戦場に咲く花
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サンプル4


 夜の帳はすっかり落ちて、窓の外には大小無数の星が煌めく。月の無い夜だった。ガラス窓に身体を預けるようにして立ったエドワードは、もう何杯目とも知れないグラスをあおって空にする。渡されたのは酒のはずだったが、一向に酔う気配はない。
「つまんなさそうな顔してるわね」
 はい、と目の前に差し出されたのは料理がのった白い皿だ。「そぉかぁ?」と言いながら、エドワードは遠慮なく手を伸ばす。
「うん。とっても。せっかく来たのになんて顔してるのよ」
 ウィンリィの言葉にエドワードは盛大にしかめっ面をする。なんてことはない、ロイが自分達をパーティーに誘った理由の察しがついたからだ。
 ロイに案内されてやって来たのは、アームストロング邸だった。さすがアメストリス有数の名家とだけあって、屋敷の造りは豪奢だ。邸内のパーティーホールには数百人と思われる人々でごった返していた。赤い絨毯の上にまばゆいばかりに降り注ぐシャンデリアの光の下で、着飾った人々が各々談笑にいそしんでいる。ホールの真ん中では、部屋を包むように流れる優雅な音楽の調べにのって、ダンスを楽しんでいる人々の姿があった。
 華やかな光景と相反して、エドワードの心はどこまでも冷え切っていた。この場を楽しめない理由なら分かり切っているのだが、ウィンリィは知る由もない。つい先ほど、ロイと交わしたやりとりを思い出して、エドワードは少しだけ憂鬱になる。


『何が狙いだよ。俺はもう国家錬金術師は―……』
 言いかけた言葉は、すぐに遮られる。
『その話ならな、保留とさせてもらえないかね』
『―はぁ…っ!?』
 冗談じゃねーぞ! と声を張り上げそうになるエドワードだったが、寸でのところでかろうじて押しとどめた。何かしら? と遠くからこちらにちらりと視線を送ってくるウィンリィの姿が視界に入ったからだ。
 案内されたアームストロング邸に入ってすぐ、エントランスには少ないとは決して言えない数の人が談笑を交わしている。その中に混じって、ウィンリィは久しぶりに再会したマイルズやアームストロングと世間話をしているようだった。
(ウィンリィには、悟られたくない)
 咄嗟に落ちてきた自分の本音を前にして、エドワードは言葉を失わざるを得なかった。苦虫を潰したような表情を浮かべて唇を噛みしめるエドワードを、ロイは観察するかのように一瞥した。
『何か勘違いしているようだが』
『……』
『私は別に、君に錬金術師として何かしてくれと言うつもりはないんだ』
 エドワードは疑わしげな眼差しでロイを見返した。ロイの斜め背後には、生真面目な表情を浮かべたリザが控えていた。ロイの狙いは、もちろんリザも把握済みだろう。ウィンリィを危ない目に遭わせたくない―それは今も以前も変わらないエドワードの意向だったが、リザがそれを知らないはずはない。そのリザが黙認しているということは、エドワードが警戒しているような事態は起こらないと考えてよいのかもしれない。瞬時にそんなことを思い描いて、エドワードは小さく息をつく。
『何かするもなにも、俺はもう錬金術は使えない』
『はは。そうだったな』
 ロイは笑って、淡白にそれだけ返すと、ふと生真面目な顔をする。
『実は、君に逢いたいというレディがいてね』
『―はぁ? ……れ、でぃ?』
 唐突すぎる言葉に、エドワードはただただ目を丸くすることしか出来なかった。


 それが、ほんの一時間ほど前の話だ。
 つまんなさそうな顔してるわねぇ、とあきれたような表情を浮かべたウィンリィの横で、エドワードはもう何度目かしれない溜息をついてみせた。楽しまないなんて損よ、と言いたげな彼女をちらりと横目で見てから問う。
「じゃ、聴くけど、お前、楽しい?」
 ウィンリィは素直に頷いた。
「うん、とっても」
 だってね、とウィンリィは顔を輝かせる。
「こんな場所で機械鎧に詳しい人に会えるなんて思わなかったんだもの! あ、さっき約束したんだけど、明日その人のお店に行くことになって!」
「あーそーかい」
 エドワードはげんなりと肩を落とす。パーティー会場の片隅で、彼女が興奮気味に意気投合していた男ならエドワードも見ていた。エドワードやウィンリィよりもひと回り位は年上と思われる男だ。このパーティーに来ているということは、それなりの業界でそれなりの地位にあるということは簡単に予想できた。
 浮かれているウィンリィを横目に、エドワードは皿にのったハムをひと口に流し込む。ついでに通りかかった給仕から新しいグラスを持ってきてもらうと、半分ほどをハムと一緒に胃に流し込む。
(こいつは……機械鎧だったらなんでもいいのかよ、ったく)
 わかってねぇだろうなぁ、とエドワードは頭を掻く。浮かれたように何やら呟いている彼女にさっきから視線を送ってるのは、今まさに話題にしている機械鎧の店の男だ。ウィンリィはまったく気づいてない。なんとも無防備な彼女が、エドワードは腹立たしい。エドワードだって男である。あの壮年の男が、ひと回りは若いウィンリィに対して、機械鎧以外の興味を抱いているのは容易に想像できた。
「ね、エド」
「んー?」
「あたし達も、踊る?」
「―はぁ?」
 唐突になんだ、とエドワードは目をパチクリして、隣に立つウィンリィの横顔を見下ろす。ウィンリィの青い眼差しは、真っ直ぐにパーティーホールの真ん中に注がれていた。
「お前、踊り方知ってんの?」
「知らないけど」
「……」
「なにその沈黙。今、バカにしたわね?」
 ぷぅっと頬を膨らませて、彼女はエドワードをねめつけるように見上げた。だってね、と彼女は拗ねたように唇を尖らせて、視線を戻す。
「たまには」
「たまには?」
「そういうのも。いいかなって」
「ふうん」
「変?」
 問われて、エドワードは「別に」と返す。そして付け足す。
「変というか。なんか、変わった? お前」
「―」
 ウィンリィは押し黙る。少しの間のあと、「そうかもね」と呟く。
「―変わらざるを得ないというか」
「はぁ?」
「なんでもない」
 ウィンリィはそっぽを向くと、エドワードが持っていたワイングラスを手にとる。半分ほど飲みかけが残っていたグラスを一気にあおった。おいおい大丈夫か、とエドワードは少し慌てる。彼女がそんなにお酒が強いとは思えなかったからだ。
 踊りたくないならいいわよ、と言い捨てて離れようとするウィンリィの腕をエドワードは掴む。
「誰もそんなこと言ってねぇだろ」
 目を丸くするウィンリィを尻目に、エドワードは彼女の手を己の手のひらの上にとる。まるで見せつけるかのようだ。ウィンリィに関心を寄せる何人も、これを盾に排除してやると言わんばかりに見せつけるのは、彼女の指におさまった指輪だった。まばゆいばかりのシャンデリアの光を浴びたそれは、幾重にも光を弾いて極彩色に輝く。
「ンだよ、その顔は」
「……」
「踊りたいんだろ? 言っとくけど、俺、全然踊れねぇからな」
 どっかの大佐じゃあるまいし、とエドワードは毒づく。ウィンリィは呆気にとられた表情で、導かれるままに身体を彼に預ける。ぽすっと軽くおでこを当てた場所は、彼の胸元だった。黒いスーツを身にまとった彼から、彼自身の匂いがする。ウィンリィは軽く目を閉じた。彼の匂いに包まれながら、ヴァイオリンの調べに乗って、足どり軽やかに舞う。
 人の波の中を漂うように、寄り添った二人は調べに乗る。ステップは適当だった。誰も見ていやしない。誰もが、二人きりの世界に酔いしれる。そんな流れに、エドワードもウィンリィも身を任せていた。
「エド」
「ん?」
「マスタングさんがここに招待したのって」
「うん」
「アンタを引き留めるため、かな」
「……」
 エドワードは思わず彼女をまじまじと見下ろす。ウィンリィはエドワードの方を見てはいない。伏目がちに視線を落として、エドワードのタイのほうを睨めっこするように見つめているようだった。
「ちげぇよ」
 エドワードはそれだけ言った。視線を彼女から離さないまま。すると、ウィンリィの表情はくるっと変わる。ぷうっと軽く頬を膨らませた彼女は、一瞬不満げに唇を尖らせた。しかし、それ以上何も言わない。不満げな表情を見せたのは一瞬だけだった。何か言ってくるかと身構えたエドワードは、肩透かしをくらった気分だ。
(なんだろう、これ)
 断片的に落ち続けた違和感。それがようやく固まり、形を得ていく。いつもの彼女ではないみたいだ。
(―いつから?)
 唐突にエドワードの身の内を不安めいたものが走る。この違和感は、いつからだったか。
(なんで、こいつ)
 辿りついた回答にエドワードは少しだけショックを受ける。つまるところ、どうして彼女は、言いたいことを言ってないんだろう? いつものように。
「ウィンリィ」
 握った手に、くっと力を籠めた。「何?」と何の疑いもない眼差しで見上げてきた彼女の顔に、エドワードはおもむろに顔を近づける。ぎょっと目を丸くする彼女の顔が鼻先一センチもないところにあった。
「お前―」
 言葉を継げようとしたその時だった。
 エドワードもウィンリィも、その瞬間、声を失う。周囲を和やかに包んでいた喧騒も、ほんの刹那の瞬間だけ、シンと静まり返った。その場にいる誰もが、声を失い、音を忘れる。
 音もなく、ふわと視界に飛び込んだ白いそれが、花びらであるということを認識するのに、エドワードはだいぶ時間がかかった。
「何……?」
 身体を寄せたまま、エドワードとウィンリィは二人同時に天を仰ぐ。目がくらむようなシャンデリアの光の海のさらに先から、小さな白い花びらが無数に舞い降りてくる。
「―……きれい……」
 天井を仰ぐウィンリィが、茫然と呟く。声につられるように、エドワードは彼女の顔を見た。舞い落ちる白い花の雨の下にウィンリィが立っている。天を見上げながら彼女が思わずふわりとこぼした柔らかな笑みに、エドワードは一瞬目を奪われる。光と花に洗われるように天を仰ぎ見る彼女の肌の白さ、温和に緩んだ大きな青の瞳、薄く笑みをたたえた珊瑚色の唇。その瞬間みせた彼女の全てに、エドワードは己の全てを呑みこまれていた。
(きれいなのは)
 エドワードは息を呑む。きれいなのは、花ではなく。
 
 しかし、思わず生まれた本音をこぼそうとしたその瞬間、まるでタイミングでも計ったかのようにワッと沸き起こったのは、溢れんばかりの拍手喝采だった。その音にエドワードは我に返る。見ればウィンリィも拍手をし、この突然の現象を讃えていた。寄せる波のように途切れなく沸く拍手の音が、何かに導かれるように割れて、人々が道をあける。割れた波の真ん中に、一人の女が立っていた。
「ご結婚されると聞きました。これは、そのお祝いです」
 どういうこと? とウィンリィは小首を傾げ、寄りそうように立つエドワードの顔を仰ぎ見た。エドワードの視線は、ウィンリィではなくその女へと真っ直ぐに走る。その場にいるアメストリス人となんら遜色のないパールホワイトの長いドレスを纏ったその女は、服の色とは対照的な浅黒い肌をしていた。背中に届くほどに長い髪はよく手入れされていて、艶やかにシャンデリアの光を弾いている。そして、引き込まれるような大きな瞳は、鋭利に磨かれたルビーレッドをしていた。その身体的特徴が意味する所を把握したウィンリィが、ゆっくりと息を呑み、ほんの一瞬だけひるんだように身体を引いたのを、エドワードは見逃さなかった。
 エドワードは庇うようにウィンリィの身体を引き寄せ、半ば隠すようにその女に肩半分を向ける。挑発するように目を細めて低く言葉を放った。
「イシュヴァール人も変わったモンだな。俺の知ってるあんたらとは似ても似つかない」
 エドワードの念頭にあるのは、かつて「約束の日」に共に戦った男の姿だ。腕に大きな刺青をしたその男は、皮肉にもウィンリィと大きな因縁を持っていた。あの約束の日以来、あの男と会ったことは一度もない。戦いの最中に死んだのかもしれない、などという生死不明の報告を、あの後ロイから聞いたきりだ。それでも、エドワードの記憶の中には、イシュヴァール人であったあの傷の男―スカーの姿が強烈に印象に残っていた。イシュヴァール人と言えば、真っ先にあの男を思い出してしまう。
 しかし、目の前に立つイシュヴァール人の女は、あのスカーのような雄々しく誇り高く、そして孤高ではなかった。あれほど因縁のあったアメストリス人と同じ格好をし、こんなパーティーに出ている。スカーのやり方を認めるつもりは決してないが、それでも目の前のイシュヴァール人は、独立と、己が民族の誇りの至高を求めて唯我独尊に道を行ったあの男と、似ても似つかないようにエドワードは思えた。
「すべては、分かりあうためです」
 女はエドワードの皮肉に動じなかった。もしかすると皮肉とは受けとめなかったのかもしれない。エドワードは眉をひそめる。目の前の女は余裕の笑みをたたえて、凛と震えるような涼やかな声で言葉を返した。
「色んな考え方があるのは承知の上です。ただ明確なのは、我らとあなた方には圧倒的な違いがあるということ。それを受け入れるためには、まずあなた達になってみるのも数ある方法のうちのひとつ」
 ふうん、とエドワードは相槌を打つ。しかしそれはどこまでも乾いたものだった。
「ねぇ、エド……」
 ウィンリィが遠慮がちにエドワードの袖を引っ張る。ウィンリィには全てが唐突すぎて話についていけなかった。そして、それはその場にいた者の大半の者も同様だった。
 女は目を細めて、にこっと会釈する。
「申し遅れました。私は、アイリス・ロウと申します」
 一拍の間を置いて、その女はこうも付け足した。前イシュヴァラ教最高指導者ローグ・ロウの孫娘にして、現イシュヴァラ教最高指導者の任にある、と。
 その場にいた誰もが、突如落とされた名にどよめく。その名は、かつてアメストリスとイシュヴァール地方との間で起こったイシュヴァール殲滅戦を知る者なら一度は聴いたことがあるはずだったからだ。
「イシュヴァラ教のお偉いさんか」
 全く動じた様子もなく、エドワードは落ち着いた様子でアイリスを見返す。
「そんなお偉い方が、こんなどこにでもいそうな平々凡々な人間に何の用?」
 エドワードの言葉を、とんでもない、とアイリスは否定した。
「最年少国家錬金術師のあなたが、平々凡々などと―鋼の錬金術師殿」
 否定するのは何度目だろう、と心底嫌になりながら、エドワードは同じように繰り返す。
「その名は、捨てた」
 しかし、アイリスはエドワードの言には頷かなかった。何事も聞かなかったかのような顔で続ける。
「あなたにお願いがあるのです。今日はそのために参りました」
 くっそ、とエドワードは毒づく。気が付けば視界の端にロイの姿を追っていた。アイリスの背後、遠く離れた壁際で事を見守るロイの顔は、軍服は着ていなくともれっきとした軍人の顔をしていた。そうだったな、とエドワードは苦虫を潰したように思い返す。ロイが「約束の日」以来、東方司令部勤務となったこと、たまに中央司令部に戻ってくることもあるとはいえ、あの男の本来の職務は、イシュヴァール政策であったことを。
 こんなに大々的に告げられては、逃げ場がない。その上、ウィンリィの耳にも入る形で告げられて、エドワードはただただ腹立たしかった。
 こちらへ、と道を示すアイリスはエドワードに背中を向ける。エドワードがついてくるのは当然と言いたげな、凛とした姿だった。エドワードは押し黙ってその背を睨む。二の足を踏めずにいると、まるでエドワードの背中を押すかのように、先に足を踏み出したのは、ウィンリィだった。
「ウィンリィ―?」
 ウィンリィは唇を一文字に結んだまま、繋いでいたエドワードの手をそのまま引っ張る。
「おい……ちょっと待て。俺は」
「いーから! 来て」
「なに勝手に……」
「話きくだけなら、いいじゃない」
 なんだその軽いノリは! とウィンリィが放った言葉にエドワードは頭にきたが、しかしすぐにその感情は消し飛ぶ。
 手を引いて前を行くウィンリィが垣間見せた横顔は、見たことがないほど真剣そのものだったからだ。
 引きずられるようにして、エドワードはウィンリィと共にアイリスの後を追う。そんな三人の姿を覆い隠すように、どこからともなく現れたのはアームストロングだった。ざわめく衆人達の動揺をとりなすように声を張り上げ、いつものように、アームストロング家に代々伝わる一家芸を披露する。衆人たちの目がそこに奪われている間に、エドワード達の姿は屋敷の奥へと通ずる扉の中へ、ひっそりと消えた。




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