その言葉に、燐は思わず頭を抱えてしまいたくなる。まだする気かよ! と。昨晩だってイヤになるくらい身体を貫かれたのだ。……いや、もちろん、イヤというわけではなかったのだが、そう雪男に思われるのは癪だった。俺のほうが兄貴なのに、弟のほうにいいように手玉にとられてカッコわりぃ。カッコわりぃ位、弟にゾッコンで悔しくてたまらない。
「俺、別に、遅刻とか、ンなこと心配してねぇよ!」
ジタバタともがきながら、燐はとりあえず抵抗を見せる。ここで簡単に折れたら、ますます自分がダメになってしまうような、そんな得体の知れない不安があった。ダメになるというよりも、弟無しにはおられない自分になってしまうのではないかと。それがいいことか悪いことなのか、今この時点で燐が判断するのは難しい。しかしわかることもあった。
(怖い、かも)
疼き始める身体に、半ば諦めつつも燐は雪男の下で抗った。抗うフリをした。あの夢を思い出しながら。すべてに忘れられてしまった世界で、たったひとり、悪魔と対峙するしかないあの怖い夢を思い出していたのだ。
あんな日が来るなんて思わない。思えない。思いたくもない。しかし、現実の自分はどうだろう。弟のいない世界に放り出された時、今の自分は本当に耐えられるのだろうか。身体を繋ぐ禁断の喜びを知ってしまった自分に。
燐の胸内を知ってか知らずか、雪男は有無を言わさない勢いで唇をどんどん這わせていく。燐の胸元から、鎖骨の辺り、そして腹部へ……。
「じゃあ、何、心配してるの? 兄さん」
「べっつ、に…!」
ふ、と雪男は目を細める。ちろっと舌を出して、兄の臍の周りを、円描くように舐めた。
「教えてくれたら、これ、途中で止めてもいいけど」
「……」
燐は押し黙る。一瞬考え込んでしまう。不意に生まれた沈黙が何を意味するのか、雪男は兄の身体を舌で愛撫しながら想像する。
「……―心配つーか、お前、最近しすぎだから、大丈夫か…? っていう心配なら」
は、と雪男は笑った。兄の答えがあまりにも嘘臭くて、嘘でしょ、と指摘する気にもなれない。
「別にいいんだけどね、僕は」
「……」
「兄さんが何を隠そうが、何を忘れようが」
「!」
先ほどついこぼしてしまった言葉を捉えるように言われて、燐は思わず息を呑む。一瞬硬直した兄の身体に触れながら、兄の挙動のひとつひとつが何を意味するのか雪男は想像し、推し測ろうとする。
「兄さんが何かを忘れないって言うなら、僕も同じように忘れないようにするよ」
「……!」
燐の両瞳が瞠目する。気が付けば、それは欲しかった言葉かもしれなかった。弟が同じものを意図して言ったかはわからない。それでも欲しかった言葉だ。
押し黙ったままの兄の顔を覗き込んで、雪男は促すように言葉を継いだ。
「それで、いい?」
震えるように何度も瞬きを繰り返した瞳が、雪男を真っ直ぐに捉える。それでいいか、と訊かれて、ダメだと言えるはずがなかった。
(お前、すげぇ)
欲しかった言葉を、こういとも簡単にくれる。まるで燐のすべてを雪男はお見通しのようだった。燐は、雪男が何を考えているのか、わからなくなることが時々あるというのに。
燐が返事するのを雪男は待たなかった。再度、燐の唇の上に唇をのせる。まるで蓋をするように。返事など不要、とでも言いたげに。
キスを落した後には、何事もなく行為を再開する。今度は、燐は抵抗しなかった。蕩けるような快感が、次第に燐の中を占めていく。身体の至るところに口づけられて、どんどん欲せずにはいられなくなる。知ってしまった快楽を、あの夢のように失う日があるかもしれない、と慄きながら、それでも欲求には逆らえなかった。
雪男の口づけは優しい。そして、容赦ない。焦らすように全身を舐められて、燐の身体はこれ以上ないほどに熱を帯びていく。忘れる日など来ないし、忘れられる日もまた来ないだろう、そう根拠のない思い込みをしながら、今はただ、目の前に差し出された快楽に、何も考えずに甘んじたかった。
「ゆ、きぃ」
二人きりの時にしか呼ばない名で、最愛のひとを呼んだ。何、と返ってくる声は低くそして優しい。汗ばんだ背中に、同じく汗ばんだ己の腕を回して、身体を寄せる。身体がぴったりと密着出来ないのは仕方ない。お互いに同じように頭をもたげた欲望が、痛いほどに腫れて膨れ上がっていた。切っ先をだらだらと汚しながら、それを雪男の腹部に押し付ける。雪男のそれも、広げた燐の両脚の間に収まろうとしていた。
思わず動いてしまう腰に情けなくなりながら、燐は請う。
「いれて」
誰にも見せられない。誰からも許されないこの行為を、淫らに希う。
いいよ、と雪男は言わない。言葉ではないモノで与える。汗ばんだ身体をがんじがらめに抱きしめ合いながら、燐は雪男を受け入れた。身体を重ねて、ぐちゃぐちゃに掻きまわされてしまえば、あんな夢など忘れるに違いない。忘れていいと、思えるに違いない。そう想いながら、至福に満ちた弟との行為に燐は没頭し始めた。