chapter4
「臭いますね」
正十字学園の理事長であり、正十字騎士團日本支部の支部長でもあるメフィスト・フェレスは、開口一番それだけ言って、眉根をきつく寄せた。
「え!? え!? 誰!?」
理事長室に入ってくるなりの発言に、燐は慌てたように右往左往と視線を移す。
「君ですよ、奥村燐くん」
「俺!?」
そんなワケあるか! と燐は猛烈に抗議する。洗濯なら自分のだけならいざしらず、忙しい雪男の分だってきっちりやっている。風呂だって毎日入っているのだ。
「そんなこと言われましてもねぇ」
メフィストは困ったように肩を竦めて、理事長室の執務机に置いたティーカップをとった。ズッとひと口すすってアールグレイの味を堪能してから、口を開く。
「君から、虚無界の匂いがします」
「虚無界の匂い?」
問うた声は二つだった。雪男と燐は同じ言葉を発した者同士、一瞬きょとんと見つめ合う。
「ええ。虚無界には特有の匂いがありますからね。私はもう随分と嗅いだことはありませんでしたが」
そう言葉を継いだメフィストの出自は悪魔である。悪魔出身の身でありながら、この物質界において正十字騎士團の一員として騎士團に尽くしているのだ。
「なんで、兄さんから? あ、悪魔と接触したからでしょうか」
雪男の問いに、メフィストは首をかしげる。
「どうでしょう? 一時的に悪魔と接触しただけなら匂いはどんどん薄まっていくはずですから。……君の場合、匂いが薄まる気配がない」
「ンなこと言われてもよ……」
燐は困惑した表情でメフィストから視線を外し、隣に立つ雪男を見上げた。
二人はメフィストが詰める正十字学園の理事長室に来ていた。理事長室には年季の入ったアンティークが幾つも据えられ、メフィストのその風貌からは容易に連想することは出来ないような趣味に彩られている。
部屋の最奥には大きな窓が据えられ、正十字学園を含む、正十字学園町が一望できた。理事長室は正十字学園建物の最上階にあるからだ。その窓を背にして座るメフィストは、白いソーサの上に揃いのティーカップをカタンと置く。
「何か、虚無界に通ずる物を持っていませんか? こう継続的に匂いが続くとするなら、それしか考えられないのですが……」
虚無界に通ずる物……と呟いて、数拍の間ののち、「あ!」と声をあげたのは雪男である。
「……魔剣、倶利伽羅……―」
「へ?」
一瞬何を言われたのか分からずに呆ける兄を差し置いて、雪男は合点がいったとばかりにメフィストの顔を見る。
「いつかあなたは仰ってましたよね? 倶利伽羅には兄の炎の源である悪魔の心臓を封じてあると」
「ええ、いかにもその通りです」
燐がケースから取り出した魔剣・倶利伽羅を見つめながら、メフィストは大仰に頷く。
「君の炎は虚無界に置いてあります。倶利伽羅の刃は虚無界へと繋がっている。だから、倶利伽羅を鞘に収めていれば、青い炎は抑えられていた……今までは、ね」
しかしそれにしても……とメフィストは腑に落ちないという表情を浮かべる。
「倶利伽羅が虚無界へと繋がっているのは確かだが、この匂いが強まるというのは解せません」
もしや……と言いかけて、メフィストは小首をひとつ傾げ燐を見つめる。
「―もしや、倶利伽羅に何かあったのでは?」
「何か?」
雪男は身を乗り出して訊き返す。
「ええ、そうです。何かが……」
メフィストと雪男の会話を黙って聞いていた燐だったが、ふと思いついたように口にした。
「―確かめてみっか?」
コレ抜いてさ、と言って、燐はあっさりと剣の柄に手を掛ける。「あ、このバカ兄さん!」と雪男が罵倒するよりも早く、理事長室内を青白い炎が翻った。
「ほお……これはこれは……―」
引き抜いた剣の刃から、唐突に青いうねりが生まれる。その炎は、燐の身体を包むようにして、膨らみ弾けるように一気に放出された。
猫の目のような獰猛な眼差しをすと細めると、メフィストは感嘆をあげながらその青藍な炎を見つめる。
「分かりますか、奥村先生」
組んだ両手の上に顎をのせるようにして、メフィストは試すような眼差しを雪男に投げた。
「―これは」
黒い眼鏡の最奥で、雪男の眼差しに一点の確信めいた光が生まれる。
「こんなこと、あり得るんでしょうか……」
雪男の言葉にメフィストは肩を竦める。
「まぁ、物質界に存在するすべての物が、これから逃れる術はありませんからね」
あり得ると言えばあり得るんでしょう、とメフィストは無感動にそれだけ言い捨てる。
「おいおい、何だよ、二人して。俺にはちっともわかんねぇぞ!」
噴出する青い炎を身に纏いながら、燐が呆れた顔で怒鳴る。二人の会話の内容がさっぱりだったからだ。
「落ち着いて聞いてくださいよ、奥村くん」
メフィストは無感動に事実だけを伝えた。
「君の降魔剣にヒビが入ってます」
「エッ……!?」
一瞬、燐は何を言われたかわからなかった。しかし、メフィストも、雪男も一様に生真面目な顔をして自分を(というよりは倶利伽羅を)見ている。
青い炎に包まれたまま、燐は倶利伽羅の刀身を見つめた。よくよく見れば、鍔元に近い刃の部分に、二、三センチほどのヒビがぱっくりと入っている。
「先の事件で倶利伽羅を抜いた時に損傷したんでしょうね。それが原因で、虚無界への入り口が広がったのかもしれません。……―あくまで仮定ですがね」
メフィストは冷静に持論を展開する。
「どうすんだよ、コレ」
「……」
燐は倶利伽羅の鞘に刀身を収めた。雪男も燐と同様にメフィストの顔を見つめた。組んだ両手の上に顎をのせるようにして黙り込んだメフィストは、雪男と燐の顔を交互に見つめた。
「さて―」
「……」
「―どうしましょうかね?☆」
「!!」
おどけたように肩を竦めてそう言ったメフィストに、燐と雪男は揃って脱力する。
「どうしましょうかね?☆ ……っじゃあ、ねぇよッ!! そりゃこっちが訊きてぇよ!!」
「だってしょうがないでしょう?」
メフィストはあっさりと告げた。
「私は魔剣については門外漢です。悪魔の心臓を封ずる案は、もともと藤本神父の発案でしたからね」
「親父の!?」
「ええ。なにせ物質界のモノに虚無界のモノを封じ込めるなど前代未聞。封じ込めることで魔剣に与える影響まで考えてませんでしたからね☆」
「そんな……っ…いい加減な……」
頭を抱えるようにして呆れたように呟いたのは雪男だ。
「仕方ないでしょう。当時はそれが最善にして最速に打てる案だったわけだから」
「それは……そう、だったかもしれませんが……」
雪男は何か言いたげだったが、言い淀んだまま押し黙る。
その雪男の隣で、あっけらかんとした声で尋ねたのは燐だった。
「なぁ……―倶利伽羅が折れたら、どうなるんだ?」
「―ハイ?」
「―!!」
何を言い出すんだ、と雪男は隣に立つ兄を見下ろす。