「手に手をとって帰る場所」(エドウィン小説本サンプル)
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1.ブラインドタッチ




 左右開きに放たれた窓から、陽だまりの匂いをたたえた薫風が部屋の中にそよぐ。羊と畑しかないこののどかな村には、今日もまた平和な一日が流れていくに違いない。小さな花柄の刺繍がほどこされたレースのカーテンは淡く波打ち、その向こうに青々と澄み渡った空を眺めていれば、自然と眠気に誘われてくる。
 だがしかし、ロックベル家の一室にいるエドワードは、今、とても眠っていられる状況ではなかった。
 故郷の空は雲ひとつない晴天だというのに、彼を迎えた幼なじみの周りだけは「緊急災害注意報」を発令するのがぴったりだ。「あんたが来るといっつも大戦争になるのよね」と言った幼なじみの少女は、まず、エドワードが電話をしなかったことについて小言を並べ、その次に、彼が手足につけている機械鎧の状態を一瞥したあとに、「壊すなって言ったでしょー!」とスパナを一発お見舞いしてきた。最初の頃こそ、ピアスを買ってご機嫌とり……などという姑息なことをやっていたエドワードとアルフォンスだったが、同じ芸当がずっと彼女に通用するわけもなく、いまや、故郷に着いてイの一番にエドワードがやらなければいけないことといえば、彼女の怒りを身体で受け止めることなのかもしれなかった。賢い弟は、その役割はウィンリィにとっても(そしてアルフォンス自身にとっても)兄が最適任だとごく自然に察知して、今も勿論、「緊急災害予報」が届く範囲にはいない。弟に見捨てられたことを嘆く間もなく、エドワードは整備室に連行される。

 整備室で作業に没頭する彼女の横顔はたいてい真剣な表情で、話しかけるのもはばかられることが多い。くわえて、彼女はその日、最高に機嫌が悪く、そしていつも以上に饒舌で、やたらにつっかかってくる。
「だいたいね、なんでそう生傷ばっかり作ってくるわけ?」
 カチャカチャと絶え間なく部屋に落ちるのは金属の触れ合う無機質な音だ。連行されてすぐに、彼女は手足両方のメンテナンスをすると言い出し、「動かないのは腕であり、足は必要ない」と反論すれば、エドワードもたじたじになるような大剣幕で「今度あんたが来た時にはあたしの機械鎧が粉々になってるに違いないわ!」と不吉な(しかしあながち間違っていないかもしれない)予言をしてみせ、エドワードがさらなる反論を考える間もなく、問答無用だとばかりに手と足を外されてしまったのだ。
 彼女が言う「生傷」というのが、彼女が手元で見ている右腕の機械鎧のことだけを言っているのではないとエドワードは察して、ため息をつきたくなってくる。機械鎧を外す時には服を脱がざるをえない。足のメンテナンスは必要ないと言うエドワードに対して、無理やり服を脱がせ足を渡すように迫った先ほどの彼女を思い出し、エドワードは心の中で嘆いた。いくら幼なじみとは言え、仮にも男である自分に対するその仕打ちには恐れ入るしかない。
「危ないことしないでって言ってるのに! 怪我ばっかりして! 壊して! 壊して! 壊して!」
 三回も言わなくてもちゃんと聞こえているんだが、と思いながら、エドワードはうんざりだと言いたげに唇と眉の形を線対称にヤマ折りさせてみせた。左足に義足をつけて着替えた彼は、右腕のメンテナンスはすぐに終わると聞いて待っていた。暖かな日差しがこぼれる明るい部屋の中で暇つぶしをするには読書が最適だったが、場所が悪い。左手だけで支えた分厚い本を、作業用テーブルのへりと自分の腹部にたてかけると、椅子に腰掛けながら左斜め前方四十五度の方向にカミナリ注意報アリだ……なんてひとりごちる。
 急なメンテナンスを頼むと、オプションとして彼女のカミナリもしくはスパナが付いてくる。そんなオプション、誰も頼んでいないのだが、幼い頃からずっと一緒だった間柄、彼女は毎度毎度毎度毎度! 飽きることを知らずにエドワードを怒るのだ。
「しょうがねーだろ、傷は出来ちまうのは出来ちまうんだ。壊れるときは壊れるんだよ」
「壊れるんじゃなくて、壊したの間違いでしょ! バカ!」
 返って来た彼女の言葉に、不覚にも即座に反論出来ない。さてさて、このカミナリを遠巻きにやり過ごすにはどうしたらよいものやら、などという呟きは心の中に仕舞っておくに限る。手にしている本の内容なんて、もう既に頭の中には入っていない。それでもエドワードは押し黙って、これが今のオレの義務だとばかりにぺらりと一枚、ページをめくった。
「それに! どうしたらこの配線が入れ替わるわけ? こことここも! あんたね、あたしの機械鎧をまた錬金術で改造したでしょ!?」
 エドワードの横でぶつくさ言いながら腕を診ているウィンリィは、次々と道具を駆使しながら機械を弄り回す。
「さぁ……なんのことや…あいでッ」
 言い終わる前に凶器が飛んできた。
「ごまかしても無駄よ!」
 ゴトンと重い音がして、エドワードの手からすべり落ちた本が床に転がる。殴られてしまった頭を左手でさすりつつ、エドワードは「いってぇよ暴力女!」と悪態をつきながらウィンリィを睨んだ。ウィンリィも負けじと彼を睨み返す。
 先に負けるのはたいていエドワードのほうで、彼はわざとらしくため息をついて、椅子に腰をかけたままテーブルの下に上体を屈んだ。落とした本を探すためだ。一拍の間をおいて、途切れていた金属音の単調な響きが頭の上で再開する。そして彼女の苦情もまた。
「あたしはこの機械鎧の設計から製作までしてるのよ。あんたがいくら錬金術で元に戻そうが分かるに決まってるじゃない」
「はいはいはいはいそうですねそーですネ、ウィンリィさん」
 片腕だけだとどうも動作ひとつひとつがアンバランスで億劫だった。エドワードはよっこらせと呟きながら本を拾い上げて上体を起こすと、横でくどくどと説教を始める幼なじみの少女の言葉を受け流す。落としたせいで何ページまで読んでいたか忘れてしまった。まぁ、元から内容など頭には入っていなかったが。パラパラとページを繰りながら探すが、この部屋に入ってから、彼女と会ってから、繰ったページの内容なんて全く思い出せないのが事実であると悟って、そんな自分に少しだけウンザリする。
「この機械鎧のことだったらたとえ目を瞑ってたって分かるわよ」
「ほほ〜左様ですか、ウィンリィさん」
「なにそのバカにしたような顔!」
「そう見えるか?」
 エドワードはページを繰る手を止めてウィンリィを見返せば、同じく手を止めた彼女がコックリと首を縦に振ってみせた。
「見えるわよ! 思いっきりどうでもよいって思ってるでしょ」
 はいお見事! 図星だよ……と思ったこともまた心の中に仕舞っておくに限るのだ。
「…んなこたーないぞ?」
 紙がパラリと擦れる音と、古書特有の匂いがふわりと風にのる。一瞬だけウィンリィに向けた視線を本に再度戻して、エドワードはどうしたら彼女の怒りをやり過ごせるか頭の中で再考始める。たいていそうした思考は徒労に終わり、彼女の気が済むまで怒らせておくのが一番得策だとは分かっているのだが、癖でついつい考えてしまうのだ。
「それじゃ、やってみせろよ?」
 深く考えたわけではない。売り言葉に買い言葉。たいてい整備室で彼女と交わす会話は、手紙でいえば定型句のようなもので、構造パターンはおおかた決まっている。カミナリ注意報の次はスパナ注意報、その次はなんだっけ? などとぼんやり思い返しつつ、幾つかそれを繰り返しても最後にはたいてい、天気の晴れ予報のごとく、「終わったわよ」という言葉ともに彼女の嬉しそうで得意げな顔が見られるのは間違いないのだから、それを待てばいいと分かっている。それでも、そこに至るまでに浴びせられるスパナの数とカミナリの数が少しでも減れば……なんてことを姑息に考えたのがそもそもの間違いだったのかもしれない。
「やってみせろって、何を?」
 ウィンリィは顔をあげて青い瞳を怪訝そうに二、三度素早く瞬かせた。
「今言ったやつを」
「今?」
 適当なページを開いた本を作業台に置くと、エドワードは、悪戯を唆す挑発的な目でウィンリィを見つめ返した。
「そ。目を瞑ってでも分かるんだろ」
 左の人差し指で、彼女の目と作業台の上の彼の右腕を交互に示す仕草をしてみせる。
 エドワードの言にウィンリィは一瞬だけ困惑したように青い瞳を揺らせると、ム、と唇を不満げに結んでみせる。
「なんで?」
「言ったろ? どうでもいいって思ってないって。……とってもキョウミがあると思いまして」
 わざとらしい彼の敬語に、ウィンリィの眉間には疑いの深まりを表すかのように皺が刻まれる。
「それともホントは出来ねぇの?」
 まぁ確かに、とエドワードはウィンリィを見つめながら心の中で呟く。
(オレが悪いわけで。毎度毎度ぶっ壊すもんな。おまえが怒るのは当然だ)
 それでも気に入らないものは気に入らない。なんでこう何回も殴られ罵倒されなければならんのだ! オレは客だぞ! という勢いもまた心の中に仕舞って、エドワードは彼女の反応を待った。
 エドワードの挑発に乗ったのか、ウィンリィは怒ったように言い返した。
「出来るわよ! 失礼ね!」
「それじゃあ、どうぞ」
 エドワードに左手でさらりと促されたウィンリィは、彼と自分の手元を交互に二往復分見比べてから、疑わしそうな顔を作る。
「……なにか企んでるわけじゃないわよね」
「なにかってなんだよ」
 さらりとエドワードに返されて、ウィンリィは言葉に詰まった。
「いいわ。見てなさい」
 意を決したように、ウィンリィはもう一往復分視線をさ迷わせた後に、ゆっくりと目を閉じてみせる。
 テーブルの上に開いたままの本のへりに指先を這わせたまま、エドワードは彼女の両目が閉じられていて、彼女の指が機械鎧の内部分をそろそろと這うのを見守る。
 鋼の装甲の内側にゆっくりと這う指先は細く白い。配線の位置を何度となく確認した指先は、いつもよりもゆっくりとした手つきで中の配線のつなぎ目を外していく。
 エドワードは彼女の仕草のひとつひとつを黙って見つめた。テーブルの上に両肘をのせたウィンリィは、背筋をピンと伸ばしたまま、少しだけ首を俯き加減に傾けながら両目を閉じている。その日はいつもしているバンダナを巻いておらず、背中まで伸びた後ろ髪と、耳の横から垂れている金髪が、時折吹き込む陽だまり色の風にふわふわと小さくそよいだ。きゅっと結んだ形よい唇から、その呼吸の音が聞こえるのではないかという程に部屋は静かになった。生真面目な表情のまま彼女は指先を動かす。生身の腕ならば神経に当たるのであろう配線をつなぎかえていく。エドワードはただひたすら黙って彼女を見つめていた。
(黙っていれば可愛いのに)
 ふと胸に落ちてきた独り言を、己の独り言として確信を持って自覚してから、アレ? とエドワードは己の目が驚きで丸くなるのを禁じえなかった。
(なに言ってんだ? オレ)
 震えるように、急速に身の内を侵食するのは予感なのか、確信なのか。判別すらつかないまま、ただ目の前の幼なじみが目を閉じてくれていて助かったと、心の底から思った。そして、そう思ったことにもエドワードは動揺してしまう。
(なんだこれ)
 いつも口うるさい彼女が口うるさくなくて、いつも整備をしている背中か、手元を見ていることしかなくて、こうしてまじまじと顔を見たことなんてそうないような気もする。
 硬く閉じた瞼の下で揃う睫がふるっと揺れて、ウィンリィの唇がおもむろに音を作る。
「こうして、…こことここを…」
 静まり返った部屋にいたたまれなくなったのか、ウィンリィは小さく独り言を呟いた。
「つないで……こっちとこっちは……」
 目を閉じたままの彼女の唇だけが動く。熱でも持ったのかと思うほどにあつくなっていくのが己の頬と心臓であるとエドワードは自覚していた。目を丸くして、唇だけが動く彼女の静謐な表情を凝視する。彼女の目が閉じているのをいいことに。
「……エド? …見てる?」
「……おう。…見てる」
 おまえを見てる。
 言えない正解を心の中で唱えて、少しだけ眩暈がする。
 返って来た声が低くて、ウィンリィは軽く眉をひそめる。彼女が瞬時にまとった空気が不安の色だと察して、エドワードは言葉を付け足す。
「……すげぇな、おまえ」
「……そう?」
「うん」
 短く答えながら、彼女がやはり目を開けないことをいいことに、エドワードは彼女の顔を見つめ続けた。
 黙っていれば可愛いのだ。なんで黙ってないんだっけ? ああそう、怒らせているから。悪いのは、怒らせてる自分のほうだろう、とエドワードは自嘲的にひとりごちてから、金色の瞳を細める。テーブルの上においた本のへりに添えた指に、ギリと力をこめる。真正面から彼女を見つめる勇気はなくて、身体も顔も本を向いたまま、それでも目だけはどうしても彼女から離せなかった。
 怒らせているのはオレ。分かっている。
 目を閉じている彼女に、エドワードは安堵と同時に不安めいた感情に駆られ始める。なぜなのかは分からなかった。
 いつも怒らせる。いつも心配させている。ふと胸をつく記憶は、家を焼いた日に泣いた彼女だった。こいつは頼んでもいないのに怒るのだ。泣くのだ。いやなわけではない、それでもむず痒い。歯がゆい。なんで泣く、なんで泣かした。泣かなくていい。泣かせたくない。……そんな気分になるのだ。
 痛切に落ちてきたそれが胸の辺りをキリリと焼く。それを自覚しながら、エドワードは低く呟いた。
「……ブラインドタッチ…っていうとか? そういうの」
 ウィンリィはくすっと笑った。
「そのまんまじゃない」
「……」
 真剣な表情を笑みに崩すウィンリィをエドワードは見つめる。
「いまやってることに名前なんてないよ。ずっとこれを見てるし、ずっと作ってる。だから見てなくても、分かるだけ」
 指を動かしながら、ウィンリィの声は少しだけ低くなる。
「……分かってるつもりに、なってるだけかもしれないけれど」
「……」
 一瞬だけ二人は押し黙った。ウィンリィはただ変わらずに手だけは動かし続ける。彼女の指先に視線を移し、エドワードはもう一度ウィンリィの目を閉じた静かな表情をまっすぐに見つめた。
「そんなこと、ねーよ」
 なぜだかは分からなかったが、気がついたらエドワードは口をついて言っていた。左手の指先が、開いた本のへりに深く食い込む。力をこめて、手が動かないように。何を禁じているのか自分自身でさえ分からないまま。
(たぶん、おまえが思っている以上に)
 怪訝そうにこちらを向くそぶりを一瞬だけ見せたウィンリィをエドワードはただ見つめていた。
(おまえはいろんなことを見ているし分かってるし)
 だから泣くんだ。見せたくないのに、見せてしまうから。こうして関わらせてしまうから。
 不意に落ちてきた感情は、どこか怒りに似ていた。どこまでも乾いた焦燥感の理由が分からないまま、禁じていた左手が動いてしまう。目を閉じた彼女へ。渇きの慰めを求める砂漠の蛇のように、空を泳いだエドワードの腕は、目を閉じたウィンリィの耳の傍でたなびく彼女のひと房の髪に伸びていた。
「でもね」
 ウィンリィはエドワードの言葉に静かに口を開いた。
「やっぱり怖い。……みていないと」
 そうぽつんと言い置いて、ウィンリィはなんの前触れもなく静かに目を開いた。
 二人の視線がかちりと出会う。
 髪に軽く触れた幼なじみが、まっすぐに自分を見つめていることにウィンリィはぎょっとした。目を閉じる前は、おふざけに細められていたはずの金色の瞳はどこにもない。精悍な表情でまっすぐに射止められて、ウィンリィは声が出せなかった。そんなウィンリィとは対照的に、エドワードは静かに口を開いた。
「いいんだ」
 ウィンリィの瞳はゆっくりと丸く見開く。何を言われたか分からなかった。言葉の意味を咀嚼して、吟味して、しかし、わからなかった。なにが? 問う前に、金色の瞳が見えない力で押しとどめる。
 エドワードはゆっくりと指先の力を弱める。触れた金色の絹糸が淡く指先をすり抜けていくのをなす術もなく感じながら、口をついて出ていた。
「おまえは、もう」
 訝しげに小首をかしげ、青い眼差しをふるりと揺らせた幼なじみの少女に、本当は請うている。しかし自覚すらする間もなく、彼の唇は全く別の音を作っていた。
「みなくていい」





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