「世界が君を忘れた日」(雪燐小説本サンプル)
次頁 



chapter0:プロローグ



 卵焼きと味噌汁の匂いは朝の匂いだと燐は想う。ふんわり柔らかく焼き上げた幸せ色の黄色の卵焼きを白い皿の上にのせて、用意した二人分の食卓の丁度真ん中に置く。そして、包丁で切れ目を入れれば、甘い香りを弾けさせながら、卵焼きはぷるんっと揺れるのだ。
 食卓の上にはご飯と味噌汁、そして弟の好物である焼き魚を用意する。和風に仕上げるのは彼の好みだからだ。食後のコーヒーの用意も忘れない。白いティーカップをソーサの上にのせて、ティースプーンも一緒にセットする。ガムシロップは付けない。甘いものはそこまで彼の好みではないことを燐は知っていた。
 部屋の中はがらんどうに静まり返っている。窓から覗く空は既に夜が明けていて、生まれたての淡い白をした雲々がぽっかりと青空に浮かんでいる。季節は巡って、初夏を過ぎようとしていた。澄み渡った青空を目に映し、今日も暑くなるなぁ、などと燐は心の中でひとりごちる。幾列も据えられた長いテーブルのうち、燐が使用するのは二人分の席だけだ。広い食堂の一郭に、さっぱりと洗い上げたテーブルクロスを敷いて、二人分の食事を向い合せに用意している。
 昔は寮の学生食堂として使われていたらしい厨房に居るのは、燐ひとりだけだ。正十字学園の旧男子学生寮に住んでいるのは、今や二人のみ。燐とそして…―。
 さぁて出来た、と燐は手をパンッと叩いて、完成した食卓を見下ろす。あとはまだ寝ているらしい彼を起こして、二人でこの食卓を囲むだけだ。しかしそれにしても珍しい。彼が寝坊するなんて、なかなかそう滅多には見れない現象が起こっているぞ、などと燐は悪戯っぽく笑いをひとつ噛み殺して、階上を仰ぎ見る。六〇二号室が、燐達の居住する部屋だった。
 しゃーねーな、と燐はひとり呟いて、足取り軽く食堂を出る。人の気配がひとつもしない廊下を足早に駆け、跳ねるように階段を昇った。
 同居人が寝坊するのは珍しい。彼は燐と違って、学校に遅刻するなどほとんどしたことがないはずだし、成績優秀で人当りもよく、しかも女子からはモテモテだ。「似てない双子だね」と言われるのにはもう慣れた。似てなくとも、この世に唯一無二のたった二人きりの兄弟だった。なんと言われようと関係ない。彼のことは愛してたし、彼もまた燐を愛してると言ってくれた。人前では絶対に言えないことだが、抱き合ったり、キスだってするし、セックスだってする。血の繋がった兄弟なのに、と人は想うかもしれないけれど、逆らえない情動の前に、禁断の理は無用と化した。互いに感情に素直になって、触れ合ったのはほんの数日前だ。最初は彼が無理やりしてきた。普段の彼なら、燐に対してそんなことは絶対にしなかっただろう。しかし事情が事情なだけに、事は急に動いてしまった。
 階段を駆け上がって、目指すは六○二号室だった。ズカズカと大股で飛ぶように廊下を駆け抜け、部屋の扉を押し開ける。
「おーい! 朝だぞっ! 起きろ!」
 張り上げた燐の声は、しかし部屋の中へすぅっと吸い込まれてしまう。声に対する反応はない。
「おい……―?」
 押し開けた扉が、ギィッと虚ろにかしいだ。燐は怪訝そうに小首を傾げて、部屋の中に足を一歩踏み入れる。生活の匂いも、人の匂いもしない、ただの古びた部屋がそこにあった。
(部屋……間違えたか?)
 物が何ひとつ置かれていない机やフローリング、そしてベッドスペースを見てとり、燐は思わず扉の外に回る。部屋ナンバーは間違いなく六〇二だ。
 それなのに、誰もいない。何もない。すべてが空っぽの部屋だ。誰もいない……―? 燐はハタと思い至る。
(俺、……誰を探してたんだっけ?)
 彼だ。彼を探していた。でも、彼とは、誰のことだった?
 燐は思わず両手で頭を抱える。急速に、頭が重たくなっていく。思考速度がゆるく、鈍く、減速していく。墨を流したように途切れていく。自分は何をしていた? 何をするつもりだった? そもそも、彼とは誰だった?
(こんなの、あり得ねぇ)
 頭を抱えて、膝を折るようにしてうずくまる。支えられないほど思考が重くなっていく。吐き気と頭痛、そして眩暈を覚えた。世界が回っていくような感覚だ。己の身体の痛覚は確かにそこにあるのに、思考だけが麻痺していく。
(こんなの、あり得ねぇんだ。……あいつを、忘れるなんて)
 忘れるはずがない。でも、どうしても思い出せない。思い出そうとした端から、強制的に思考回路を切断され、ブラックアウトさせられていくようなそんな感覚だった。たとえ世界が滅んだとしても、忘れえない大切な存在だったはずなのに、どうして自分は忘れてしまっているのだろう。そして、どうしてこんなにも身体も心も悲鳴をあげているのだろう。
 絶望の深淵にひとりうずくまっていると、不意に扉が閉まる音がした。燐は恐る恐る背後を振り返る。音のした方を向けば、そこに影が立っていた。
(誰……? 人……?)
 割れるような頭を抱えながら、燐は胸内に疑問を落とす。全身から汗がべっとりと噴き出ていた。己を襲う感情が、絶望だとか恐怖だとか、そんな言葉で形容するのがピッタリだと燐は悟る。絶望や恐怖と形容するに相応しいその影が、尖った耳に、しゅるりとくねる尾を持っていたいたからだ。
(あ、く、ま……)
 知っている単語を脳裏に呼び出す。それをすべて見て知っているかのように、目の前の影が哂う。
『悪魔は、お前の方だろう? 燐』
 誰だ、と燐は誰何する。しかし、声にはならない。だが、脳内の思念だけでその影とは会話が出来るらしい。影は変わらずに哂いを湛えながら、燐に告げた。
『俺は、お前だよ、奥村燐』
「な、に、……言って……?」
 何を言われたのかわからなかった。痛みに耐えながら、燐は影を見上げる。影はゆらゆらと揺れながら、足音ひとつ立てずに燐に一歩近づく。
『俺はね、ここから出たいんだよ、燐』
「……」
『俺はここから出たいのに、鍵がそれを邪魔するんだ。どうせお前なんて、こんな糞みたいな世界から忘れ去られるだけのちっぽけな存在の癖に、なんで俺の邪魔をする?』
 癪なんだよナァ、と影は言って、ケタケタと笑い出す。足音は立てずに、また一歩、燐との距離を詰めた。
 燐は片手で痛む頭を抑えながら、尻を引きずるようにして後ずさる。正十字学園の寮だと思っていたその部屋は、今は見知らぬ空間となっていた。真っ暗で、上も下も左も右も判別がつかない、広いのか狭いのかもわからないような闇が広がっていた。
 その闇の中でぽっかりと浮かびあがるようにして互いを認識しているのが、燐と、燐を名乗る黒い影だった。
『俺をここから出してよ、燐』
 影は、す、と手を伸べる。握手でもせがむように、燐との距離をまた一歩縮めながら。
『ここから出て、新しい世界へ行こうよ。……そこでは、お前を苦しめる物なんてない。誰もお前を束縛しないし、誰もお前の愛を阻んだりしない。自由で、生き易い世界だ』
 今の世界は、生き難いだろう? と言って、影はまたひとつ燐との距離を詰める。
 燐は唇を噛み、頭を抑えながら影を睨みあげた。
「どこに、行った?」
『あ?』
 途切れがちになる唇を、全身全霊を込めて動かす。割れるような頭の痛みに片目を閉じ、顔をゆがませながら、燐はなおも問うた。
 探していた。彼を。彼は、どこに行ったのだ? いたはずなのに。忘れるはずないのに。どうしても名前が思い出せない、彼。
『ああ、あいつか』
 影は笑った。
『あいつなら、忘れたよ』
「……―」
『お前のことなんて、すっかり忘れて、あの世界で呑気に生活しているよ』
「……!」
 燐は瞠目する。反射的に出た言葉は、影を全否定する物だった。嘘だ、そんなはずない、と。
『嘘なわけないだろう? 俺はお前の心もお見通しだし、あいつの心もお見通しなんだぜ?』
「……嘘だ」
『嘘じゃねぇよ。……ああ、お前、あいつが、欲しいのか?』
「……―」
 燐は答えない。この世で最も絶望的な台詞を吐いて捨てたこの目の前の影を、心底許せなかった。憎悪の念をこめながら、影を睨みつける。
『欲しいのか。そうか、欲しいのか。だよなぁ、お前、あいつのこと、愛しちゃってるンだもんなぁ』
 キャハハハと甲高い哂い声が響く。果ての知れない広大な闇の中を反響し合いながら、笑い声が延々と響き渡った。
『いーよ、わかった』
 影はポンと掌を拳で軽く叩いて頷く。
『あいつが欲しいなら、条件だ。……俺をここから出すこと。わかるな? 出す方法? それはな……―』
 不快でしかないその闇色の声が、緩やかに、しかし急速に遠のいていく。その方法って何だよ、と燐は叫ぶ。遠のいていく声を手繰るように、手を差し伸べた。しかし、声は遠くなっていく。届かない。指先は虚しく空をひっかきながら、燐はすべての意識を闇の中に沈めていった。






次頁 
template : A Moveable Feast

-Powered by HTML DWARF-