サンプル1
錬金術は使えなくなったんだ。
初めて彼にそう告白されたとき、ウィンリィはすぐには言葉を継げられなかったことを覚えている。その告白の場に、アルフォンスはいなかった。
全ての戦いが終わって、幼なじみであるエドワードは、弟と共に生まれ故郷のリゼンブールに帰ってきた。嬉し泣きさせてやる、の約束の通りに泣かされてしまったウィンリィは、もうそれだけで充分だった。そこにエドワードとアルフォンスがいるということ、それがどんなにかけがえのないことなのか、知っていたからだ。もしかしたら昔の過ちのせいで、この二人を失っていたかもしれない、そんな可能性を知っているからこそ。
だから、エドワードから錬金術の話を聴いた時、ウィンリィは正直に言えば、ショックだった。しかし、ショックを受けた彼女とは裏腹に、告白をしたエドワードのほうはあっけらかんとしていた。その落差に、ウィンリィは余計に胸が痛くなった。
(あんなに、錬金術バカだったのに)
錬金術に対するエドワードの入れ込みようを、ウィンリィはよく知っていたからだ。それは弟の身体を取り戻す、という明確な目的があった時代以前、それこそエドワード達の母親であるトリシャが生きていた頃から続いていたものだ。エドワードは幼い頃から錬金術を使うのが好きだったし、得意だった。自分の目の前でも何度も錬金術を披露し、得意げになっていたものだ。壊れた物を錬金術で再生しては得意げに勝ち誇るエドワードに、ウィンリィは口先だけでは「生意気ね」などと言っていたけれども、本当はそんな彼が嬉しそうにしている顔を見るのは好きだったのだ。
きっかけはささいなことだった。ロックベル家の一室で、エドワードの足を整備していたのだ。ちょっとしたはずみで、テーブルの上に置いてあったコーヒーカップを落としてしまった。
『あーあー。片付けねぇから』
エドワードは裸の足をウィンリィに差し出したまま、呆れたように肩を竦めた。音を立ててカップは割れ、飲みかけのコーヒーの海に白いカップの欠片が沈む。エドワードの指摘はもっともだったが、ウィンリィは頬を膨らませた。
『しょーがないじゃない。最近結構忙しいのよ』
リゼンブールで機械鎧を取り扱うのはロックベル家だけだ。だがそれだけが忙しい原因ではない。リゼンブールに腕のいい整備師がいる、そんな噂は人の噂の風に乗って東西南北へと伝わっていく。その噂を頼ってやってくる客は絶えなかった。エドワードもその事実をよく知っている。客としても、彼女の腕がいいことは間違いないということも熟知していた。それでも、飲みかけのコーヒーカップをそのままにしている言い訳になるのはちょっと苦しいんじゃねぇの、なんて思いながら、それでもエドワードは動かなかった。
掃除用の雑巾を持ってきたウィンリィは、床に膝をついて、零れてしまったコーヒーを拭き取ろうとしたが、ハタと思いついたように言葉を口にした。
『そだ。アンタ得意でしょ。これ、直してよ』
ほら、いつものようにちょちょいっとね、と笑いながらそう言って、ウィンリィは椅子に座ったまま動こうとしないエドワードを見上げた。見上げた瞬間に、え、と目を見開く。上からウィンリィを見下ろしていたエドワードの表情が、一瞬切なげに翳ったことを、ウィンリィは見落とせなかった。
『悪りぃな……できねぇんだ』
『え?』
一瞬、見間違えたのだろうか。ウィンリィは青い瞳を二、三度瞬いた。低く言葉を返したエドワードの表情をよくよく観察する。しかしエドワードの顔が翳ったのは、本当に刹那の瞬間だった。翳はあっという間に跡形もなく消え、いつもの彼の顔があった。さばさばと開き直ったような淡々とした表情で、エドワードは言った。錬金術は使えなくなったんだ、と。
『なん、で……?』
彼が言っていることの意味が呑みこめなくて、ウィンリィは思わず訊き返した。だって、おかしいじゃない。あんなに得意だったのに? あんなに好きだったくせに? あんたなら、こんなコップのひとつやふたつ、掌を合わせたらあっという間に直しちゃうじゃない。
エドワードは答えるのが億劫だ、という面を全く隠さなかった。面倒だなぁと言いたげに眉を軽く顰め、わずかに肩を竦める。
『……ンなショック受けた顔すんな。使えなくなったからって死にやしねぇよ』
『―でも。……どうして』
そのとき、ウィンリィは何も知らなかった。アルフォンスの身体が元に戻った理由も、エドワードの右腕が元に戻った理由も、左足がそのままである理由も。彼らは戻ってきたばかりで、事の顛末を詳細に語るようなことはしなかったからだ。そして、ウィンリィもまた、根堀葉堀訊くようなことはしなかった。それは暗黙のルールのようなものだった。踏み込んではいけない境界がある。少なくともウィンリィはそう思っていたからだ。だからあえて、無理やり兄弟に事の顛末を訊くようなことはしていなかった。話したくなれば、エドワードやアルフォンスから話してくれる日がくるかもしれないと思っていた。
エドワードは息をひとつ吐くと、とつとつと事実だけを語った。必要な犠牲だったのだと。アルフォンスを取り戻すために、錬金術を捨てる必要があった、だから捨てたのだ、と。
淡々と事実のみを紡ぐ言葉が終わった後、整備室の中に、ぽつんと沈黙が落ちた。ウィンリィは膝をついたまま、ゆっくりと俯く。エドワードの視線から逃れるように。床の上についた手を見つめる。しかし、彼は見逃してくれなかった。
『―あのなぁ……』
ため息交じりに彼は言う。しかしその声はウィンリィをなじるわけでも、誹るわけでもなく、ただどこまでも優しい響きを持っていた。その優しすぎる声が、余計にウィンリィの胸を締め付ける。
『なんで、おまえが泣くんだよ』
『―だって』
言葉を継ごうとして、ウィンリィはハタと思い出す。思い出してしまう。こんなやり取りを、いつかどこかで同じように交わさなかったかと。
あれはいつだっただろう。燃えさかる炎に包まれた懐かしい家を前にして、エドワードとアルフォンスが佇んでいた。それまで生きてきた思い出の大半が詰まった家に火をかけたのは、他でもないエドワードとアルフォンス自身だった。紅蓮に焼ける夜空の下で、ウィンリィは思わず泣いてしまったのだ。その時に、エドワードは問うた。なぜおまえが泣くのかと。
『オレはな』
まるで小さな子供をあやすような、どこまでも優しい口調でエドワードは言葉を継いだ。
『後悔なんかこれっぽっちもしてねぇし。錬金術から解放されて―むしろ、せいせいしてるんだぞ?』
だから、おまえが泣くことじゃない。
ウィンリィは頷く。そして、首を振る。相反する二つの感情がウィンリィの中に交錯していた。泣くことではない―彼の言う通りかもしれない。事実、彼の声も表情も、どれをとっても後悔している風にはもちろん見えなかったからだ。彼が虚勢を張っているわけでもなく、ひたすらに事実を述べていることが痛いほどにウィンリィには分かっていた。
『なぁ、……泣くなって』
『―……うん。でも。でもね……』
パタパタと涙はとめどなく溢れた。手をついた床の上に、ほたほたと丸い染みを幾つも付けていく。
ウィンリィは見逃せなかったのだ。彼が一瞬だけ見せた苦い笑いを。彼は確かに後悔していないかもしれない。だが、感情は別にして、喪失には必ず何らかの痛みを伴う。それが例え腕であっても、錬金術であっても、変わらないのではないのか? 機械鎧の整備師として、ウィンリィは何人もの喪失者の痛みを見てきたつもりだ。それが肉体にしろ、肉体でないにしろ、痛みを伴うに違いないとウィンリィは分かっていた。それは、エドワードだって例外ではないだろう。代償として得られた物がかけがえのない物であることを分かっていても、痛いものは痛いのだ。それは曲げられない事実だった。それなのに、エドワードはそれを口にはしない。そしてこれから先も決して口にはしないだろうとウィンリィには分かっていた。
エドワードは絶対に「痛い」とは言わないだろう。アルフォンスの前では、絶対に。
それを悟ってしまい、だからウィンリィは泣いてしまったのだ。
『泣くなよ……ウィンリィ』
『だって』
ウィンリィは言葉を選ぶ。何を言えば的確なのだろう。彼がアルフォンスにはずっと隠し続けるであろう見えない傷を、改めて示したところで誰も幸せになんかならない。それを彼も知っているからこそ隠すわけなのだから、自分が泣くことはお門違いなのだ。示してみたところで、彼は言うだろう、「だって、錬金術はアルフォンスの身体を取り戻すために利用してたんだから」と。あっさりと、何の感情も籠めずに告げるに違いない。ウィンリィにはそこまで予想がついていた。
(すごいね、アンタは)
きゅっと軽く拳を作って、ウィンリィはひとりごちる。
(なんだって抱えちゃうんだ。アルにも……あたしにも隠そうとして)
その姿勢はずっと変わらない。彼がこれまで貫いているひとつの信念とも言うべき姿勢だった。それがすごいと思えると同時に、ウィンリィには哀しく映った。
(だったら、あたしも)
作った拳の上に涙が落ちるのを見てとりながら、ウィンリィは心に決める。
(あたしも、貫くわ)
『泣くなって。なんで泣くんだよ』
『―あんたが、泣かないからよ』
『は?』
ぐいと腕で顔を拭ってウィンリィはエドワードを見上げる。自分の顔はみっともなく赤く腫れているに違いない。それでも、涙に歪む視界の真ん中で、エドワードの顔を真っ直ぐに見ずにはいられなかった。
『あんたが、泣かないから代わりに泣くの』
痛みを痛いと言えないアンタの代わりに。
『……―』
エドワードは一瞬押し黙る。ウィンリィはそんな彼の表情の変化を逐一見逃さないと言わんばかりに真っ直ぐに見つめた。彼がウィンリィの意図する所を悟ったかどうかは分からない。彼がひた隠すのなら、わざわざウィンリィもそれを露見させるようなことはしない。ただ、貫くだけだ。これまでの生き方を。エドワードがそうするというのなら、自分だってそうする。
一拍の間を置いて、エドワードは小さく息をついた。
ぽん、とウィンリィの頭の上に手を置く。
『バーカ』
『!?』
エドワードは、心底呆れたぞ、と言わんばかりの顔をして、軽口を叩くように言った。
『次泣くときは、嬉し泣き。―そうだろ?』
『……あ』
『だから、そんな目して、泣くな』
ほれ、涙拭け。そう言いながらエドワードの指先がウィンリィの目尻に触れる。それは鋼ではなく、血の通った温かな指先だった。
交錯する感情は二つだ。彼の指が間違いなく温かいという、この圧倒的な事実と、それでも彼が痛みをひた隠しにしながら、泣くなら嬉し泣きで頼むと言ってくれる事実。それが嬉しいのと同時に、哀しい。相反する感情を身の内に纏いながら、複雑に絡む想いは涙となって溢れてくる。止まらない涙を憎らしく思いながら、ウィンリィはやっとの思いでひと言だけ言い返した。
バカはどっちよ、と。
サンプル1