていく。
胸に落ちてくるこの落胆は、
自分が手放したものの大きさを教えてくれる。
自分は与えられてばかりなのだ。
彼女は前に進むための手と足を与えてくれた。
弟は自分を責めようとしない。
身体が残っている自分を、弟は羨むわけでもなく、
彼女を求める誤魔化しようのない気持ちを抱える自分を今許そうとさえしてくれている。
与えられてばかりではなくて、与えたいのだ。
だから、感覚に曖昧になろうと思うのに、
それなのに、当の弟からそれを邪魔される。
「あいつが泣く原因はオレだよ。オレが全部悪い。
こんな関係…間違ってるなら、オレはもういい」
言いながらも、出来るのか?という問答が既に落ちてくる。
我慢なんか、出来るのか。
そんなエドワードの言葉を振り払うように
兄さんは勘違いしてるよ、とアルフォンスは言葉を返す。
「勘違い?」
何がだ、とエドワードは苛々してくる。
アルフォンスはそんな兄を見ながら
容赦なく言葉を放った。
「我慢することと与えることは一緒じゃない」
エドワードはぴくと表情を振るわせる。
弟に、考えを全て見透かされている。そう思った。
「兄さんは「元」に戻したつもりだろけれど、
元になんか戻れるわけが無いんだ。
我慢して、何かを変えたつもり?」
逆だよ、とアルフォンスは言葉を吐き捨てる。
「兄さんもウィンリィも嘘ばかりついてる。
我慢して萎縮して、招いた結果がこれだろ」
本当は、とアルフォンスは言いながら
苦い思いが落ちるのを自覚している。
…本当は、こんなことを言うべきじゃない。
自分が言うべきじゃないのだ。
この二人がこういう結果を選んだ元々の原因は自分にあるのだから。
でも、とアルフォンスは心の中で思い直す。
昨夜のウィンリィの言葉に押されるように。
「僕も、最初はそうすべきだと思ったんだ」
「……」
エドワードは何も言わずに、弟を睨むように見つめた。
「僕も、最初は。
最初は、知らないフリをするのが一番だと思った」
感情に希薄になって、感覚を曖昧に薄めながら現実を受容する。
何も知らないフリをして、前に進めばいいと思った。
「でもね、空っぽだと思っていた自分に、
ウィンリィがそうじゃないって言ってくれて。
僕には感情がある。僕は人間なんだって、ウィンリィが言ってくれたんだ」
エドワードの目が、少し驚いたように見開かれるのを、
アルフォンスは確認する。
…そう。欲しかった。足りなかった存在証明を、
人間であることの証明を、彼女が与えてくれる。言ってくれる。
だから、そんなウィンリィが泣いているのを、
無感覚じゃない自分は見過ごせない。
与えられるばかりじゃなくて、与えたい。何かしてあげたい。
そんな感情が、やっぱり自分を人間なのだと教えてくれるのだ。
それを示してくれた幼馴染を、だからこのまま泣かせたくない。
だから、自分が出来ることは。
「だから、ウィンリィを泣かせる兄さんは嫌いだ」
沈黙が落ちた。
エドワードは、額にゆっくりと手をあてる。
ふぅ、と落ちたため息は、少し震えていた。
「…アル。」
「何」
「前も、言ったけど」
「………」
「オレにとっては、どっちも大切なんだ」
アルフォンスは頷いた。
それを疑ったことは、無い。
アルフォンスの望みは明確だった。
兄の望み。自分の望み。そして、ウィンリィの望み。
それが、どうにかして叶うことを望みたい。
「分かってる」
分かってるから、心配しないで。
しかしエドワードは首を振る。
アルフォンスは額に手をあてたまま表情を隠すようにして
窓に腰掛けるエドワードに、言葉を投げる。
「それを言ったら、僕も一緒なんだ。
僕にとっても、兄さんもウィンリィも大切で」
だから、願いたい。
「そういう意味じゃなくて」
エドワードは言葉を続けようとした。
このまま弟の言うように自分に素直になれば、
それだけでまた罪悪感にさいなまれる。
身体のある自分が、身体の無い弟には出来ないことを受容する。
禁忌を犯した上に、のしかかってくる罪悪感だ。
しかし、エドワードの言葉はさえぎられた。
アルフォンスは分かっている、という風に手をあげて、
エドワードの言葉を遮断する。
「…大切だから、だから二人が泣くのは見たくない」
エドワードは言葉に詰まって、
弟を真っ直ぐに見返した。
「…………オレ、泣いてないぞ」
アルフォンスは鎧の頭を横に振った。
「泣くのを見るのは辛い。兄さんだって一緒だろ。
僕に遠慮してるって言うのなら、
僕が辛くないように兄さんは泣かない努力をすべきだよ」
だから、泣いてないだろ…とエドワードは言いよどんだが、
アルフォンスはなおも首を振った。
「そして、ウィンリィが泣かないように努力すべきなんだ」
そう、願うのは、
自分にたくさんのものを与えてくれる二人の最上の幸せ。
それだけなんだ、とアルフォンスは空の鎧の中で思う。
思うだけで、何かがその空洞の中をうめていってくれる気がした。
からっぽで、いつも何かが足りなくて、
欲していたもの。
今確かに自分をひたひたに満たしていくこの感覚は、
以前まで感じていた空虚な涙なんかじゃない。
願うことが、ただ幸せで。
なんだか言ってることがむちゃくちゃだぞ、と
エドワードはぐしゃぐしゃと頭を掻いた。
「むちゃくちゃなんかじゃないよ」
すっぱりとアルフォンスは言い切る。
それを聞いて、
エドワードはそれでもなお、煮え切らないように視線を宙に迷わせた。
「泣かせない努力ったって…」
エドワードは何かに思い至ったように、
苦い表情を浮かべる。
「…何やっても、あいつは泣くよ」
ぽつんと落とした言葉には、力強い否定の言葉が返ってくる。
「違うよ」
アルフォンスは真っ直ぐに兄を見て、言い放った。
「兄さんは、まだ何もしていない」
エドワードの目が見開く。
見開いた金色の瞳は、真っ直ぐにアルフォンスに注がれた。
宙でかちりと音を立てて、二人の視線がかみ合う。
あのとき。
…追いかけてきたのは彼女だった。
つかまえたといったのは彼女だった。
前に進むために必要なものを与えたのも彼女だった。
何もしていない。
言われてみれば、とエドワードは衝撃で言葉を失った。
追い討ちをかけるようにアルフォンスは言う。
「何も、していないよ。兄さんは」
だから。
アルフォンスが言葉を続けようとする前に、
エドワードは立ち上がった。
アルフォンスが見上げれば、兄の顔はわずかに赤い。
「…オレ、馬鹿だ」
ぽつんとエドワードは呟いた。
与えたつもりが、やっぱり与えられている。
エドワードはアルフォンスの側を通り過ぎ、
部屋の入口へと足早に歩を向ける。
そして、ハタと思い返したように、入口のところで
アルフォンスを振り返った。
アルフォンスもまた、エドワードのほうを向く。
それでいいのか、とアルフォンスは先ほど問うた。
じゃあ、とエドワードは思い至る。
「…お前は、それでいいの?」
どうしたことか、
その時、アルフォンスが笑っているような気が、エドワードにはした。
アルフォンスは否定も肯定の言葉も発さない。
ただ、一言、その言葉を落とした。
エドワードは少し目を丸くして、
思わず自分のポケットにいつも仕舞われているあの時計に気をやる。
その言葉は、かつて自分に対して戒めの意味を込めて刻んだ言葉。
「僕にも空気は必要だよ。
…今はそうじゃなくても。いつか。
今は足りないけど、だからこそ」
足りないものを求めて前に進む。
足りないゆえに幼馴染から与えられた証明を胸に暖めながら。
「前に進むって決めた。…兄さんもだろ」
エドワードは鎧の頭から投げてよこされる強い視線を
真っ直ぐに受け止める。
そして、小さく頷いて、部屋を出た。
ひとり部屋に残されたアルフォンスは、
兄の消えた入口に目をやってから、
やれやれ、という風に立ち上がる。
鎧を軋ませながら立ち上がり、
兄が腰掛けていた窓辺に近づいた。
すっかり高くなった太陽の光が、
陽だまりをつくって、窓の桟を淡く暖めている。
零れる陽の光に手をかざしてみた。
暖かさを感じることはなくても、
自分の中で埋めようが無いと思われた空白をひたひたと満たしていくもの。
それをじわじわと感じながら、
ふと窓の外に目を移す。
窓の下の庭先。
先ほどまでこの部屋にいた兄と、そして、幼馴染の姿がある。
何か会話を交わしているのが、アルフォンスには分かったが、
内容までは聞き取れない。
僕に出来るのはここまでだ。
アルフォンスは眼下でふわふわと踊るように揺れるハニィブロンドを声もなく見つめた。
ウィンリィは泣けば自分は平気だと言っていた。
でも、とアルフォンスは思う。
平気なわけが無い。
そして、兄さんが平気なわけが無いんだ。
「僕も、何かしてあげられたかな」
二人が何かを話している。
あまりいい雰囲気じゃないのは、遠目でもよく分かった。
知らない、という怒鳴り声が遠くに小さく聴こえた。
それと同時に、ロックベルの庭から、そして兄から、
逃げるように駆け出す幼馴染。
そして、それを追いかけるように走る兄。
それを全て、アルフォンスは見ていた。
無力感でも空虚感でもなく、
陽だまり色の充足感で自分の気持ちが一杯になるのを覚えながら。
2005.5.18
…次回で終わり、だと思います。
意味が分かりにくい、という方は「トライアングル」を読めば、しっくり、くるでしょか…。