2.最初で最期のChain Love
左耳がちりりと痛む。まるで何かを警告するように、強く儚く。
しかし、ウィンリィは知らない振りをした。
「またアンタは!」
差し出された機械鎧を吟味したウィンリィは大袈裟にため息を吐いてみせた。それに対して「悪いな」とひとつも悪びれた様子なく返すのは、幼馴染のエドワードだ。悪びれもなく、整備に何日位掛かるかと問う彼に、ウィンリィは嫌味の一つでも言いたくなる。
「ほんっとに学習能力無いわね!」
「うるせー」
何度同じ事を言ったら分かるのよ、と言いかけたウィンリィの言葉を、エドワードは遮る。
「おまえ、その耳どうしたんだ?」
「え」
作業台にのせた右腕の機械鎧を真ん中に挟むようにして、エドワードとウィンリィは腰掛けていた。機械鎧から視線を外し、顔をあげたウィンリィに、エドワードは、「耳だよ耳」と自分の左耳にもう一方の手の人差し指をとんとんと当てて示してみせる。「ああ」と頷くウィンリィは、何と言おうかと咄嗟に迷う。思った以上に近い場所にエドワードの顔があった。ウィンリィはなんとなく、ふいと視線を逸らせる。
「ちょっとね。怪我したの」
機械鎧に視線を戻しながらそう言うウィンリィの声は低い。ウィンリィは耳全体をすっぽり覆うような四角形のテープを傷口に当ててその部分を隠していた。
ウィンリィの答えに、「ふぅん?」と返すエドワードは、赤いコートを脱いで黒いシャツ一枚になっていた。エドワードとウィンリィ二人きりの作業室には、カチャカチャと金属の触れ合う音が静かに響くのみだ。ウィンリィの左耳を覆うように貼られている絆創膏を見つめると、エドワードは「じゃあやっぱ買ってこなくて正解だったな」とぽつんと言った。
「え?」
作業に使う工具を選んでいたウィンリィは、エドワードの呟きに訊き返す。
「いや、だから」
彼女の目が驚いたように丸くなるのを見てとりながら、エドワードは少し慌てて取り繕うように言葉を返す。
「おまえ、買ったら買ったですぐあけちまうだろ……ピアス」
これ以上無茶して穴を開けるのを見ているとこっちが痛いんだよ、と、エドワードは言葉を続けた。
彼の言葉に、ウィンリィの瞳は曇る。
(無茶してるのは、あんたの方じゃない)
新しいピアスを欲しいわけではない。しかし、彼がウィンリィの耳を気遣う言葉を聴いて、どこか不穏なものが胸の内に翳るのをウィンリィは自覚する。
ウィンリィはエドワードの機械鎧に視線を落とした。数ヶ月前まで新品だったはずのそれは、あちこち消耗し、くたびれた感じを否めない。どう使ったらこんな風になるのだ。自分の事を棚にあげて、無茶してるなんて言う彼に、どうしたことか、ウィンリィはなんとなくむっとする。
(あんただって……)
無茶してるじゃない。
しかし、ウィンリィがそれを口にすることはなかった。
ふと、すぐ傍に座るエドワードの腰の辺りにウィンリィは目を落とす。彼の腰に吊るされているのは銀色に鈍く光を放つ、ひと繋がりの鎖だ。ウィンリィは、工具を手離すと、何の前触れもなくそこに手を伸ばす。
「のわっ!?」
げ、と顔を強張らせて、エドワードはパッとウィンリィから身を引く。伸ばされたウィンリィの手は、吊るされた銀の鎖に辿りつくと、力任せにそれをぐいっと引っ張った。キチッ、と留め具の軋む感触が、ウィンリィの手の中に落ちる。そこに何があるか、ウィンリィは知っていた。
それをさらに引きずり彼女の出そうとした手は、別の彼の手で阻まれる。ウィンリィの手首を掴まえる彼の手は思いのほか力強く、痛い。
「おま……っ!」
何すんだ、と、エドワードが心底慌てたように声を荒げ、その鎖から無理矢理ウィンリィの手を剥がす。それに対して、ウィンリィは、「なんとなく」と返した。
「なんとなく。触りたくて」
「はぁ? なんとなくだぁ?」
勘弁してくれ、と慌てたエドワードは「触るな」とウィンリィに告げる。
「ケチ。見せてくれたっていいじゃない」
ウィンリィは言ってみた。どうしても見たいという明瞭明確な理由がウィンリィの中にあるわけではなかった。全ては出来心だった。ゆらゆらと揺れる何かがウィンリィの中で駄々をこねるように頭をもたげてくる。ちょっとした出来心だ。悪戯だ。軽い気持ちだ。拒絶されればされるほど、それは落ちない染みのように色を濃くしていく。
「ダメだ」
さすがに怒ったような表情を浮かべて、エドワードはやはり拒否する。しかし、実のところ、内心では彼はとてつもなく焦っていた。いつもはこんな事をする彼女ではない。想定外の行動に、みっともないほどに落ち着きを失っている自分がいた。それを、悟られたくはなかった。
不満そうに頬を膨らませて、拘束から逃れるように手を引っ込めたウィンリィを、エドワードは不審に思う。
(なんだ…?)
なんとなくだが。
エドワードは首をかしげる。なんとなく、ウィンリィの機嫌がとてつもなく悪いような気がしたのだ。
「メンテは三日ってとこね」
気を取り直したようにウィンリィは出来るだけ明るい声で言った。彼女に出来ることは、表に出さないようにすることだった。自分の身の内にゆらゆらと揺れるそれに気づかない振りをする。正視すれば、何が起こるかわからない。それは怖い。だから、隠すのだ。
「三日かぁ」
唐突にいつも通りに戻ったウィンリィの言葉に、エドワードは拍子抜けしながらも、おどけたように彼女の言葉に頷いた。
「急ぐならもっと早く出来るわよ?」
ただし、特急料金はちゃんと頂くけど、と軽口を叩くウィンリィに、いや結構デス、とエドワードは返す。そして、「いつも悪いな」とやっぱり悪びれた風もなく言ってみた彼は、言葉とは裏腹にただただまっさらな笑みを浮かべてみせた。だがしかし、なんとなく胸に落ちてきた不審を、エドワードはやはりなんとなく打ち消していた。時々、こういう事があるのだ。この幼馴染に対して、踏み込んでいいのか分からなくなってしまうような、曖昧でそれでいてどこか確信的ともいえる感情。正視するのはまだなんとなく躊躇われていて、手に余るのだ。
エドワードは、そんな己の内心に目を瞑るように、ただ一言「頼む」と言い、ウィンリィは「任せて」と返した。
「暇だ」と言うのは、帰郷したら必ず漏れ聞くエドワードの口癖だ。リゼンブールには彼が好みそうな本を置いている本屋もなければ、図書館もない。何かをしていないと落ち着かないのか、点検が終わって右腕を外したエドワードは、「ちょっと出てくる」と立ち上がる。
エドワードが整備室から出て行くと、残されたウィンリィは、受け取った彼の右腕を改めて見つめた。外装に付いた大小無数の傷を、つ、と指でなぞってみる。なぞりながら、唇を尖らせた。
「……ケチ」
ぽつんと呟く。それは、先ほど拒絶されたことに対してのみ向けられているわけではなかった。
左耳がちりりと痛む。まるで何かを警告するように、強く儚く。
ウィンリィは痛むそこに手を添える。それから、所在を失った「それ」を、作業着のポケットから取り出した。
掌に転がるのは、赤黒い跡がこびりついて落ちないピアスがひとつ。ウィンリィはそれをぎゅっと手の中に握る。
こういうことを聞いたことがある。「ピアスをあけると、運命が変わる」と。真偽のほどは分からない。誰が言い出したのかも知らない。どこまでも曖昧で無責任な、迷信だ。
それに「願い」をひとつ託して、ピアスをひとつあけた。
ウィンリィは、掌の中で、小さなそれを転がす。一つ目は自分であけた。それから、幼馴染達が自分にピアスをくれた。そして、三度目の彼の帰郷に、ピアスは無い。
そう。最初は自分であけたのだ。それでは、最期は?
(すねてなんかないわ)
今回は貰えなかったピアス。ピアスを期待していたわけではない。そんな形あるものよりも、整備師として自分が求められているということのほうが大事なのだから。そのために、自分は今ここにいる。だがしかし、そうは言っても、勝手に託した願いが、半端な形でこうして手に落ちている。それが、いたたまれなかった。
多少は、どこかすねていたのかもしれない。たとえば、先ほどのエドワードの拒絶に。ウィンリィは小さく唇を噛む。
(本当は、願ってはいけないのかもしれないけれど)
わかってはいるのだ。彼にとって銀時計がどういう物であるのか。彼は並々ならぬ努力をして絶望の底から立ち上がり、国家錬金術師になった。そこには、ウィンリィが想像を絶する覚悟があったに違いない。そして、ウィンリィが決して思い描けない景色を、彼はこれまで見て来たに違いないのだ。彼は決して語ろうとはしないけれど、整備の度にボロボロになってくる機械鎧を見れば、それは容易に想像できた。
(だけど。わかってるんだけど)
自分がどうしてこんなにも我儘なのか、ウィンリィには分からなかった。ただ知りたいだけ、そう思うことすら、本当はダメなのかもしれない。驕りなのかもしれない。それでもただ、知りたいだけだ。入り込みたいだけだ。教えて欲しいだけなのだ。我侭なのは分かっている。しかし、ピアスをくれたのは、あいつなのだ。そして、ピアスをあければ運命が変わるという。……何の因果だろう。いったい誰が言い出したのだろう。半分以上は嘘に違いないその伝聞に、しかしウィンリィはなぜかとてつもなく囚われていた。縛られていた。
ウィンリィは掌を開いて、ピアスを見つめる。留め具が緩んで壊れかけたそれには、乾いた血糊が赤黒い錆のように付着しているのが見える。それを、ウィンリィは青い瞳で食い入るように見つめながら、心の中でまるで悔いるようにひとりごちる。この割り切れないモヤモヤは何だろう、と。なぜか悔しくて、いたたまれないのだ。
ふと顔をあげたウィンリィの目に、別の赤色が鮮やかに飛び込んできた。ウィンリィの目に留まったのは、エドワードが脱いでそのまま置いていってしまった彼の赤いコートだった。何色かと聞かれればピアスのそれもコートのそれも双方同じく「赤色」だとウィンリィなら答えるだろう。だが、コートのそれはその辺に転がっている何の変哲もないただの赤ではなく、彼の色だった。
ウィンリィは、ピアスをギュッと握り締めたまま、ふらりと立ち上がった。それは何の悪戯か。ウィンリィにも分からない。唐突に彼女の中に生まれたその衝動に、ウィンリィは最初から負けていた。まるで何かに誘われるような足取りで、彼の赤いコートに近づく。近づきながら、まるで誰かに言い訳するように心の中で繰り返した。
(これは悪戯なの。ちょっとした、悪戯)
最初から「負けて」いたウィンリィは、言い訳するように心の中で繰り返す。こんな事をして、何になるのだと諭すもう一人の自分を押し殺すように。この行為には、悲しいほどに意味が無い。それを痛いほどウィンリィは理解しているのに。
悪いのはあいつだ。
先ほどの彼の拒絶のことを言っているわけではない。しかし、それは多少の原因に含まれるかもしれなかった。だが、ウィンリィ自身も理解の追いつかない、そんな衝動が、彼女をつき動かしていた。
(教えてくれない、あいつが悪いんだから)
ウィンリィは、無造作に投げ出されたその赤いコートを手に取る。部屋には誰もいないというのに、ウィンリィの呼吸は自然と浅く短くなる。吐息すら聞こえてはならない、と無意識のうちにウィンリィは己を言い聞かせていた。この悪戯がいますぐ露見することは許されなかったからだ。その想いが、彼女を全身で警戒させていた。
赤いコートを手にとって、そろそろと手さぐりする。目的の場所は、あるに違いないコートのポケットだった。これは悪戯なの、と何度となく己に言い聞かせながら、ウィンリィはそのポケットに己の手を滑り込ませた。この行為に何の意味があるのか……意味などない、と分かっていても、止められなかったのだ……―。
ウィンリィがそのささやかな悪戯を終えた瞬間、唐突に、ロックベル家の電話が鳴り響いた。