「倶利伽羅が折れるとでも!? あ、まさか折る予定があるとか言うんじゃないよね?」
「ンな予定、あるわけねーだろ! 実際、折れそうになってンじゃん? いざ折れたらどうなるのかなぁと」
素朴な疑問だよ、と燐は慌てて付け足した。雪男の剣幕に内心たじろいでいたのだ。
「そうですねぇ」
燐の疑問に答えたのはメフィストだった。
「倶利伽羅は、君の悪魔の心臓を封じた『部屋』へのいわば『鍵』ですからね」
「部屋? 鍵?」
きょとんと小首を傾げる燐に、まぁ例えですから聞いてください、とメフィストは言い足す。
「仮に折ってしまえば、君は心臓を制御する鍵を失うことになる。虚無界へ置いた君の心臓は元々は君の一部ですから、心臓は君の元へ還ろうとするでしょう。―ですから、虚無界への扉が開かれ、君は物質界の生き物でありながら虚無界の炎に飲み込まれることになる」
「…―」
燐は言葉を失う。それは雪男も同様だった。
「倶利伽羅を―」
雪男は記憶を巡らせながら呟くように言う。
「さっき出現した悪魔は、倶利伽羅を渡すよう兄に迫っていました。つまりは…」
メフィストは雪男の言葉を引き継ぐように言った。
「つまりは、虚無界への誘い。……虚無界の王からの使者でしょうな」
「!!」
虚無界の王・サタンは燐を付け狙っている。その目的は燐にも雪男にもわからない。
兄にまた危険が及んでいることを悟り、雪男の胸内の鼓動は早鐘を打ち始める。祓っても祓っても悪魔はやって来るのだ。まるで終わりがない。
まぁとりあえず、と言い置いて、メフィストはパンッと手を叩く。
「倶利伽羅のヒビの件はこちらで考えておきますよ。その侵入してきた悪魔とやらについても調べさせましょう。とりあえず今はそれで」
「はい」
雪男は頷く。兄を促し、理事長室を後にしようとした時だった。
「ああ、奥村先生」
メフィストが雪男を呼び止める。
「奥村くんは帰っていいです。……―先生は、ちょっと、お話したいことがありましてねぇ」
「?」
燐は怪訝そうに小首をひねったが、弟に先に行っててと言外に促されたら従うしかない。
燐の背中が理事長室の扉に消えるのをしっかり確認してから、先に口火を切ったのは雪男のほうだった。
「ちょうどいいです。僕も貴方にお聞きしたいことがあった」
「ほう?」
メフィストの下がり気味の目尻がぴくりと反応する。
「なんでしょうね? まずは先生のほうが先に」
「本日転入してきた柳賀くんについてです」
「彼が何か?」
「ヴァチカン下の祓魔塾からの移動とのことで、プロフィール拝見しましたが問題はないです。……が、どうしても解せない」
「何がです?」
「祓魔の技量は候補生の域を超えています。なぜ彼は候補生なのですか」
「なぜ、と言われましてもね」
メフィストは肩を竦めた。
「私はヴァチカンからの依頼で、候補生の転入を許可しただけ。書類審査その他諸々の手続きには問題はないように思いましたが」
「ですが」
雪男は口について発しかけた言葉を思わず呑みこむ。あの男は行方不明でかつ反逆の疑いがある祓魔師に似ている気がするのだと。それは根拠も論拠も何もない。雪男のいわば『勘』のようなモノだった。そして、そういう勘を責任なく口にするのは我慢ならないのが雪男の性格だった。
「―いえ。何でもありません」
飲み込んだ言葉の代わりに、雪男は思ってもいないことを口にする。組織の中に身を置くということは、常に己の感情と行動が不一致にならざるを得ないことがままにあるということをよく分かっていた。
「しかし今回は、先生らしくありませんねぇ」
何やら言い含めるように、メフィストはゆっくりと言葉を継いだ。
僕らしくない? 雪男は眉根をわずかに寄せながら、何がです? と問う。
「いえね、今回の悪魔出現についても奥村先生おひとりで対処なさったかと思っていたら、処理したのはその候補生だとか」
「……」
「候補生程度に祓魔出来る対象だったのでしたらあまり気にしなくても良いのでしょうが、仮にも侵入者です。先生が処理すべきモノだったのでは……? と思いましてね」
雪男は押し黙った。もちろん、雪男はあの悪魔を処分するつもりだったのだ。たとえ、生前の養父の姿をしていた悪魔だったとしても、容赦するつもりはなかった。あれは、養父ではないのだから。養父は死んだのだから。
「なぜです? 何か邪魔立てでもあったんですか?」
「……」
「いつもの奥村先生なら迅速に対処できたでしょう。候補生の手など借りずとも」
「……」
メフィストが何を言わせたいのかがなんとなくわかって、雪男は小さく唇を噛む。
「―僕の、技量不足でしょう」
しかし、メフィストはあっさりとその言葉を否定する。
「心にもないことを言わないでくださいよ、奥村先生」
「……」
押し黙った雪男の表情を伺うようにねっとりと観察しながら、メフィストは核心をつく。
「―奥村燐、じゃありませんか」
「!」
僅かに動く雪男の表情を、メフィストはじっと見つめながら言葉を続けた。
「奥村燐があなたの仕事を邪魔したというのなら、ゆゆしき事態です」
「そういう、わけでは―」
「奥村燐はあなたの兄であると同時に、サタンの血を引く者……つまり我が騎士團にとってはかなりの危険因子です。もしあれがサタンの手に堕ちるというような不測の事態は避けなければなりません」
何が起こるか分かりませんからね、とメフィストはとつとつと言葉を紡ぐ。緩やかにその表情を硬くする雪男の顔を真っ直ぐに見上げながら、メフィストはなおも言った。
「もし、彼がサタンの手に堕ちるようなことになれば……」
「……」
メフィストはあっさりと言い放った。
「そうなる前に、奥村燐を処分します」
処分。雪男の頬の肉がピクっとひとつ痙攣する。唇を引き結び、それが震えないように押さえ込むのがやっとだった。そう、これは既定路線なのだ。元々、メフィストは燐に出会った当初から、騎士團の名のもとに燐を排除しようとしていた。それが本音なのか建前上の行動なのか、雪男には図りあぐねていたが、少なくともこの正十字騎士團という組織に身を置くならば、サタンの落胤などという危険分子はさっさと殺せ、という考えが主流のはずだ。
それを今まで何かにつけ引き延ばしてきた。サタンの落胤が武器になるかもしれない、などと言って。だがどんなに取り繕おうと、物質界の障害になる存在だと判断された瞬間、兄の命はなくなる。雪男はそれをわかっているつもりだった。
だがこうして、長年の顔見知りでもあり、養父の友人でもあるメフィストに明言されると、この現実の逼迫感はなおいっそう違ってくる。
ひたひたと雪男の胸内に満ちるのは絶望感だった。諦めたつもりはない、だが、この組織にいる以上、こう言わねばならないのだ。優秀な雪男にはそれがよく分かっていた。
「もちろんです、フェレス卿。―もし、そうなった場合には」
「……」
ひと呼吸置いて、雪男は告げた。
「そうなった場合には、僕が兄を殺します」
メフィストの両目が、まるで獲物を狙い定めた猛禽類のそれのように、ねっとりと細く引き締まる。
「いいでしょう」
破顔してメフィストは頷いた。
「その言葉、……私は現実のものにならないよう祈っていますよ」
どうだか、と雪男は心の中でそのメフィストの言葉を唾棄した。悪魔出自のこのメフィストは、上層部から信用されていない。雪男は養父の手前、そんな色眼鏡でメフィストを見るのはやめたいと願っていたが、たまにこのメフィストの思惑が分からなくなることがままあったのだ。
失礼します、と言い置いて、雪男は理事長室を出ていく。その背が扉に吸い込まれるのを確認して、メフィストは回転椅子の背もたれにどっしりと深く身体を預けた。ふぅう、とひとつ息をつく。
「人の営みは、中道にして病みやすい……―」
メフィストはくるりと回転椅子を回して、窓の外、眼下に広がる街並みにねっとりと視線を移し、誰にともなくぼそりと呟いた。
「さて、あなたはどちらに進みますかね……? ―奥村先生」
(本編つづく)