35.日常
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足りない−7



何事も無かったかのように、朝は来る。



エドワードはぼんやりと朝日の射す窓辺に寄りかかっている。
顔は、窓の外へと向けたままだ。
その表情は、光に溶けて見えない。
力なく垂れた手の中には開かれた本があったが、
頁をめくる音は聞こえることは無かった。
そんな兄を、アルフォンスは何も言わずに見ていた。
朝が来たというのに、
部屋には、静寂だけがどこまでも横たわっている。

エドワードは結局、眠らなかった。

一言も言葉を交わさずに、夜は更けた。
一睡もしていない兄が、アルフォンスは心配だったが、
声はかけられなかった。

触れていいのか、分からない。

昨夜、目の前でやりとりされた
兄とウィンリィの会話を反芻して、
アルフォンスはやりきれない気持ちになっていた。

『手放さないで』
そう言ったけれど、彼女ははっきりと意思表示したからだ。
無理よ、と。

破綻したんだ。

それだけは、分かった。


何も言わずに部屋から出て行く兄を追うこともなく、
ただ黙ってウィンリィは俯いていた。
彼女の身体は小刻みに震えていた。
そして、
失望を落とした彼女の側に立ち尽くしたアルフォンスを襲ったのは、
形容しがたい欠落感だった。

部屋に戻ってベッドに腰掛けて、
少し離れたところから、兄を見ていた。
兄は眠ろうとしなかった。
アルフォンスはそれを見つめながら、
やはり言いようのない欠落感に支配されている。

…こんなのを、望んでいたのか?

空の鎧の中に落ちたのは、一点の問いだ。

『もう終わりにしよう』
そう言った兄は、元に戻したつもりなのかもしれない。
ウィンリィとのことを戻して、
何もなかった頃に戻したつもりなのかもしれない。

けれど、それで本当によかったのか?
「元」に戻ったのか?




「夜って、長いんだな」


唐突に、声が落ちた。
え? と思考をめぐらせていたアルフォンスは聞き返す。
光の先に溶けるようにして窓辺に腰を下ろすエドワードは、
視線はそのままに、言葉を繰り返す。
長いな、と。

「オレ、ぱっと寝て、ぱっと起きてて。
まぁ、徹夜することはあったけど。
…何もしない夜がこんな長いなんて、な」

兄が何を言いたいのかなんとなく分かって、
アルフォンスは言葉を継げないでいると、
間が悪いと思ったのか、
兄はさらに言葉を続ける。
視線は、外に向けられたままだ。

「…あいつ、さ」
「……」
あいつ、が誰かは、言わなくてもアルフォンスにはよく分かった。
わずかに俯いた兄の表情がようやく光の加減で垣間見えて、
その金の目がわずかに伏せられるのが分かる。
迷うように、エドワードは口を開く。

「…あいつ。何しても泣くんだよ。」
エドワードはわずかに眉をしかめた。
そう、泣くんだ。泣かせてしまうんだ。
質問にもちゃんと答えた。
なのに不満そうな顔して。
これ以上何を言えばいい。
あれ以外に答えは無いのだ。
あれ以上でもあれ以下でもない。あれが、最大のことば。

「ムカつくんだ。…付き合いきれねー」
そう言いながら、違う、と頭の中では別のことをエドワードは考えている。

あのとき、捕まえた、と言いながら、本当は自分に捕まえられたのは彼女の方。
ムカつくのは…我慢ならないのは、あいつじゃなくて、自分に対してだ。
弟に対して抱く罪悪も何かも、
分かった上であいつを抱いたはずなのに。
手放した。
手放すべきだと思った。
なのに、煮え切らない。
エドワードは右手で拳をつくる。
そこに、朝の光を弾く鋼の手がある。
…それでも、彼女と繋がっている。手放しても、手放せない。
もう、終わり。そう言ったのに。

そのとき、アルフォンスの言葉が落ちてきた。
本当に、それでいいの?と。

エドワードは顔をあげて、初めて弟に視線を向けた。
その疲れたような表情を確認しながら、
アルフォンスは、いいわけないよね、と言った。
「いいはずが、ないよ」
弟の声がわずかに震えている。
エドワードは怪訝そうに首をかしげる。
「…アル…?」
アルフォンスは、そんなエドワードをまっすぐに
鎧の中から見返しながら、言葉を継ぐ。
ウィンリィは、兄さんを手放したよ、と。

エドワードは一瞬、表情を詰まらせる。
眉間の皺をさらに深く刻ませながら、
エドワードは目を反らした。
反らしながら、言ってることがわからねぇよ、と小さくつぶやく。

「そのまんまの意味だよ」

その言葉にエドワードはアルフォンスを見る。

「本当に、いいの?」

まっすぐに見つめてくるアルフォンスを、
エドワードは見返した。
鎧の弟には表情はない。その代わり、声がすべてを語る。

「兄さんは、本当にそれでいいの?」

その声は怒気は含んではいないけれども、
どこか力強い響きが籠もっていた。

「何の話か、分からないんだけど」
エドワードはアルフォンスをにらむように一瞥した。
もう、言うな、とその目が言外に語っている。
そう、兄は分かっているのだ、とアルフォンスは確信を得る。
僕らは暗黙のルールを作った。
何も言わない。何も知らない。
知っていても知らない振りをする。
それが大人になることなんだと思っているから。
でも、ウィンリィは兄を手放した。もう無理だと言った。
兄もまた、手放そうとしている。
いいわけがない。兄が彼女を「空気」になぞらえたのなら、なおさら。

「もう、知らないフリはいいよ」
アルフォンスの声は震えている。
「僕、知ってるから。だから、知らないフリはもういいよ」
何をだよ、とエドワードはさらに不機嫌そうに顔をしかめる。
窓辺に傾けていた身体を起こして、
エドワードは身体をまっすぐにアルフォンスの方へと向けた。
「何、知ってるって?」
兄の言葉とは裏腹に、その目は何も言うなと言っている気がした。
しかし、アルフォンスは構わなかった。
「ウィンリィは、兄さんと戒めを共有してるって言ってた」
「……」
「何のことかは知らない。でも、確かにそういっていたんだ。
だから、僕ともヒミツを共有しようって言ったんだ」
「……ヒミツって?」
一息の間を置いてから、アルフォンスは吐き出す。
かつて、ウィンリィと約束したこと。

「……兄さんとウィンリィのことを知ってても知らないフリするって」
「…なんで」
エドワードは驚かない。
少なくともアルフォンスにはそう見えた。
兄は淡々と自分を見返してくる。
アルフォンスはわずかに言葉を濁した。
兄が理由を聞いてくる。
理由?そんなの、自分がワガママだからだ、
とアルフォンスは言葉を継げずにうつむいた。

…兄さんがウィンリィを好きで、
ウィンリィが兄さんを好きで、
それを知りながら、でもウィンリィから兄さんを取り上げてること。
そして、それが兄さんからウィンリィを取り上げてることになるってことを。
身体が無い僕に、未来は無いように思えた。
けれども、それでも前に進むために兄は銀時計を手に入れて、
そんな兄のために、ウィンリィが兄に手足を与えてくれた。
すべてを取り戻すために前に進む。兄さんと僕の約束のために。

…それなのに、ウィンリィが泣いている。

「ねぇ、兄さん。ウィンリィが泣いてたんだ」
目の前の兄が、わずかに表情を曇らせるのを
アルフォンスは見逃さない。

「泣きながら、平気だよって言うんだよ……」

…感情を希薄にして生きていくしかないと
そう、アルフォンスは思っていた。
何もかも曖昧になって、目を背ける。知らないフリをする。
そうでないと、この現実を受け入れられない。
「冷たい」も「熱い」も、分からないことが自分の現実で、それは今も変わらない。
アルフォンスにもそれは分かっている。
でも、自分は無感覚じゃないことを教えてくれる人がいる。
自分のことを人間だと言ってくれる人がいる。
それを知って、空っぽのこの身体から溢れてくるのは
魂にも似た熱い感情。
それは、自分がここにいるということの証明だった。
足りなくて、渇いていて、どうしても欲しかったもの。

なのに、その証明をくれる彼女が泣いている。


至上の幸せを与える彼女が泣いていて、
こんなに哀しいことがあるだろうか。


「ウィンリィも兄さんも……馬鹿だよ!」


アルフォンスは声を上げた。
エドワードはそんないつものアルフォンスらしからぬ剣幕に目を丸くする。

アルフォンスは構わずに言葉を続けた。僕も、大馬鹿だ、と。
そして、エドワードを詰るように言葉を投げる。

「僕に気を遣ってるつもり?
そんなの、ホントは嬉しくないんだよ。
嘘ばっかりついて!」

アルフォンスは鎧の中で言葉を巡らせる。
言いたいことが溢れてくる。
何も無いはずのこの身体から。
何も無いはずのところから、気持ちが溢れてくる。
何も無いところから何かが生まれるはずはない。
無から有は生み出せない。
自分たちが使っている錬金術の教えがそうだったはずだ。
僕はここにいる。確かにここにいて、
誰かの幸せを願える。願いたい。それが幸せだっていうことを
感じ取れる魂がある。
すべては、自分を人間だと言ってくれる人のおかげなんだ。
だから、今はまだ足りなくても、
いつか取り戻したいと思える。だから、前に進める。

だから、今確かに思うことは、
幼馴染に泣いて欲しくないってことだけだ。

答えが溢れてくる。
「だから」が溢れてくる。
そこに、理由があった。

「誤魔化す必要も何もないんだよ」

アルフォンスは言いながら思考を巡らせる。

…たとえば、夜はとてつもなく長い。
それでもやり過ごせたのは、兄の寝息を数えていたから。
今日、兄は眠らなかった。
僕が眠らないのは、眠れる体が無いからだ。
今はまだ無い。でも取り戻すために前に進む。
兄は違う。今もある。
食事も、睡眠も、必要なんだ。そして、空気も。

アルフォンスはさらに声を張り上げた。

「兄さんにとって、ウィンリィは空気なんだろ?」

…空気が無くて、生きていけるの?
生きていけるわけが、無いじゃないか。
空気がいらないっていうことは、自分を殺すことだ。
兄が自分を殺すところを見て、気持ちがいいわけがない。
だったら、止めるべきだ。
彼女を手放さないでと。それが僕の願いなんだ。

アルフォンスが、そう言おうとした矢先だった。


やめて、という声が小さく落ちてきた。


目の前の兄が、わずかに息を飲んで、
自分のさらに背後の扉のほうへと目を向けたのをアルフォンスは見留めた。

ゆっくりと振り返れば、彼女がいる。


エドワードは、真正面からウィンリィを見た。
ウィンリィもまた、エドワードをまっすぐに見返す。
二人の視線の間に、アルフォンスは居た。


「ふたりとも…」

ウィンリィはゆっくりと口を開いた。
しかし、彼女の唇は、まったくいつもと変わらなかった。

ウィンリィは言った。朝ご飯よ、と。
いつも通りの口調だった。

ただひとつ、違うことは、
彼女の目元がとんでもなく赤く腫れていたということ。

それだけを告げて、彼女はふらりと部屋の入り口から消える。
はやく来てね、と言い残して。


ウィンリィが消えた部屋の出口を、エドワードは声も無く見つめた。
胸に落ちてくるのは、ただひたすらに、落胆だった。
彼女が、あまりにいつも通りだったから。
あまりにもそっけない表情をした日常が落ちてくる。
それに、落胆していた。
落胆している自分に、エドワードは驚いていた。
…落胆する資格も何もない。それなのに、求めてる。
そんな自分に、腹が立ってきた。

そして、そんなエドワードを、アルフォンスは見ていた。


何事も無かったかのように、朝は来た。




(fin.)







2005.3.30
あと二話。もう少しアルの心理描写を掘り下げたかった…。(て、もう反省し始めてますよ…。まだ続きます)



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