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 問い返した声は二人分だ。同じ声をあげた燐と勝呂は、二人して「ん?」とお互いに見つめ合う。燐の両手を襟首から優しく払うと、志摩は燐と勝呂を交互に見つめた。
「肝試し、どうですやろ?」
「肝試しだ〜? 唐突になんだよ」
 ワケわかんねーぞ? と眉をひそめる燐の向かい側で、そんなもんゴメンだとばかりに勝呂は眉根に皺をひとつ刻んだ。
「さっきのアレの話か。やめやめ、冗談やない」
 手をブンブンと振って、勝呂はテキストに視線を戻そうとする。しかし、そうは問屋が卸さない、とでも言いたげに志摩は勝呂のテキストをひょいと取り上げる。
「何すんのや!」
 額に青筋ひとつ立てて抗議する勝呂を尻目に、志摩はへらと笑んだ。
「まーまー。坊、奥村くんがやりたい言うてますのや。俺らが参加せんとどないしますの?」
「いったい何の話だよ?」
 状況の呑みこめていない燐に向かって、志摩はずいと顔を近づける。近すぎるぞ! と慌てて勝呂が二人の間に割って入った。慌てふためく勝呂には取り合わず、志摩は真っ直ぐに燐を見つめる。
「迷子の幽霊の話ですわ」
「幽霊?」
 キョトンと目を瞬かせる燐に、志摩は説明し始める。
「何でもここ最近、正十字学園内に男の子の幽霊が出るそうで。上級生の何人かが見たと言うて噂になってるんですわ。中には謎かけされた言う人もいるとかで」
「謎かけ?」
「謎かけ言うのは、又聞きですけどその幽霊が質問してくるらしいのですわ。『しりうすはどこだ?』とかなんとか」
「しりうす? 何それ?」
「さぁ? 探し物をしてはる幽霊さんみたいで。で、答えられないと……―」
「答えられないと?」
 志摩は押し黙る。落ちた沈黙に、一体なんだよ、と燐と勝呂は顔を見合わせた。もったいぶるように間を置いた志摩は、ゆっくりと口を開く。
「答えられないと……だいじなもんを盗られるそうで」
「大事な物?」
「そん人にとって、いっちゃん大事な物を幽霊が喰ってしまうとか」
「……―」
 志摩の大真面目な顔を一拍ほど眺めた後、勝呂は「ばかばかしい」と言い捨てた。
「正十字学園には結界があるんやで? 悪魔はもちろんのこと、霊も入ってきよらへん」
「でも、ほんに見た言う人いてるんですわ」
「ほなら、そいつの見間違いや」
 お前も知っとるやろ―、と勝呂が言いかけた時だ。
「おもしろそうじゃねぇか」
 声を張り上げたのは、志摩と勝呂のやり取りを聞いていた燐だった。ガタッと椅子の上から腰をあげて立ち上がる。
「は?」
 何を言い出すのや、と勝呂は両目を瞬かせて燐を見上げた。
「要するにだ、その霊を祓っちまおうってことだろ? 俺は構わないぜ、やろうじゃねぇか」
「や、祓うとかそこまでは言ってへんけど」
 訂正するも、志摩の言葉は燐の耳には届かない。
「俺も立派な候補生だしな。それ位できねーとサタンも倒せねーよ」
「アホか、お前」
 頬杖をついて、勝呂が燐を一喝する。とんでもないバカを見た、とでも言いたげな目で燐を見上げながら、忠告する。
「候補生だからこそ、勝手なことは出来ねーよ」
 しかし燐は底抜けの明るさで笑ってみせた。
「んなもん、いーじゃねーか。ケチケチすんなって」
「いや、ケチケチって問題じゃねーしッ!」
「なんだ? 勝呂、もしかしてお前、……幽霊が怖いのか?」
「怖いわけあるかッ!」
「じゃ、別にいーだろ。―志摩、勝呂も行くって」
「……ッ!」
 勝手に決めんなよ、とこめかみにピキリと青筋を立てた勝呂だったが、燐と志摩が二人揃って屈託ない笑顔で自分の方を見ているのに気づいて、もはや抵抗しても無駄であると悟る。
「……ッ、子猫丸!」
「はいぃ?」
 蚊帳の外にいた子猫丸は、突然勝呂に名を呼ばれてビクッと小柄な身体を震わせる。苦虫を潰したような悔しげな顔で、勝呂は命令する。
「お前も来い!」
「はぁ……」
 勝呂の隣の席でテキストを眺めていた子猫丸はおどおどと肩を落としながら、燐、勝呂、志摩の三人の顔を順番に見つめた。
「でも……―」
「でももヘチマもあるかい。来い言うたら来い」
「いや、そうじゃなくて」
 子猫丸は言いにくそうに視線を左右に泳がせ、ためらいがちに黒板のほうへ指を指す。
「もう、先生いらしてますよって」
「え」
 子猫丸の言葉に、燐と志摩と勝呂は三人とも同じように声をあげ、揃って視線を黒板へと移す。
「僕は自習と伝えたはずなんですがね。仲が良いのは祓魔師になるためにはいいことですが」
 ニッコリと笑顔を貼り付けて黒板の前に立っているのは、悪魔薬学の講師である雪男だ。
「雪男!」
 いつの間に! と燐は目を丸くする。同時に燐の身体を支配するのは言い知れない高揚だった。なんだ、今日は講義は休みじゃなかったのか、と安堵し、嬉しくなってくる。
 春の雪解けのようにみるみる頬が緩む燐の顔を、志摩はチラリと覗き込んだ。
「あ〜あ、やっぱりな」
 含みを持たせたその言い方に、燐は慌てる。
「うるせーな、なんだよ」
 わずかに頬を紅潮させる燐に取り合わず、志摩はにやにやしながら手を挙げる。
「若先生、先生がいなくて奥村くんが寂しがってましたよ」
「え?」
 雪男の眼鏡の奥の瞳が、僅かに見開かれる。
「わ、バカ、志摩!」
 なに言い出すんだコイツ! と燐は顔を赤くして志摩をねめつけたが、志摩はニヤニヤ笑って燐と雪男を交互に観察するように見つめた。志摩の視線を辿るようにして、燐は恐る恐る雪男の顔を見上げた。
「それはそれは」
 雪男は机に座って自分を見上げてくる兄を真っ直ぐに見つめると、次の瞬間ニカッと笑顔を浮かべる。笑顔といっても、胡散臭い方の笑顔である。
「知らなかったな、奥村くんがそんなに悪魔薬学が好きだったなんて。それなら、今日はたっぷり、悪魔薬学の宿題を出しますよ」
「んなッ!?」
 言わんこっちゃない、と燐の表情はひきつる。弟である雪男の容赦ない冷徹な笑顔が、まるでブリザードのように教室内に吹き荒れ、塾生達の上に落ちてきた。
「志摩め…!」
 室内の塾生たちは事の発端を作ってしまった志摩を一斉に睨みつけた。対して渦中の志摩は、アハハ、と乾いた笑顔を浮かべたままポリポリと頭を掻くのみである。
「そんなことより、今日は新しい先生をお連れしたので紹介しようと思います」
「?」
 雪男の言葉に、場にいた皆が一斉に注目する。悪魔薬学の講師である雪男の傍には、見知らぬ男が立っていたからだ。雪男と同じ、祓魔師の任務服を着ている。
「紹介します。祓魔師の阿守光流先生です」
「よろしく」
 隣に立つ雪男よりも頭ひとつ分大きいその男は、ぶっきらぼうにそれだけ言った。浅黒い肌に、短く刈り上げた黒髪、そして精悍な黒い両目が印象的な青年だ。
 そして何より、燐の目を引いたのは、男が腰に携える長剣だった。遠目ではあるが、燐がいつも忍ばせている魔剣・倶利伽羅と柄の形や長さが幾らか似ている。
「阿守先生は僕の祓魔塾時代の同期で、今日から数日間、剣技の講義をお願いしてます」
「剣技ってことは……―」
 雪男の言葉をうけて、勝呂が独り言のように小さく呟く。
「あん人、騎士か?」
 その小さな呟きが耳に届いたのか、阿守はひたりとその双眸を勝呂に向けた。
「ええ、いかにも。あと、詠唱騎士の称号も持ってますが」
 低いが、よく透るその声に、「へえ」と声を上げたのは、志摩と子猫丸だった。二人とも詠唱騎士を目指していたからだ。
「騎士と詠唱騎士の両方持ってはるて、珍しい組み合わせやな?」
「せやな」
 二人のひそひそ話に、阿守は肩を竦める。
「別に。珍しいかもしれないが、難しくはないよ。努力すれば何とかなるものです」
 阿守はそう言って、視線を燐へとスライドさせる。
(なんだ……?)
 漆黒の双眸で射止められるようにじっと見つめられて、燐は小首を傾げる。阿守との面識はなかった。少なくとも燐の記憶では。それなのに、何か言いたげに、この初対面の祓魔師は燐を真っ直ぐに見据える。
 雪男も阿守と燐の様子に気づいていた。兄をじっと見つめる阿守に、雪男は落ち着かなくなってくる。理事長室で、兄である燐に対して険ある言い方をした西条が気になっていたのだ。そして阿守は西条の助手的立場にあった。西条が燐の正体を知っているような気がするのは雪男も容易に想像できたが、この阿守はどうだろう。やはり兄の正体を理解しているのだろうか。メフィストはその件については何も雪男に語らなかった。燐の秘密については、この祓魔塾では一部の教師にしか知らされていない重要な秘密事項なのだ。事情はどうあれ、臨時講師的な立場となる阿守に、兄の秘密は知らされる必要はないように思えるが、メフィストがどう判断したのかまでは雪男は知らなかった。
(下手に触れないほうが良い、か……?)
 雪男は阿守の顔を横目で盗み見る。自分の身長よりも頭ひとつ分大きい阿守は、やはりじっと燐を興味深そうに見ていた。
 下手に勘繰って、墓穴を掘ってしまった、という事態は避けたい。雪男は胸内で算盤をはじいた。仮に兄の正体を知らない場合、下手に探りを入れれば、逆に兄の正体を知ってしまう可能性だって捨てきれない。それは避けたかった。だが、警戒するに越したことはないだろう。この祓魔塾において、「魔神の仔である兄を守る」という立場に雪男が立った時、相手が敵となるか味方となるか、慎重に推し量らねばならなかった。そして、この祓魔塾内において、ひいては正十字騎士團において、雪男がその立場になった時、敵となりうる者は数多く存在することが容易に予想できるのだ。それだけ、魔神の存在というのは脅威であった。
 とりあえず、と雪男は密かに巡らせている思考を置いて、目の前の仕事に戻る。
「阿守先生が祓魔塾に来たのは理由があります。……―実は、正十字学園の学術研究所で、今度『ルシファ・タイト』の一般公開が決まったんです」
 雪男の言葉に、目を見開いたのは勝呂達だった。
「なんだ? その、ルシなんとかって?」
 呑気な質問を投げるのは、たいていお決まりの男だ。あのな、と勝呂は立ち上がり、青筋を額に浮かべて燐をねめつけた。
「ルシファ・タイト! 超がつくほど有名な宝石や。なんでお前、祓魔師になりたい言うてるのにこんなことも知らんのや!?」
 そんなこと言われてもな、と燐は目をパチクリとさせて、噛みついてきた勝呂の顔を見つめた。そのあどけない表情に、勝呂は一気に怒る気を失くしてしまう。勝呂にとって、奥村燐という者は謎な存在だった。燐はいつもこうなのだ。祓魔師を目指すならば知っていて当然と思えるようなことを何ひとつ知らず、無邪気に訊いてくる。
「もうええ。俺、疲れてきたわ……」
 そう小さく呟くと、勝呂はすとんと椅子の上に座る。
 言いたいことはごもっとも、と頷くのは雪男だった。どうも兄は、こういう知識的なところが弱い。
「いいですよ、もっと言ってやってください、勝呂くん。その方が奥村くんのためですから」
 しかし勝呂は力なく首を振る。まぁまぁ、と言いながら、顔には似合わず心労の多い幼馴染の肩にポンと手を置いて慰めるのは志摩の役目だった。
「疎い奥村くんのために説明しますね」
 なにぃ? と燐は口をへの字に曲げる。しかし雪男は涼しい顔だ。
「ルシファ・タイトは、勝呂くんの言う通り、とっても有名な宝石です。おそらく、世界に一つしかない、ダイヤモンド……」
「ダイヤモンドの何が珍しいんだ? 確かに俺、本物は見たことねぇけどよ」
 やはり続く無邪気な燐の質問にもめげず、雪男は続けた。
「その昔、今から一六年前、サタンが世界中の聖職者を大量虐殺した日を、みなさんご存知だと思いますが」
 は、と教室内の空気が凍りつく。雪男の言葉に息を呑んだのは燐とて例外ではなかった。その日のことを、皆は「青い夜」と呼ぶ。そのことくらいは、疎い燐でも知っていたし、他でもないその青い夜の生き残りである祓魔師・ネイガウスから命を狙われたこともあったからだ。
 脳裏に蘇る、ネイガウスの呪詛のような言葉を燐は思い出す。サタンの息子などもってのほかだ、とネイガウスは燐の存在を全力で否定したのだ。あの出来事を想うと、燐の心は自然と沈んでいく。初めてサタンと対峙した日、無理やり虚無界の門をくぐらされそうになった時に味わったあの絶望感にも似た真っ暗な感情に、燐の心は引きずり込まれそうになる。
 そんな燐の胸中とは裏腹に、雪男はどんどん話を進めた。
「あの『青い夜』の生き残りの祓魔師が、サタンの青い炎を手中に収めることに成功しました。その青い炎を閉じ込めた石が、『ルシファ・タイト』です。この石が、明日から二週間、正十字学園内の学術研究所で一般公開されることになったんですが、この石を狙う悪魔が出てくる恐れがあります。それで、祓魔師で警護する必要が出てきたのですが、この阿守先生が応援に来て下さった、というわけなんです」
 雪男の説明に、勝呂や志摩、子猫丸はひそひそと耳打ちし合う。
「まさかこの目でサタンの炎を拝む日が来るとはな……」
「しかし、大丈夫ですやろか……石に閉じ込めたとはいえ、サタンの炎ですやろ?」
「お前はほんま心配性やな、子猫丸。一般公開されるっちゅうことは、大丈夫ってことやろ」
「せやけど……」
 肩を寄せ合ってひそひそと耳打ちし合う三人組を一瞥して、雪男はコホンと咳払いした。弾かれたように三人は顔を上げる。
「それで、候補生の中からも、この任務に参加せよとの理事長のお達しです。人選は後で発表しますが……―」
「あ、俺、やりてえ!」
 光の速さで挙手すると同時に燐が立ち上がる。
「はっや!」
 教室内の塾生のほとんどが、片手をあげてぴょんぴょん跳ねる燐に注目した。
「お前、さっきまで何の石やとか言うとった分際で……」
 勝呂は呆れ顔だ。
「いいじゃねーか、細かいことは気にすんなよ」
 そう言いながら、いいだろ? と燐は顔を輝かせて雪男の方を見る。常々、燐は座学が苦手で、自分は実戦派だと豪語していた。それはある意味、雪男も認めたくなるのは事実だった。
「あ、でも奥村くん、肝試しは……―」
 思い出したように志摩が言いかける。そういえばそんな話してた、と燐が先ほどのクラスメートとの会話を思い出す事よりも、肝試しという言葉に反応した雪男が眉をひそめる方が速かった。
「さっきのその霊の話ですが、上でも話が出てます。追って指示あると思いますので勝手な行動は起こさないように」
 雪男にはバッチリ聞かれてしまっていたらしい。肝試し計画を練っていた志摩は、あちゃちゃ〜参ったナァとばかりに頭を掻いた。志摩の心の中では、肝試しをダシにクラスメートの女子達を誘おうなどという魂胆があったからだ。こうして仮にも塾講師の雪男から公に行動禁止宣言をされてしまうと、誘えるものも誘えなくなってしまう。
「ルシファ・タイト警護の任務ですが―」
 唐突に口火を切ったのは、阿守だった。え、と雪男は思わず阿守の顔を見上げる。浅黒い肌をした阿守の漆黒の両目は、真っ直ぐに燐を射ていた。……その眼前の事実に、雪男の中で何かがゾワリとそぞろ立つ。何を言う気だ、人選などまだ何も決まっていない。この後の職員会議で決めるはずなのだ。そして何より、訓練生から候補生になったばかりの面々に、任務を与えるかどうかは微妙だったからだ。
「奥村くん。……君にもやってもらいましょうかね」
「ホントか!? ……ってか、なんでアンタ、俺の名前知ってんの? あ、雪男から聞いたのか」
 名指しされた燐は、単純明快に両手を挙げて浮かれながら雪男を見る。しかし、雪男はそれに対して呑気に笑い返すことが出来なかった。





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