3.おなじものをみていたい
まどろみがギシリとひとつ音を立てて揺れて、ウィンリィはゆっくりと目を開ける。
海の底にいるような薄い群青色の靄がたちこめた静謐の朝。目の前で揺れるように動いたのはエドワードの形をくりぬいたひとつの影。
部屋の中は静かだった。朝特有の、凛と張り詰めたように澄んだ空気がひそやかに横たわっている。共にした臥所の脇にはカーテンが半分おりた窓がひとつ。
朝がくる。
ウィンリィはぼんやりと窓の向こうの暗がりを見つめる。カーテンが半分かかった窓は
焦げた茶色の木枠で仕切られていて、夜から朝へ、その顔色を変えていく空を映している。
山の端と、街並みの屋根を黒くかたどった朝の光景に、しらじらと明るみ始めている群青色の空。
まだ日は昇っていない。太陽が生まれるその瞬間を、世界のすべてが息をひそめて待っている、そんな朝の一刹那。
そうした世界の始まりをぼんやりと眺めているのが、ベッド端に腰掛けた彼の背中だった。
ウィンリィは枕に顔を半分埋めるようにして横たわり、押し黙ったまま自分に向いている彼の背中を見つめた。
なにをしているのか、息すらひそめてその背中を見上げる。抱き合っているときに彼の背中を見ることはほとんどないけれども、その背中は痛いほどに見慣れすぎている。
もうすぐ朝がくる。彼が背中しか向けない時間がくる。
夜の闇の中で向き合うとき、彼は優しくて、だからこそ、朝を迎える前のその落差におののく。
身体に火照る愛し合った快感の残滓に、ウィンリィはまだ酔っていた。
(このままでいたい)
投げ出した腕が中途半端なところにあって、エドワードに届きそうで届かない。横たえた白い指先でシーツの上をひっかいて、皺をひとつ作るのさえためらわれた。それほどの静謐を抱えて、エドワードの影が背中をウィンリィに向け、窓の向こうからやってくる朝を待っている。
身体がもう既に泣き出している現実を、ウィンリィは知らない振りをしていたかった。
エドワードが傍にいる。このまま、この時間を共有していたい。瞳だけをめぐらせて、目の前で物音を立てないようにそっと佇む彼の背中を見つめる。
(なにをみている?)
ふと落ちた疑問を、黙って背中に落とした。もちろん、返答はないけれども。
時間は同じように流れているはずなのに、夜はいつも切ないほどに短い。
向かいあって、何度も何度も名前を呼び合って、身体の熱や汗や吐息を溶け合わせるように愛し合って、その瞬間は確実に同じものをみていたはずなのに、安堵を与えられたそばからこうして背を向けられると、不安になる。
(なにをみているの?)
動いていいのか躊躇われた。それでも突き動かされる不安に、指先がようやくひとつ動くことを思い出す。
恐らくエドワードはじかに問いただしたとしても、ウィンリィの疑問には答えてくれない。彼は踏み込ませないのだ。その背中で、ウィンリィの視界を阻むのだ。優しさゆえに、あの「戦場」でそうしたようにウィンリィを拒絶する。
ウィンリィから拒絶させる。ウィンリィから遠ざけさせる。
(それでも諦めたくないの)
闇にかたどられた背中に無言で囁く。指先でかりっとシーツをひっかいて、身体を起こす。
身を包んでいたシーツの隙間から白い肌が零れた。肩に滑り落ちるのは乱れた一房分の金髪。羞恥から思わず落とした視線の先に揺れる己の乳房を見て、白い肌の上に、その色とは対照的に刻まれた赤いしるしに気付く。その刻印に、望まないままウィンリィの心は凛と震えた。
証は心臓のすぐ傍にすら何度だって刻まれるのにだ。交わした約束は、まだすこし遠い。
唇を噛みながら、泣き出している身体を心の中で叱咤する。まだ遠い約束をおのずから手繰り寄せるかのように、エドワードの背中に腕を伸ばす。切々の胸の内にこもる言葉を口には出せないまま。
(おなじもの、みさせてよ)
こういう時こそ、言ってしまえばいいのに、素直じゃないのは気持ちよりも唇だった。
「……うお」
彼はぽつんと唇から声を漏らした。ガクっと小さく前のめりになる。エドワードの裸の上半身にするりと細く白い両腕が絡まる。ふにゅ、と背中をくすぐる彼女の身体の感触と、首筋に後ろから舞い降りる彼女の吐息に、ぞわりと身体が震えるがエドワードは平静を装う。
ウィンリィが左の肩に後ろから顔を寄せてくるのが分かる。なんだよ、と思わず顔を向けようとした。しかし、少し強く拒まれる。顎を肩先にのせてきた彼女は、耳元を彼の耳にこすりつけるようにして、軽く頬を寄せてきた。
だから、彼女の顔を正面から見ることはエドワードには出来なかった。
おきてたのか。そう言おうとするエドワードよりも先に、ウィンリィのほうが早い。
「すき…―」
「………」
彼がピクっと身体を震わせるのを感じながら、ウィンリィはさらに後ろから回した腕に力をこめる。寄り添った身体を伝ってのぼせるのは二人分の心臓の音だった。ウィンリィは泣きたいような笑いたいような気持ちになってくる。
ひたひたと身の内に透き通るように落ちる心臓の音が彼に聞こえてしまうのが怖い。そしてそう思うと同時に、聞こえてしまえばいいとも願う。
複雑に織り交ざるその感情は、消え行く夜の時間と、しのびよる朝の時間の狭間で、めまぐるしく交錯してはウィンリィを翻弄する。
「……―背中が」
彼の周りに緊張するように宿っていた空気が一瞬ガクリと緩むのが分かる。
「……てめ…」
あのなぁ…、と言い掛けた声が空気に溶ける。
ウィンリィは軽く目を細めて口元を小さく綻ばせる。顔を正面から見据えなくても、あえて目をあわさないようにしていても、エドワードがどんな顔をしているか想像してみるだけでおかしかった。
伏せた視線の先にエドワードが胡坐をかいて座っているのが見える。軽く膝の上に置かれているのは、生身の腕と、銀色の腕。
その機械の腕に、ほんのりと光が蕩け始めるのがわかって、ああ、とウィンリィは小さく嘆息しながら視線をあげた。
朝陽が昇ると、分かったのだ。肩に顎をのせるようにして彼の耳元の横に顔を寄せる。ちらりと後ろを伺う金色の視線を感じているけれども直視はしない。できない。直視したら、忘れてしまいそうになる。
今から一日が、朝が、世界が、未来が始まることを。
朝の光をあびて、この気持ちを光の泡沫とともにウィンリィは消し去りたかった。
守ってくれるこの背中が好きだけど、同時に、遠ざかるこの背中が怖い。いかないで。置いてかないで。あたしもそこにいさせて。おなじものをみていたいの。
あんたとおなじものを、みさせて。
手を伸ばして抱きしめて、距離を縮めてみる。前を進まなければならない彼に、正面から抱きしめてと、まだ願うことはしない。その代わり、後ろから。
「……なにがしたいんだよ?」
すりすりとまるで匂いでもつけるように身体を寄せてきてただ黙って抱きしめてくる彼女に、エドワードはねをあげてしまう。
照れたような声音を含むぶっきらぼうな言葉が耳のすぐ傍をくすぐる。泣き声にも似た心臓の高鳴りに身体を焦がしながら、ウィンリィは小さく笑んだ。
山の端に一筋の光が走る。光に追い立てられるように立ち上がる街並の影を窓の向こうに見つめながら、太陽が昇る。朝がくる。一日が始まる。昨日の未来が始まる。
ウィンリィはただ黙って彼を後ろから抱きしめたまま、白みゆく景色をみつめた。
言えばあんたはまた、あたしの視界を背中で閉ざしてしまわない? あの戦場でそうしたように。
遠ざかろうとする大きくなった背中を追いかけたい。本当の意味で同じ位置にたてないかもしれないし、それを望むには、エドワードの傷はまだ浅くはないけれども、彼が少しずつ許容してくれている気がして、それを望んでもいいかもしれないと思うようになっている。
後ろから抱きしめた肩越しに見える世界は、前へと進むあんたが見ている景色と同じものを描いているのよ。あんたとおなじものを、みれているのよ。
そう言ったら、あんたは笑う? そして、またあたしの視界を塞ぐ?
ウィンリィは自嘲気味に口元に笑みを落とした。怖がっている自分を自覚する。まだ、きけない、と。その代わりのように、彼に囁いた。
「なんでもない。…ね、前みてて?」
たとえ背中越しでも、おなじものをみていたいから。