「起きた?」
静かなその声は、聴き慣れ過ぎている彼のものだ。
「ゆ、きお……」
掠れた声で名を呼べば、「何?」と低い声が返ってきた。その事実に、燐はただただ安堵する。
「すごい汗」
まだ眼鏡を掛けていない弟が、ぬっと視界を占める。覗き込むような目をして、おもむろに額に手を当てられた。
「熱は、ないみたいだけど。顔、すごい赤いよ、兄さん」
どうしたの? と言いかけた言葉はふと立ち消える。雪男の隣に寝ていたはずの燐が身を乗り出したからだ。同じベッドスペースに、二人して横たわっていた。あてがわれた正十字学園旧男子学生寮の部屋には、壁に埋め込まれるようにして作られたベッドスペースが雪男と燐それぞれ与えられていた。しかし兄である燐は、いつの間にか雪男のベッドスペースに潜り込んでくることがよくあった。
ギシッとひとつベッドが軋んで、雪男は燐のキスを黙って受ける。
「……―どうしたの、兄さん」
口づけは一瞬だけ。すぐさま離れていくその温もりを名残惜しく思いながら、雪男は静かに問う。汗だくの兄の身体は半裸に剥かれていて、明け方の群青色の空気に包まれた寮の部屋の下でも、はっきりと昨夜の情事の痕が見えた。
互いに横たわったまま、燐は雪男の首筋に鼻先を埋めるように身体を密着させる。
「……いやな、夢見た」
「いやな、夢?」
ああ、と燐は重苦しく頷く。今にも頭痛が蘇ってきそうな気がして、一瞬身構えてしまう。悪魔の夢……まさしく悪夢と形容するのが相応しい内容だった。
「どんな夢?」
燐の髪を梳くようにして指先を絡めながら、雪男は尋ねる。雪男は少し前から目が醒めていた。隣で寝ているはずの兄のうなされっぷりが尋常ではないこと位わかっていたのだ。
「……いや。……なんつうか、何でもない」
燐は首を振って、低い声でそれだけを呟く。同じように半裸に剥かれた雪男の胸元に鼻先を寄せて、ほっと息をついた。夢から醒めたその先に、この温かみがある。この現実が、ただひたすら幸せだった。
(ありえない夢だ)
こびりついた影の形相を、頭から振り払おうとする。自分を鏡越しに見ているような気持ちで対面するしかなかった、あの悪魔を。
「雪男」
弟の身体に腕を回したまま、燐はその名を呼んだ。間を置かずに優しく落ちてくる「何?」という声に、ただひたすら安堵しながら、燐は請うように呟いた。
「俺、忘れないからな」
「は?」
ぽつんと呟いた燐の声は、低いながらも雪男の耳にはきちんと届いている。何を想って兄が唐突にそんなことを言いだしたのか、雪男には皆目見当はつかない。どこか顔色の悪い兄、そして先ほどまでおそらく夢にうなされていたということを鑑みて、その夢に関連することなのだろうと想像するのは難しくなかった。ただ、兄は夢の内容を口にしたくはないようだった。
「忘れないって、何が?」
「……」
燐は弟の疑問には答えなかった。硬く目を閉じると、なおも雪男にしがみつくように、回した腕に力を籠める。トクトクトクと早鐘を打っている心臓の音は、雪男の物だ。その音にほっとしていた。あんな誰からも忘れられた世界ではなく、この暖かな場所に戻ることが出来て、心の底から安心した。あんな夢など忘れてしまえばいい。自分が雪男のことを忘れるなんてあり得ないのだから。
(だけど、……雪男は―?)
ふと胸内に落ちてきた問いに、燐の思考は硬化する。同じ布団の中で、裸になってこんなことをするような仲になったが、この関係が許されない物であることくらい、鈍い燐でもよく理解しているつもりだった。いつ壊れるかもわからない。
燐は雪男にしがみつきながら、唇を噛んだ。
(疑うなんて、どうかしてるぜ)
この温かな胸があればそれだけでいい。今はそれ以上望むのは欲張り過ぎる気がする。それほどに、分かち合ったぬくもりは贅沢で、かけがえのないもので、何にも替えられない存在だった。これさえあれば今はそれでいい、と満足してしまえるほどに、燐は至福の中にいた。
燐が何か言葉を返してくれるのでは、と雪男は待ったが、返事はない。しかし、雪男はそれ以上追及しようとはしなかった。無理に訊きだそうとしたところで、兄の性格を想えば徒労に終わるのは目に見えている。一度言い出したり決めたりしたら、論破しようが何しようが、翻意しないのが兄だった。そんな猪突猛進な性格が災いとなったか否か、今となってはどう判断すべきかわからない。魔神の血を受け継いだ唯一無二の存在でありながら、そのサタンを倒すという荒唐無稽な言葉を発したのは、兄のその性格に由来するものであることを雪男は重々承知していたのだ。
(言わないなら別にいい)
しがみつくように身体を密着してくる兄を、雪男もまた抱きすくめる。燐の身体は腕の中にすっぽりと収まってしまった。
(僕もまだ、あなたに言っていないことがたくさんある)
だから、あえて訊かない。自分もあえて言わないから。
その代わりのように、雪男は行動で示す。腕の中に抱えた兄の身体を、シーツの上にころんと転がすようにして組み敷いた。
「雪男……?」
驚いたように目を丸くして見上げてくる両目を、雪男は覗き込む。眼鏡を外していたため、兄の顔はよく見えない。少しだけ目を細めて、顔を近づける。キョトンとしたあどけない表情で見つめてくる兄の顔をぼやけた視界でようやく確認して、ついでにキスをひとつ落とす。
(そんな、不安そうな顔をしないで)
雪男は言葉にはしない。音は作らない。その代わり、すべてをのせた唇を、兄の唇にねっとりと重ねる。
(僕はここにいるから。だから、そんな自信なさげな顔をしないで)
傍にいたい。守りたい。そんな思いから祓魔師になった。そして、兄を抱いた。どうしたらこの想いを、この形のままに伝えることが出来るのだろうと、いつも悩んでいる。答えはいつも出せないまま、欲求のままにただ兄を求めていた。
「ゆ、き、お……?」
ちゅ、ちゅ、と音を立てて雪男が唇を重ねてくる。燐の手首と顎は押さえ込まれて、息継ぐ暇もなく唇を貪られた。
唇だけを食むように何度も啄むと、雪男はゆっくりと舌を差し伸ばして、燐の唇をこじ開ける。
「ん……っ…ぅん……」
次第にあがっていく息は、無理やり喉奥に飲み込まされる。蓋をするように雪男の唇で口を覆われて、互いの濡れた舌を交互に絡め取り合った。
「な、に、すんだ、よっ……!」
唇への容赦ない愛撫からようやく逃れるように、燐は首を振って顔を離す。顔を赤くし、乱れた息で肩を上下させながら睨みあげてくる兄に、雪男はさらっと答えた。
「なにって、キス」
ムッ、と燐の頬が膨らむ。
「んなこた、わかってる」
ぺろりと舌を出して唇をひとつ舐めた後、雪男はさらに付け足すように告げた。
「ついでに、もう一回くらいしておこうかと思って」
「は?」
お前何言ってンの? と目を白黒させる燐などお構いなしに、雪男は濡れた己の唇を燐の首筋にひたと押し当てる。そのまま唇をすぼめるようにして力をひとつ籠めて、ちゅぅっと吸った。
「……ッん……!」
燐は片目を閉じて、一瞬身体に奔った甘酸っぱい感触に声をあげる。疼くように走り抜けた短くも甘い快感に、頬が一瞬朱に染まる。
身体は燐が思っている以上に言うことを訊いてくれない。そして、思っている以上に、目の前の弟に対して従順だ。
「って、本気ですんのかよ!?」
手足をジタバタとさせて抵抗するが、のしかかってくる雪男の身体はビクともしない。弟の癖に生意気だと燐は想う。しかし想うことしか出来ない。抵抗を許されない身体は、あっという間に雪男を欲しがり始める。
「大丈夫、まだ五時半だし」
ちゅぷ、ちゅぷ、と音を立てて燐の耳や首筋、胸元に唇を走らせながら、雪男は静かに、そしてのんびりと言った。
「あと一回くらいしたって、遅刻しないよ」