chapter2
「転入生?」
その言葉に、頷いたのは志摩廉造だった。
「なんでも、今日からここに入塾しはるとか」
へえ、と声をあげたのは勝呂竜士だった。祓魔塾の講義室には、燐と同級生であるいつものメンバーが集まっている。
勝呂や志摩は、同じ京都の出自からか、行動も一緒にしており、席も近い。
「ココ、途中からも入学できるんかい」
「さあ? どうなんですやろ? それより、男か女か、気になりまへんか。わいは勿論……―」
志摩の言葉に、勝呂は呆れ顔で言葉を継いだ。
「―女がいいって? ったく、他に考えることはないんかいな」
呆れ顔で勝呂に言われて、だってなぁ、と志摩は頭を掻いて三輪子猫丸を横目に見る。しかし、同意も否定もしない子猫丸を見て、志摩はターゲットを別に絞る。
「なぁ、そう思わへん? 奥村君」
「―へ?」
何の話だ? とキョトンとした顔で振り向いたのは燐だ。燐は、講義室のど真ん中の列の、しかも一番前の席に座っていた。講義室の真ん前にある黒板を背にして立つと、燐が座る席の右斜め後方の辺りに、勝呂ら三人は固まって座ることが多い。
「今日、杜山さんはお休みやし、こっちに来はったら?」
燐はぼうっと黒板を眺めていた。志摩の言う通り、いつも隣に座っている杜山しえみは欠席で、今日の燐はひとりだった。授業はとうの昔に始まっているはずなのに、この時間を担当する悪魔薬学の講師……つまり燐の弟でもある雪男が一向に姿を現さない。いつもならしえみと手持無沙汰に話をしているだろう。だが、今日は隣に話をする相手がいないのをいいことに、目の前の黒板をぼうっと穴が開くほどひとりで眺めていたのだ。明け方に見た夢を、どうしても思い出してしまっていた。
トントンと軽く音を立てて、こっちこっち、と志摩に示されたのは、勝呂が座る席の隣だった。途端に、勝呂が嫌そうに顔を顰めてみせる。
「こら、志摩! 何であんな奴、こっちに呼ぶんや!」
「まーまーええじゃないですか、坊。―奥村くん、こっちこっち」
「お、おう…」
ぼんやりしていて話を全く聞いていなかった燐は、とりあえず断る理由もないし、と志摩に言われるままに席につく。
「―で、どっちやと思う? 女か、男か、女か……」
「二回も女言う必要ないやろ」
「坊には聞いてまへん。わいは奥村くんに聞いてますのや」
ね、と同意を求めるように志摩はへらりと笑う。えーと、と燐は人差し指の先でポリポリと頬を掻いてから、あっけらかんと言った。
「わりぃ。何の話だ?」
「―聞いてなかったんかい!」
とりあえずツッコみを入れるのは勝呂だ。
「転入生やて。この中途半端な時期に、途中から入れるんやろかって、話をしてたとこなんやけど―」
志摩は苦笑いを浮かべつつも最初から話を説明する。ほうほう、と燐は素直に聞き入れた。
「ほら、中途半端な時に中途半端に人が入れ替わると面倒なことになりそうですやんか。この間の先生の時といい」
この間の先生、と言って志摩が誰を指しているのかは、燐もわかった。つい先日、剣技の講師としてヴァチカンからやって来た中二級祓魔師がいたのだ。彼はすぐに辞めていなくなってしまったのだが。名を、阿守光流と言った。
「阿守センセ、どうして急にいなくなったんやろな? 噂じゃ、懲戒解雇とか聞いてんねんけど……」
志摩の声が遠くなっていく。しばらく思い出していなかったのに、ほんの数日前に起こったその事件を脳裏に呼び起こして、燐はみるみる気が滅入る。いなくなった教師というのは、雪男とは祓魔塾の同期だったと言う。雪男とは同期であると同時に、祓魔塾での成績一、二位を争う仲だったらしい。サタンの手に燐を渡そうと画策した祓魔師・西条と共にいたもう一人の祓魔師が、阿守だった。辛くも虚無界への扉は開かず、燐がサタンと会うことは阻止されたが、燐の誘拐を止めるために雪男は大怪我を負った。西条は捕えられ、西条の計略に加担していたとされる阿守は逃走し、今に至る。
あの事件が示すのは、燐が常々サタンに狙われている、ということだった。そして、それはつまり、雪男をむやみに巻き込んでしまっているということでもあった。
(あの夢も、何か関係があるのか)
明け方に見てしまった夢に、燐は想いを馳せる。対峙した悪魔は自分と同じ顔をしていた。その同じ顔をした悪魔が囁いていた。自分をここから出せ、と。ここ、というのがどこなのか、燐にはわからなかったが、あそこが雪男のいない世界だということは分かった。誰からも忘れられた、たったひとりだけの世界。その世界で、同じ顔をした悪魔に言われたことが、なぜか燐にはとてつもなく恐ろしいことのように思えたのだ。
サタンは燐を狙っている。あの事件で確信できた事実だ。そして、その手は緩まったと言えるのか。また、新たな手が来るのではないか。また雪男を傷つけてしまうのではないか。その予兆のような気がして、燐の心は晴れなかった。あの影を忘れることが出来たのは、雪男に抱かれた間だけだった。
「まぁ、阿守センセのことはどうでもいいんやけど、とにかく、転入生について、奥村センセとかから何か聞いてないやろかって思って……って聞いてる? 奥村くん?」
不意に耳裏に戻ってきた志摩の声に、ハッと燐は我に返る。
「あちゃあ、奥村くん、また聞いてなかったんか」
「あ、わ、わりぃ……」
志摩は大仰に溜息をついて見せた。ええよええよ、と燐をフォローするのは、意外にも勝呂である。
「こいつの下らん話に付き合っとったら、時間がいくらあっても足りんわ」
「あ、坊、そないにツレないこと言わんといてくれます?」
燐はぼんやりと勝呂と志摩を見比べる。ふと気が付いたら、思ったことを思ったままに口にしていた。
「お前らってさー、仲いいのな。そうやって何でも言い合って」
「へ?」
「はぁあ?」
燐の言葉に、勝呂と志摩は同時に反応した。二人とも「冗談やめてくれ」と言わんばかりの形相だ。
「これが仲いいように見えるか? お前の目ぇは大丈夫か?」
「坊とは幼なじみで腐れ縁ですよって、自然とこうなるっちゅうか……―」
なぁ? とお互いに顔を見合わせた勝呂と志摩は最後のその同意を求める言葉だけは二人して一致した。
「やー…やっぱ、仲いいぞ、お前ら」
うんうん、と納得したように燐は腕を組み、二人の顔を交互に見た。
(俺らは、違うなァ)
頷きながら、燐は雪男を想う。
仲が悪いわけではない。むしろ、人には言えない行為に二人して毎日耽っているのだから、仲が悪いと形容するのは不適切だろう。だが、こんな風に飾り立てなく腹を割って話をしているような雰囲気が燐には羨ましく映った。雪男とは、身体をこれ以上ないほどに近づき合って重ね合っているというのに、たまにふと想ってしまう。
雪男が遠い、と。
どこか遠い所に弟が立っているような気がして、燐はそれが不安だった。だからその不安を埋めよう、埋めようと身体を求めてしまう。一度知ってしまった身体を繋ぐ快楽は、以後も知れば知るほどに、さめざめと溺れていく自分がいた。しかし、求めれば求めるほど、なぜだか雪男との距離は広がっているように思えて仕方なかった。愛を告げても、身体を繋げても、埋まらない溝がそこにある。それはもしかしたら、雪男は人間なのに、自分は悪魔の血を引いていることが関係しているのかもしれなかった。似ていない双子だね、と言われることならよくあったけれども、幼い頃からずっと一緒にいて、それはこれからも変わらないと思っていたのに、気が付いたら実は雪男と自分は生きている次元が、世界が、違うのではないかと、ふと思ってしまうのだ。
「奥村くーん」
志摩の声が不意に耳裏に落ちてくる。
「今、何考えはってた?」
「え」