サンプル2
それが、四年前の話だ。
ウィンリィは、ほう、と息をつく。もう思い出すことも久しく無かった記憶だった。
「どした?」
心地よいぬるま湯にも似たキルトの中のぬくもりがもぞと動いて、よく聴き慣れた低い声が闇響く。
「ううん、別に」
ウィンリィはかぶりを振った。こんな暗がりの中では彼には見えないだろう。それでも、首を振らずにはいられなかった。久しく思い出すことのなかった記憶を揺さぶられ、なんだか居心地が悪かったのだ。
もぞ、とシーツの衣擦れが低く響いて、彼の手が忍び寄ってくる。膝を抱えるようにして座っていたウィンリィの手首をくいと掴むと、彼女の身体をキルトの中へ引っ張り込む。
「ちょっと」
息が詰まりそうになる。は、と息を吐いて、ウィンリィは咎めるように声をあげた。
「なによ、急に」
「べっつにぃ?」
暗がりの中に二人きりだ。二人分の体重にベッドが軋み、ふわっふわっと身体が揺れる。身体を後ろから絡め取られるようにして抱き締められたウィンリィは、ぷうと頬を膨らませながら、彼の腕に口元を埋めた。
今、何時だろう、などとどうでもいいことを考える。カーテンのおりた窓からは光の欠片すら見えない。まだ夜なのだ、ということだけは分かった。何時なのかはわからない。しかし、久しぶりに彼と肌を合わせた身体からは、すっかり熱がひいてしまっている。だいぶ長く眠ってしまったに違いない。
押し黙ったウィンリィの機嫌を伺うように、エドワードはそろりと口を開く。
「なに、見てたんだ?」
「なにって?」
「お前。起きてからずっと、ぼーっとしてたろ? 何みてんのかなって」
彼の言葉に、見られてたんだ、とウィンリィは小さく目を伏せる。問われた内容をウィンリィは反芻する。何をみていたか? 懐かしい夢を見ていた。夢というよりも、懐かしい過去の思い出と言うほうが正しいかもしれないが。懐かしいのと同時に思い出したことが苦しい。せめぎあう感情に整理をつけようとしていただけなのだが、彼が気にするほどの長い時間が経過していたのだろうか。
「―忘れちゃった」
ほんの刹那の間を置いて、ウィンリィは低く答える。しかし彼に即座に否定された。
「うそつけ」
む、とウィンリィは暗がりの下で口を曲げる。キルトの中で横たわる彼とウィンリィは素っ裸のまま。肌を合わせたところから、嘘が漏れてしまうのかしら、とウィンリィは訝る。まるで全て見透かされているかのようだ。それがなんだか悔しい。
羽交い絞めされるように後ろから抱かれたウィンリィは、伏目がちに背後を伺いながらぽそりと呟く。
「―寂しかったり、する?」
「は?」
なにが? とエドワードは小首を傾げた。腕の中に抱きしめた彼女の表情は見えない。
「錬金術」
「……」
「使えなくなって、寂しかったり、する?」
「……―」
間が落ちたのはほんの一瞬だけだった。ウィンリィの身体を抱きしめる腕が一瞬だけ力んで、そしてすぐに緩む。間近にそれを全て感じ取りながら、ウィンリィは息をひそめた。息を詰めて、答えを待つ。
「―べっつに」
彼の答えは同じだった。淡白すぎる口調でそれだけ呟く。
「なに? なんで急に? そんなこと聴くんだ?」
問い返すエドワードの口調は軽かった。ウィンリィの顔を見ようと身を乗り出す。ウィンリィの背後からぬっと首をもたげて、そっぽを向くように横たわっていた彼女の顔を覗き見ようとするが、ウィンリィはそれを拒否するようにシーツの上に俯せになる。エドワードに顔を見られたくなかったのだ。
いまいちわかんねーな、とエドワードは軽く息をつく。唐突な質問は、その内容も極めて唐突すぎると言わざるをえなかった。
(さみしい、か)
そのフレーズは、似合うか似合わないか、それはエドワードにとってはどうでもよいことだった。エドワードの中で答えは決まっていたからだ。むしろ気になるのはどうして彼女がそんな質問をしたのか、ということ。
(俺、なんか余計なこと言ったか?)
くるくると思考を巡らせて思い出してみる。彼女が勘繰るような何かを口走ってしまったのだろうか。リゼンブールに住むウィンリィと、ここセントラルで落ちあったのが昨日の夕方のことだ。エドワードとしてはとっとと所用を済ませたいところだったが、時間もなかったし、翌日に回すことにした。夕食をとって、宿に入り、ついでに風呂も一緒に入ろうとしたら彼女から丁重に断られたのはショックだったがあまり気にしないようにして、ベッドはひとつだったからすることはするぞ、と数か月ぶりに彼女を抱いて、そして今に至る。―という一連の記憶を思い出してみても、ウィンリィが「寂しくないの?」などと尋ねたくなるようなシチュエーションなど全くなかったとしか思えない。
シーツの上に俯せになったウィンリィの裸の背中を眼前に見据えながら、エドワードはうーむと思考を巡らせる。心当たりはないし、そもそも考えたって答えなど出てきそうにもなかった。
鼻先に、彼女の蜂蜜色の髪がかすめる。宿の中は真っ暗だったが、彼女の背中の白さとハニーブロンドの対比は眩しいほどに夜目にちらついた。
まるでふて寝でもしているかのような彼女の背中は、身動きひとつしない。鉄壁の要塞のようだった。凍ったように静まり返った夜の部屋に、動かない背中―それらを崩す糸口を探るように、エドワードは言った。何かを試すように。
「―じゃ、寂しいって言ったら?」
「え?」
エドワードの思惑通りに彼女の背中が動じる。放り投げられた言葉の意味を掴みとるべく、ウィンリィはふと背後を振り向いた。その瞬間を、エドワードは逃さない。勢いよく腕を伸ばして、ぐいと指先で彼女の顎を捕える。
エド、と言うウィンリィの声は途中で消える。その代わりに、ん、ん、と唇を貪り合う声が漏れる。
ひととおり唇を堪能したエドワードは、満足したように顔を離す。
「―なんてね」
そう言って、ふっと目を細めて小さく笑う。そんな彼を、彼の腕の中で見つめながら、ウィンリィの頬はみるみる紅潮していく。
「だましたわね」
「なんのことだか?」
わかんねーなぁ、と言うエドワードの声からは、隠し切れなかった悪戯っぽい笑みが零れ落ちる。
「もういいわよ」
ウィンリィはぷいと顔を背けて、エドワードの腕から逃れようと身体をよじる。しかし、しっかりと抱きすくめられてしまっていてうまく彼から逃れられない。
「ちょっと、エド」
ぽす、と彼の裸の肩口を柔らかい拳でひとつ叩いて、ウィンリィは「離してよ」と請う。しかし、彼は動かない。ウィンリィの鼻先をくすぐるのは、彼の匂いと、彼の肌の上に枝垂れる金髪だ。トクトクトクと変わることのないリズムで鼓動を打つ彼の胸に顔を埋めて、ウィンリィは嘆息する。
(また、誤魔化されたわ)
ウィンリィは押し黙る。彼にはぐらかされたのは面白くなかった。しかし、ウィンリィはそれ以上のことを問うという行動には移れなかった。彼が思う所を知りたい―それを諦めたいわけではなかったが、言及するのは大人げないような気もした。初めて出会った日がいつなのか記憶にないほどの幼い頃から、これまで長い時間が流れている。その間に彼との関係は、ただの近所の知り合いから、幼なじみという友達、そして機械鎧の整備師と客、という関係を経て、今は将来の約束をしている仲にまでなった。
時間の流れと共に二人の関係は名前を換え、それと同時に、ウィンリィの中に流れる彼への感情も緩やかに変容し、彼に対する態度も少しずつ以前と同じでなくなってきている時がある。ここのところ、ウィンリィはそれを強く感じずにはいられなかった。以前だったら彼にこう言っただろう、彼にこうしただろう、と思えるような事でも、言えなかったり、あえて言わなかったり、あるいは出来なかったり、あえてしなかったり、する。
『それが、結婚するということなのかしらね?』
そう言ったのは、以前ラッシュバレーで世話になったガーフィールだった。結婚の挨拶のためにガーフィールの工房に立ち寄ったのだ。会話の流れは詳しくは覚えていない。だが、エドワードのことをガーフィールに話した時、ガーフィールに言われたのだ、ウィンリィちゃん、変わったわね、と。
そう言われて初めて、自分の中で何かが変わりつつあることをウィンリィは知った。自覚した。何かとは何なのか、具体的なことは自分の中でもまだ掴めていない。そして、見えない何かは、ガーフィールの言葉によってゆっくりとその形を露わにし始めている直感はあった。つまるところ、ガーフィールに言われて、ようやく自分が結婚するのだ、と現実のものとして受け止めたのだ。結婚の報告をしながらも、それまではどこか他人事のように思えていた自分がいたことをようやく認識して、ウィンリィは愕然とする。
(エドと、結婚する)
彼の鼓動をすぐ近くで感じながら、ウィンリィは伏目がちに己の指先に視線を走らせる。彼の金髪を戯れに絡め取った己の左手。その薬指に、銀月色に光るリングがある。それを見つめながら、ウィンリィはふと記憶を辿る。
彼が顔を真っ赤にしながら、リゼンブール駅でプロポーズしたのは、もうだいぶ前になる。そのあとに指輪をもらった。指輪をつけるという経験は、ウィンリィにとっては初めてだった。いつも整備師として仕事をしている彼女に、指先を着飾る装飾品は縁がなかったのだ。最初のうちは戸惑った。初めて指輪を外すときもうまくいかなかった。ウィンリィの指にぴったりとフィットしていたからだ。とれないわ、とひとりで焦っていると、おもむろにその手をとってきたのはエドワードだった。
『力任せにとるんじゃねーよ』
壊れちまうだろが、と彼はぶっきらぼうに言うと、ウィンリィの左手に手を添え、彼女の指に光る指輪を空いた片手の指で軽くつまむ。ゆっくりと銀輪を回すようにして、彼は優しい手つきで指輪を外してみせた。その様子を、ウィンリィは呆然と見ていた。添えられた彼の右手が、もう鋼の手ではないことを感じながら、彼と自分の何かが変わっていっていることを感じずにはいられなかった。だから、焦っていた。何かを言わないと、となぜか慌てていた。
『……あんた、上手ね』
彼は一瞬目を丸くすると、瞬間に漏らしかけた照れ顔を隠すかのように唇を一文字に結んだ。
『買った店の店員にきいたんだよ』
照れ隠しにふいと視線をそらせる。ほらよ、とてのひらの中に渡された石付の指輪は、思いのほか重たかったことが、強く印象に残っている。
「ウィンリィ? 聞いてるか?」
暗がりに響く問いかけに、ウィンリィは現実に引き戻される。
「お前、大丈夫か?」
抱きしめた身体を少し離して、エドワードが上からウィンリィの顔を覗き込んでくる。
「―ごめん、なんだっけ?」
聴いてなかった、とウィンリィは正直に告げると、やれやれとエドワードは肩を竦める。
「お前、なんか、変だぞ? さっきから」
大丈夫か? という問いに、大丈夫よ、と低く返すと、ウィンリィはエドワードの胸元に顔を埋める。彼の視線から逃れるように。しがみついた胸元から感じる彼のぬくもりにすっぽりと包まれるような感覚の中へ、身体も意識も深く沈めようとする。そうすると安心できた。安心の中に揺られながら、ウィンリィは目を閉じる。
(変わるのが、あたしは怖いのかしら)
わからなかった。ただわかることは、まるで夢のように過ぎていく日々の中で、自分と彼が少しずつ、だがしかし確実に変わっていっているという、事実だけだ―。
すーっ、という単調な寝息が繰り返し落ちるようになり始めたことを感じ取って、エドワードはやれやれと頭を掻いた。
錬金術を使えなくなって、寂しいか?
唐突な彼女の質問に、少し動揺した。その問いに対する答えなら、彼の中でとっくに出ている。だがあえて口にしなかったのは、どうして彼女がそんな質問を突然してきたのか、ということが気になってしまったからだ。
(ったく、コイツは……)
無防備な寝顔をさらして寝息を立てるウィンリィを覗き込みながら、エドワードは小さくため息をついた。
(また、いらん心配してそうだな)
心配かけるようなことをしたつもりはない。だが、ウィンリィは昔から泣き虫だ。エドワードやアルフォンスが怒る前に彼女が怒って、エドワードやアルフォンスが泣く前に、彼女が泣く。小さい頃はそんな事が繰り返しあった。互いに成長して、大人になっていっても、それは変わらない気がする。怒っていないフリをしたり、泣いていないフリをしていたり、何も知らないフリをしていたり……形は少し変わってきたけれども、根底で流れているモノはたいして変わらないと、エドワードは思う。だからおそらく、ウィンリィはまた余計なことを抱え込んでいるだろうと予想するのは簡単だった。
エドワードには確信があった。抱え込んでいる物が何かはわからないが、それは彼女の性格であり、彼女の仕事柄に由来するものかもしれなかった。手足を失った人間のために代わりを用意する仕事―それがウィンリィの仕事だ。その仕事柄、何かを喪失した人間と接する機会が多い彼女が、他人の痛みに対してどう思い、どうするか、エドワードは間近で見てきたつもりだ。エドワードもまた彼女の仕事に救われているひとりなのだから。
彼女の頬の上に枝垂れるひと房の金髪を指先でついとひと撫でして、エドワードはまたため息をついた。
(抱え込みすぎンのも、なんとかならんかねぇ)
ま、そこもすきなんだけど。
思わずぽつんと心の中に落ちてきた本音に、エドワードはしばし放心する。なに言ってんだ俺、と慌てたが時すでに遅し。自分の本音に、なぜか勝手に顔が赤くなるのを自覚してしまい、余計にエドワードは腹立たしかった。苦虫を潰したように顔をくしゃと歪めた後、「はぁああ」とひときわ大きなため息をついた。小さく寝息を立てている無防備なウィンリィの頬をぺちんと指先で小さく弾く。無防備な彼女はなんにもわかってない。だが、今の自分の顔を見られずに済んだのは感謝すべきかもしれない。そんな葛藤に苛まれながら、エドワードはウィンリィを抱き寄せる。規則的な寝息がとてつもなく心地よい。誘われるような眠気に意識が落ちるのを自覚しながら、エドワードはゆっくりと目を閉じる。
そして、夢を見た。懐かしすぎる、昔の夢を。
サンプル2