「世界が君を忘れた日」(雪燐小説本サンプル)
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 またしても我に返った燐は、志摩が何を言わんとするのかが分からなかった。
「仲いいんだなーって言うとった時や。何考えてはった?」
「えーと……」
 なんだっけ? と明るく笑い飛ばそうとする前に、志摩に阻まれる。
「奥村センセのことやろ?」
「!」
 志摩は格好の話題を得たとばかりに、瞳の奥にキラリと一筋の光を宿らせる。
「なに? センセと喧嘩でもしはったん? わいでよければ相談に乗るし?」
 志摩のニコニコ満面の笑みに向かって、燐は慎重に言葉をかえした。
「な、なんでそーなる」
 どうやら志摩は何やら薄々と感じ取っているようなのだが、雪男と燐の関係は公には出来ない秘密だ。バカだバカだと色んな人に言われている燐でも、それ位のことなら理解出来ている。
 しかし、燐のすっとぼけ作戦はどうも分かりやすすぎるらしい。志摩は笑顔をいっぱいに弾けさせて、なおも食い下がった。
「誤魔化したって無駄やしな。奥村くんも奥村センセもごっつぅわかりやすうて……―」
 そう言いかけたときだった。
「―僕と兄さんが何です?」
「雪男!」
「うわっ!? 奥村…先生……」
 燐と志摩は二人して同時に声を張り上げる。教室の黒板の前には、いつの間にか雪男が立っていた。
「遅れてすみません。ですが、無駄話に興じているのを見ている限り、今日の悪魔薬学の宿題は完璧なんでしょうね? 志摩くんに奥村くん?」
 雪男の脅しともとれるその言葉に、志摩と燐は肩を竦めてみせた。「バーカ」と背後から小声を投げてきたのは神木出雲だ。燐はなんとなく面白くない。
 黒眼鏡の奥に張り付いた雪男の笑顔はよそ行きの物だろうと燐は知っている。と言っても、雪男が心の底から楽しそうに笑っていることなんて、最近ではついぞ見ないが。
「センセ、その人は……?」
 話題を変えるように口を開いたのは、今の今まで全く会話に入り込もうとしていなかった子猫丸だった。ブリザードの如く教室に吹き荒れる奥村雪男の冷たい笑顔に、肩を縮こまらせるしかない幼なじみの志摩を慮っての行動だろう。
 子猫丸の言葉に、教室内にいた塾生達の視線は、吸い込まれるように一点に集中する。教壇の前に立つ雪男の横には、少年がひとり立っていた。
「この人は転入生です。丁度これから自己紹介してもらおうと思ってたところで」
 気を取り直すように人差し指と中指を使って眼鏡をクイッと持ち上げた雪男は、少年に白チョークを手渡す。「少年」と表現するには、彼はいささか大きすぎた。燐は首を仰ぐようにひねって、その少年……と言うよりは男と形容したほうが相応しい人物を見上げた。教壇の前に立つ雪男と並ぶと、男のほうが背は高い。雪男の身長は一八〇センチであるから、それ以上ということになる。彼は受け取ったチョークで、几帳面に己の名を縦に大きく書いた。
「柳賀正樹です。歳は一六で、ヴァチカンにある祓魔塾から事情あって転校してきました」
 よろしく、と言う声は明瞭でよく透る。男にしては肌が色白だったが、不健康というほど青白いわけでもない。ブラウンがかった短い髪は見るからに猫っ毛で、癖ひとつ見当たらない。
「外人やろか……? にしては、名前は日本人やし……」
 ボソボソと呟くのは、燐の後ろに座る志摩だった。志摩の隣で、ひそひそ声を受け止めるのは子猫丸だ。
「いえ、ボクは日本人ですよ」
 志摩の問いが耳に届いたのか、柳賀はあっけらかんとした声でそのひそひそ声を否定した。
「ワケあってヴァチカンで暮らしてましたが、生まれは日本です。生まれ故郷に帰ってきて、祓魔師の勉強が出来るなんて嬉しいし、なにより……」
 そう言って、柳賀はちらりと雪男を横目に見る。
「なにより、ヴァチカンでも有名な奥村先生の元でこうして学べるのが嬉しいんです」
 ん? と眉根に皺を小さく刻んだのは燐だった。
「まぁ、そう言って貰えるのは嬉しいですが、僕もまだ修行中の身ですから」
 柳賀の言葉に、雪男は言葉少なく返した。
「だとしても、先生はヴァチカンでも天才とよく謳われている方ですから。こうしてお会いできるのが光栄なんです」
 するすると流暢に編み出される讃辞に、雪男は否定する言葉をそれ以上持たず、ただ苦笑する。そんな柳賀と雪男を、燐は少し離れた席から、座って眺めていた。
(なんだ、あいつ)
 場をいとわずに和やかに談笑を始めてしまう柳賀に、なぜか燐の胸内はざわざわと鳴り、落ち着かなかった。その横で、満更でもないように笑顔を浮かべている雪男を見るのも、落ち着かなかった。
「奥村くぅん」
 不意に背後から小声が落ちてくる。耳のすぐ傍をくすぐるようなひそひそ声の主は志摩だ。
「だいじょーぶ?」
「は?」
 身体半分ほど振り向いて、燐は目を瞬かせた。志摩が何を言いたいのか分からなかったからだ。
 志摩はくッと目を細めて、悪戯っぽい笑みを噛み殺すように小さく告げた。
「なんや、後ろから見てると、奥村くん、妬いてるように見えてもうて」
「え」
 妬いてる、だと? 一瞬、言われた意味を本気で分からなかった。呆けたように口を開け、茫然と志摩を見る。
「そこ。さっきからウルサイですよ」
 矢のようにビシリと飛んできたのは雪男の声だ。あ、と燐は小さく息を呑んで、志摩と雪男の顔を交互に見た。
「奥村くん。そんなに喋りたいなら、悪魔薬学のテキスト九三ページから全部読んでもらいましょうか?」
 燐はぶんぶんと首を横に振り、ケッコウデスとたどたどしく断った。
「?」
 なんだ? と雪男は眼鏡の奥で眉をひそめる。何かを取り繕うように首を振って目を逸らした兄の顔がやたらと赤く見えるのは気のせいだろうか。
「奥村くん」
 雪男はずいと足を踏み出し、燐が座る席の真ん前までやって来る。
「な、なんだよ」
 目を左右上下に落ち着きなく泳がせながら、燐は雪男を見上げた。志摩にひたりと言われた単語―妬いている―が、脳裏にこびりついて離れない。
(誰がだ)
 燐は、志摩を恨めしく思いながら心の中で言い捨てた。背後に座る志摩の顔は、今は見えなかったが、きっと笑っているに違いない。からかって楽しんでいるのだ。
(誰が、誰に、妬いてるってンだよ)
 悔しい。燐は自分が緩やかに腹を立て始めていることに気づいていたが、なぜ腹が立っているのかはわからなかった。とにかく腹立たしいのだ。目の前の雪男も、いちいち言われたくないことを言い当ててくる志摩も、そして目の前の転入生も。
 身の内にふつふつと湧く感情を整理しきれないまま雪男を見上げれば、おもむろについと手が伸びてきた。ぎょっとして、燐は思わず肩を竦める。
 雪男の手は、ひたりと狙いを定めて燐の額に落ちてきた。
「……なんか、熱ない? 兄さん」
「エッ!」
 頓狂な声を上げたのは勝呂だ。
「奥村くん、風邪かいな」
 志摩の言葉に、すかさず勝呂が応じる。
「んなワケあるかい。バカは風邪ひかんて言うやろ」
「勝呂、てめぇ、誰がバカだって!?」
 さすがに聞き逃せない言葉に、燐が喰ってかかろうとするのを、どうどうと間に入って諌めるのは雪男だ。
「はいはい、喧嘩は後にしてくださいね。―奥村くん、ちょっと来て」
「え、何。俺、大丈夫だぞ」
「いーから」
 雪男は燐の腕をむんずと引っ掴むと、引きずるようにして講義室の出入り口へ向かう。燐は慌てて、魔剣・倶利伽羅の入っているケースだけは持ち出した。それは肌身離さず持つようにと言われている。
「他のみなさんは、ちょっと自習をお願いします。―柳賀くん、空いてる席に座ってくださいね。勝呂くんに前回の講義内容を聴いて下さい。―勝呂くん、頼みます」
 テキパキとした口調で明瞭に指示を出すと、雪男は燐を引きずって講義室を出る。
 講義室の扉をパタンと閉めると、それまであった喧騒が嘘のように、祓魔塾の廊下は静まり返っていた。
「雪男。おい、雪男ってば!」
 掴まれた手首が痛い。足取り早く廊下を進む弟の背を、燐は困惑した面持ちで見上げた。
「俺、大丈夫だってば!」
「医務室にいこう」
「やだよ。いちいちどうこうするような大事なことでもないし」
 燐のその言葉に、雪男は足を止めてくるりと振り向く。祓魔塾の廊下には、燐と雪男以外に誰もおらず、辺りはひんやりとした静寂のみが横たわっていた。
「―寝てないでしょ」
「え」
「兄さん。寝てないんでしょ」
 眼鏡の奥の瞳は、物静かに、しかし真っ直ぐに燐を捉え、離さない。怒っているような眼差しに、燐はうろたえる。いつもの燐なら、強気で突っ撥ねていたはずだった。しかし、言い当てられた瞬間に、脳裏を巡ったのはあの夢だった。
(くそ)
 燐は心の中で舌打ちする。雪男を巻き込みたくないし、心配もかけさせたくない。ただでさえ、昔から「出来のいい弟、出来のいい兄」などと比較されて、雪男には心労をかけていたのに。
「―別に」
 燐は目を逸らす。雪男の視線から逃れるように。
「嘘つかないでよ、兄さん」
 兄の手首を握る力をさらに籠めて、雪男は問う。顔色が悪いし、いつもよりも覇気がない兄を見て、なんとなく雪男は今朝のことを思い出していた。『俺、忘れないからな』と、どこか己に言い聞かせるようにして兄がぽつりと呟いていた。あの時はさして気にも留めなかったが、いつもと様子が違う兄に、何かの予感めいた物を覚えたのだ。
「嘘、なんか、ついてねぇし」
 視線を逸らしたまま燐は言った。しかし次に落ちた重たい沈黙に、誤魔化しきれていないことを悟る。
 ハハ、と燐は笑った。顔をあげて、雪男を見上げる。生真面目な表情を浮かべて自分をじっと見つめてくる弟に、どこかおどけたような口調で、軽く言ってみせた。
「―お前としすぎて、疲れちまってるだけかもな。ほら、朝も言ったろ? 最近しすぎて心配〜ってさぁ……」
「……」
 しかし、雪男の表情は晴れない。おどけて言って見せる兄のすべてがわざとらしくて、誤魔化されているのがあまりにも容易にわかってしまう。
「とにかく」
「……」
「そんな顔で講義を受けても頭に入らないと思うよ」
 ちょっと寝てきたらいい、そう雪男が言いかけたときだった。
 ふと雪男の目が小さく見開かれる。それは燐も同じだった。二人してハッと踵を返し、その気配がする方へと居直った。
 コツ、コツ、と響くのは靴音だ。しかし、祓魔塾のフローリングされた床の上を歩いているにしては、靴音が甲高すぎる。薄いガラスの上をカツカツと歩いているようなそんな音だった。音は次第に近づいてきて、廊下の真ん中に立ち尽くす雪男と燐との距離を詰める。
 不意に姿を現したのは、黒い人影だった。ひょろりと背が高く、物腰は細い。その人影がゆっくりと近づいてくるに従い、雪男と燐の目は、一様に見開かれる。眼前に立つ男に見覚えがあったのだ。
「……―バカ、な」
 ありえない。雪男は歯をギリと食いしばり、近づいてくる影と距離を取るように後ずさった。雪男同様、燐もまた信じられない思いで眼前の人影を見つめる。
(あいつは、死んだはずなのに)
 燐の瞳の瞳孔はきゅッと締まり、驚愕にぶれる視界をなんとか見据えようと躍起になる。影はつい先日まで見慣れすぎていた物腰で、カツカツと足音を立てながら近づいてくる。眼鏡をかけ、黒いカソックを身に纏い、首からは祓魔師である証をぶら下げている。そのいでたちは、あまりにも懐かし過ぎた。燐は呆然と声をあげた。
「なんで、ここに親父がいる……―?」



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