20.不必要
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足りない-5




言ってしまってから、言わなければ良かったと思っても、もう遅い。
いつからだろう。
昔は何の気兼ねもなく、何でも言えたような気がするのは錯覚だろうか。

きっと、選んでしまったからだ、とウィンリィは思った。

感情を自覚しなければ良かった。
でも、蓋をしても、心の奥底では揺れるような気持ちを自覚している。
ただひたすらに、希求している。
ウィンリィはアルを見上げながら、唇を噛んだ。
…人を好きになることはこんなにも簡単なのに、
簡単に恋に堕ちることが出来るのに、
愛し続けることはこんなに難しいものなの?
猜疑心に踊らされて、自分の立っている場所が崩れ落ちそうな気持ちになる。
自信が無かった。
黒い染みのように気持ちを占拠していくのは、
好きなあいつへの猜疑と、
目の前の幼馴染への罪悪と。
それがあふれてくる。ひたひたと音を立てながら、侵食する。

ぽつりと落としてしまった自分の言葉を、
言いながらすでに、ウィンリィは後悔していた。

もう、逃げ場が無い。
ただでさえ、行き場の無い気持ちが心の底から沸き立ってなす術が無いのに、
言わなくていいことを今、こんな場所で、こんな時に言ってどうする?
ぶつけても仕方ないことなのだ。自分でもそれはよく分かっていた。
自分たちが何なのか。
…自分の脇に立つ鎧姿の幼馴染が何も言わなくても、
よく分かっているはずだった。
その関係を維持させるために、約束と秘密を共有したのではないか。
最初はそれで十分だったはずなのに、
揺れる気持ちは際限が無くて、
蓋をした先からどんどんあふれてくる。
零れてしまったそれを必死になって掬って、隠そうとしても無駄なのだ。
零れてしまったら、もう元には戻らない。
そう、零れてしまったら。

「ウィンリィ…」
アルフォンスは顔を覆ったウィンリィに手を伸ばそうとした。
しかし、鎧の腕は途中でパタリとおろされる。
どうせ、触れても暖めることは出来ない。それがアルフォンスにはよく分かっていた。

どうしようか。
鎧の空洞の中で、アルフォンスは一人考え込む。
扉の外には、兄の気配がする。
目の前には「分からないよ」と言い切って泣き出したウィンリィ。

…そこに、「破綻」が見えていた。

アルフォンスは、ウィンリィと兄の間に何があったかは知らないし、
目の前の幼馴染は言おうとはしない。
兄に聞いたところで、きっと何も言おうとはしないだろうし、
自分が聞くのは非常に不自然な気がした。
考えれば考えるほど、そこに無理が出てくる。
知らないフリをする、というのに、無理が出てくる。
いっそのこと、吐き出してしまえばいい。
お互いに、何のあとくされもなく、気持ちを言い合えばいいんだ。
自分のことは気にしないで。
二人が何を悩んでいるかはアルフォンスには分からなかったが、
アルフォンスはなんとなく自分が絡んでいるのではないかと疑っている。
それは常々そうだった。
「空気って何」とウィンリィが尋ねたことで、疑いは確信に変わった。
端から見ていれば、兄もウィンリィもとても分かりやすい。
それなのに、なんでこの二人はここまですれ違うのか、
とそこまで思い至ってから、アルフォンスは気持ちが沈むのを自覚する。
…そうか。やはり、自分のせいなのか、と。
声を殺して泣いているウィンリィを力なく見下ろしながら、
アルフォンスは、投げやりな気持ちになりながら、
もう何もかもぶちまければいいじゃないかと、そう思った。
自分に気兼ねする必要は無い、言ってしまえばいい。
言ってしまった後で、結果として兄を失うことになったとしても。
どうせ、涙は出ないのだから。

だから、アルフォンスはその通りに言ってみた。
言ってしまってから、やっぱりアルフォンスは後悔した。
呆然とした表情で、ウィンリィが自分を見上げてきたからだ。
星明りでも、彼女の顔が涙に濡れているのがよく見えた。
彼女は優しい。
アルフォンスにはよく分かっていた。
だから、自分の言葉に説得性を持たせるために
アルフォンスは言葉を続けた。
「ねぇ、ウィンリィ」
アルフォンスは、洗面器に張られた水に手を浸す。
そして、もう片方の腕をウィンリィの手に伸ばした。
彼女の手首を、洗面器に誘う。
「……冷たい?」
アルフォンスが何を言いたいのか計りかねていたウィンリィは
濡れた瞳をわずかに揺らせながら、小さくうなずく。
「…そう。」
アルフォンスは、実際には笑うことなんて出来ないとは分かっていたが
気持ちの上では精一杯の笑顔をたたえたつもりで、
ゆっくりと言葉を紡いだ。
それが、自分に出来る精一杯のことだと思った。
今だけ、体が無いことを感謝していた。
もう自分は子供じゃない。みっともないじゃないか。泣いてしまったら。
「僕は大丈夫だよ。大丈夫だから。
この体だから泣くこともしないし。平気なんだ。ホントに。」
ちょうどいいんだよ、とウィンリィを安心させたくてアルフォンスは続ける。
「冷たいとか熱いとか、そういうのも分からないから、
ホントに気にならないんだ。だから、僕に気兼ねなんて必要ないんだよ」
繰り返すようにアルフォンスは言葉を継ぐ。
「そう……。不必要なんだ」

自分には体が無い。何度だって反芻した現実だった。
そう、体の無い自分に「空気」は必要ない。
そして、体の有る二人には、それは必要なんだ。
決定的な違いじゃないか、とアルフォンスはひっそりと自嘲していた。
…僕はやさしくなんかない。
だから、約束と秘密を、彼女と共有した。ほんの少し前のことだ。
けれども、それが破綻しようとしている。
兄と一緒に旅を続けるには、必要な関係だと思っていた。
破綻が見えたとしても、もうどうでも良いような気がしていた。
どちらにしろ、兄の気持ちもウィンリィの気持ちもひとつだ。
最初から、決まっている。あの秘密を共有する前から。
得る前から、もう無いのだ。
同じように得たいなんて、欲しているなんて、
体の無い自分にはもう、叫ぶだけ虚しく、哀しいだけだ。
自分は、禁忌を犯したあの日、死ぬはずだったのだから。

少しだけ、空洞の鎧のどこかがぴりりと「痛んだ」ような気がしたが、
アルフォンスは目を逸らそうと思った。
そう、希薄になるだけだ。感情に希薄になり、蓋をする。
感覚にあいまいになって、この現実を直視し受容する。
それが、自分が見てきた世界のはずだった。
いまさら、もう痛むものなんてない。
痛みを感じる体は、とうの昔に失った。
冷たい、熱い、そんな感触も、もう残っていない。
記憶も存在も何もかも不確かだから。


不意に、ウィンリィが声を上げた。
声を殺していた彼女が、声をあげて泣き出した。
どうして、とアルフォンスは戸惑った。
全てを投げ出したのに、どうして彼女は泣く?
まだ、足りないのだろうか。
アルフォンスは思考をめぐらせ、不思議に思う。
何が「足りない」というのだろう。
「ウィンリィ…なんで…?」
どうして、そんなに泣くの?

「ねぇ…ウィンリィ…」
弱ったな、とアルフォンスは成す術なく彼女を見下ろす。
しゃくりあげながら、ウィンリィは必死で言葉を継ごうとした。
それはおかしい、と。不必要なはずが無い、と。
しかし、声が出なかった。
アルフォンスはさらにウィンリィを慰めようと言葉を続けた。
しかし、それはあまり慰めにはならないということに、アルフォンスは気づかない。
「…さっきの質問だって、ウィンリィが聞けば兄さんは答えてくれるよ」
だから、不安がることは何ひとつないよ、と。
「…アル…、ちが、う」
それは違う、とウィンリィは言葉を返そうとした。
彼は、答えてくれなかったの、と。
正確には、「逆だ」と。

しかし、ウィンリィが言葉を継ぐ前に、別の声が部屋に落ちた。
とても静かで、低いその声は、
部屋の扉の前からした。
声は、低く、もういいよ、と言った。

「兄さん…」
「…エド」

戸口に立つエドワードは、後ろ手に部屋の扉を閉める。
ずっと、立ち聞きしていた。
アルフォンスにはバレているだろうな、と
エドワードは何の根拠もなくそう思っていた。
弟は昔からびっくりするほど聡い。

「もう、いいよ」

意味が分からない、という風に、
二人分の視線がエドワードに注がれる。
泣きはらしたウィンリィを、エドワードはじっと見つめた。

「答えはひとつだ」

エドワードはゆっくりと、なぞるように言った。

アルフォンスは首をかしげる。
ウィンリィの瞳が、大きく揺れた。
「お前が、泣くようなことでもなんでもなくて」
吐き出すように、エドワードは低く続ける。
「空気は、空気であって、それ以上でもそれ以下でもなくて…」
戸口に仁王立ちになって、
エドワードは言葉を選ぶようにゆっくりとなぞる。
分からないよ、とそんなエドワードに対してウィンリィは首をわずかに左右に振る。
そして、そんな二人を、アルフォンスは声もなく見比べた。

まさか、自分が考えなしに無意識に放った言葉が、
ここまでややこしいことになるとエドワードは思っていなかった。
それほどに、
自分たちの関係はあやふやでおぼつかなくていびつな形をしている。
でも溢れてくる気持ちはどうやっても変わらなかった。
だから、答えはひとつなのだ。
けれども、とエドワードは目を閉じる。
感覚の無い弟が「平気だよ」と平然と言ってのけた。
そんなはず無いのに。なのに、どうしてそんなことを弟が言うかといえば、
原因は自分にしかない。
弟の前で泣きじゃくるウィンリィの声を、
扉の向こう側から苦い思いでエドワードは聞いていた。
…また、泣かせてる。
彼女は、「捕まえた」と言って自分を受け入れた。
逆なのだ。つかまったのは彼女のほうで、
自分はまた彼女を泣かせている。


…知らないフリなんて、出来るわけがねぇよ。


終わりだ、と思った。
もう終わり。元に戻ることは出来ない。でも、このまま進むのには無理がある。
だから、搾り出すように低く、エドワードはその言葉を吐き出した。

言いながら、もう後悔を始めていることにエドワードは気づいていた。
それでも、もう遅かった。よくあることだ。そう、言い聞かせた。
眩暈がした。
言いながら、途方にくれている。
そう、空気なのだ。それに偽りは無い。
空気は空気であり、それ以上でもそれ以下でもない。
だから、それを否定するのは自分を否定しているようなそんな気持ちだった。
自分を殺すことだ。
空気がいらないというのは、そういうことなんだ。

だから、言いながら、ウィンリィの顔を見ることは出来なかった。


「もう、終わりにしよう」


声は、震えた。
しかし、明瞭に暗い部屋に落ちた。
視線を上げた先にあった彼女の顔色から、
自分が吐き出した言葉の意味を彼女がきちんと理解したらしいということだけは、
エドワードにもよく分かった。


(fin.)







2005.3.7
…続きます。シンドイ展開かもしれませんが、もう少しお付き合いいただければ幸い。




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