(何、考えてる?)
雪男は横目に阿守を伺い、胸に落ちた疑念をとりあえず脇に置く。
「阿守先生はそう言ってますが、まだ未定です。……奥村くんも、本気にしないように」
「ちぇ、なんだよそれ」
がっかりだ、と燐は椅子の上に腰を下ろす。その隣に座っていた杜山しえみは、クスクスと笑う。
「残念だったね、燐」
当たり前じゃ、と噛みついたのは勝呂だった。
「まだ候補生になったばかりや。調子に乗んなや」
「うるせーな」
ぷうと頬を膨らませて燐はいじけたようにそっぽを向く。
そんな燐と、燐をやはり見つめる阿守を交互に見比べた後、雪男はこの話は終わりだとばかりに、塾生達にテキストを開くように指示した。リクエスト通り、悪魔薬学の宿題範囲をテキストページで指示する。教室内からは悲鳴と抗議の声が上がったが、雪男がその声を聞き入れることはない。
「この時間は、残りも自習とします。今言った範囲の宿題をやっていても構いませんから」
そう告げて、雪男は阿守に目配せすると教室を出る。
「こんな広範囲! 雪男のやつ! 鬼! 悪魔!」
半泣きになった燐の抗議を背中に聴きながら、雪男は阿守を伴って廊下へと出た。扉をぴしゃりと閉めると、教室の喧騒が嘘のように、廊下には静寂が横たわる。
「この後、何か予定なんてありましたっけ? 会議なら六限目終わった後でしょう」
スタスタと歩いていく雪男の背中について行きながら、阿守が静かに問う。しかし、雪男はその問いには答えず、逆に訊き返した。
「どういうつもりです? 阿守くん」
「どういうつもり、とは?」
静寂が佇む廊下に、コツコツと二人分の足音のみが鋭利に響く。歩みは止めず、雪男は前を向いたまま、背後の阿守に問うた。
「彼らはついこの間まで訓練生だった。フェレス卿も無茶な人員配置はしませんよ」
「そうですかね? 見れば、日本支部の人手不足は一目瞭然。即戦力は期待できずとも頭数はそろえられるでしょう? それに……―」
阿守はおもむろに言葉を切る。ひと呼吸置いてから、言葉を継いだ。
「君は、訓練生時代から任務に就いてたじゃないか。奥村くん」
「……」
雪男は眼鏡の奥で目をひそめる。今のは嫌味だろうか、それとも? 阿守の意図がいまいち読めず、雪男は少しだけ不安だった。いつもならこんな不安に駆られないだろう。だが、今回ばかりは違った。阿守が射るように見ていた相手が、ほかならぬ自分の兄だったからだ。
(ざわざわする)
なんだろう、と雪男は落ち着かなかった。心がちりちりとざわめき、何かを鳴らしていた。その感覚は、ひどく懐かしい匂いを伴っていた。
(ああそうか)
コツコツと靴音が鳴り響く廊下を進みながら、雪男はようやく思い出す。
(これは、あれだ……小さい頃に、初めて悪魔を見たときの感覚……)
どうしてこんな時に? 雪男は息を呑む。生まれてすぐに魔障を受けた雪男は、幼い頃から日常的に悪魔が見えていた。悪魔はどこにでもいて、雪男に話しかけてくるのだ。何と言っているかはわからなかった。それでもその存在を近くに感じると、身体が分かるのだ。闇に怯えながら生きていたくない、と心に決め、祓魔師になってからは久しく忘れていたその感覚に、雪男は眩暈を覚える。どうしてこんな時に。ずっと忘れていたのに。
「羨ましかったなぁ、優秀な奥村くんが。訓練生が実戦に参加するなんてそうそう例がないから」
阿守の声が低く背後から響く。じりじりと何かに追い詰められているような感覚に、雪男は足を止めると、振り返って阿守を見上げる。
「もう昔の話でしょう。人選はフェレス卿が考えておられるはずだ。中二級祓魔師のあなたには発言権はない」
「ええ、そうですね」
阿守はお手上げです、とばかりにあっさりと雪男の言を認めた。なんだ? と雪男は眉をひそめる。阿守は薄く笑いを浮かべながら、ただね、と言葉を続けた。
「君がどんな反応するか見たかったんですよね」
「?」
「奥村燐を名指ししたら、どんな反応するかなって」
「……!」
思わぬ言葉に、雪男は一瞬呼吸するのを忘れる。驚いたような表情を浮かべた雪男を、満足そうに阿守は見下ろした。
「そうしたら、案の定だった……」
「何が言いたいんです? あれでもいちおう僕の兄です」
呼吸を忘れたのは一瞬だけだ。雪男は気を取り直す。気取られてはならないと己を律する。自分が動揺していることを、この目の前の男に気付かれるのは良くないことだと、雪男の本能めいた直感が教えていた。
しかし、本心というものは隠そうとすればするほど、指の間から零れ落ちる砂粒のようにだだ漏れになってしまうらしい。顔を強張らせて見上げてくる雪男を、阿守は興味深そうに見つめた。
「そんなに、大切? たかが兄貴でしょう?」
「……」
「それとも何? まさか、兄貴以上の存在だったりするわけ?」
雪男の顔に影が差す。触れられてはならない。その想いにだけは。雪男は決めていたのだ。この感情は一生蓋をして、零れないように自分の中だけで守っていこうと。それなのに、いとも簡単にそれを踏みにじろうとしてくる者がいる。
不審と不穏が入り混じった表情で、阿守を睨んだ。そんな雪男に、阿守は、へぇっと漆黒の目を細めて笑った。
「意外だな、君は完璧だと思ってたんだけど。ってことは、奥村燐って君にとっての弱点なのかな?」
「……意味が、分かりませんが」
雪男は努めてゆっくりと言葉を返した。ちりちりと心をざわめかしていた何かが、急速に形を伴って雪男の中に蝕んでいく。この予感はなんなのだろう。昔、遭遇した悪魔の存在を強く感じた時に似たそれが、どうして今、雪男の中で鳴り響くのかわからなかった。
「そのまんまの意味ですよ、奥村先生。せいぜい、その弱点、突かれぬように守るといい」
阿守はゆっくりと口元を引き結んで、笑った形にする。しかし、その漆黒の両目は笑っていない。
さて、と阿守は話題を変えるように声をあげ、足を踏み出す。
「行きましょう? この後、ご予定があるんでしょう?」
コツコツと足音を響かせ、阿守は雪男の脇をすり抜けるようにして通りすがる。すれ違う瞬間、雪男は横目に阿守の顔を見上げた。貼り付いた笑顔はそのままだった。猛禽類にも似たその笑みは、まるで何か獲物でも狙っている動物を連想する。
遠のく足音を背中に訊きながら、雪男は押し黙ったままその場に立ち尽くした。俯き加減になりながら、ぎゅっと両手に拳を作る。棒立ちになりながら、雪男は自然と兄の顔を思い浮かべていた。任務に出られるかもしれない、と無邪気にはしゃいでいた兄の笑った顔が脳裏に弾ける。
(兄さん)
この任務、嫌な予感がする。
ざわつく心が警告している気がする。何か、危険なことが始まろうとしていると。雪男が願うことはただひとつだった。例え何があったとしても、兄を守らなければならないと。
阿守の足音が小さく掻き消えるまで、雪男はその場に立ち尽くし、己を襲うこの予感めいた物の正体を探ろうと思考を巡らせ続けた。